季語について

 

このブログは、下に、駄句をひとつ載せることを自分のル-ルにしています。
俳句には季語があって、
たとえばウグイスは、けっこう暑くなってからも鳴いているのに春の季語。
金魚を水槽で一年中飼っているとしても夏の季語。
なので、
俳句をつくるときに、
なんとなく、これは春だろう、これは夏だろうと思っても、
また、
これは季節に関係ないだろうと思っていたのに、
調べてみたら
冬の季語(たとえばタヌキ)だったりしますから、
めんどうでも、
歳時記で確認しないと間違えてしまうことがあります。
どうしてこれがこの季節?
と感じるものが少なくありませんが、
残暑きびしき日がつづく今日このごろのこととて、
「涼し」という季語のことが思い浮かびます。
わたしが使っている『合本 俳句歳時記 第三版』(角川書店)で「涼し」を引くと、

 

暑い夏に涼気を覚えること。朝夕の涼しさ、水辺の涼しさ、星の涼しさ、
露の涼しさなど、
俳句では暑さの中に涼しさを捉えて夏を表現する。

 

と書かれています。
この説明文を読んで思うのは、
語がいずれかの季節に含まれるというよりも、
ことばが季節を支え、
ある特定の季節を表現するのに役立っているということ。
あることばの指し示すものが二つ、三つの季節、
また一年中見られるものであっても、
そのことばがいつの季節を表現するのに役立っているか、
それは古来日本人が、
そのことばとどの季節を結びつけ捉えてきたかを知る、
いわば、
日本人のこころを知るのにも有益な気がします。
季節がことばを後押しし、
また、
ことばによって季節が支えられている、
そんな風に考えると、
俳句作りが楽しくなります。

 

・夏草や賑はふ昼をとどめをり  野衾

 

正しい人はいない

 

この地上に、正しい人は一人もいない
善を行い、罪に陥ることのない人は。

 

旧約聖書「伝道者の書」にでてくることばです。
「新改訳2017」では「伝道者の書」
ですが、
ほかの訳だと「伝道の書」だったり「コヘレトの言葉」だったりと、
すこしずつ異なります。
引用した箇所の文言も、
すこしずつ違います。
『聖書』を初めて読んだのが十九歳、
けっこうながく親しんできまして、
いまも毎日読むのを日課にしていますから、
いかに物忘れの激しいわたしでも、
長くない、いくつかのフレーズは暗記していて、ことあるごとに思い出します。
意識的に思い出すのではなくて、
不意に口を衝いてでてくる感じですかね。

 

この地上に、正しい人は一人もいない
善を行い、罪に陥ることのない人は。

 

あたりまえと言えばあたりまえのことばのようですが、
年齢を重ねるとともに、
思い出すことが多くなりました。
味わいの深いことばです。
人間関係、コミュニケーションの要諦としても肝に銘じておきたいことば
であると感じます。
じぶんが正しくて、相手の方が悪い、非は相手にある、
と思っている限り、
よき関係をきずくのはむつかしい。
いかに外面をよくしても、
腹のうちで「じぶんは正しい」
と頑なになっている限り、
ふかいコミュニケーションは成り立ちません。
わたしにも非がある、じぶんは正しくないかもしれない、と本気で思った分だけ、
こころはゆるむ、
のではないでしょうか。
お互いのこころが、そうやってゆるんだ分だけ、
相手の良さが、頭で考えるのではなく、
目に見えるようになり、
コミュニケーションの可能性が生まれてくるのだと思います。
この世の悩みの多くは、
人間関係にあり、
それは洋の東西を問わず、古今を問わないようです。

 

・峠道涼しき風の白さかな  野衾

 

とほほのヘーゲルさん

 

哲学者というのはこわい顔をしている、というイメージが多分にありまして、
それはヘーゲルさんによるところ大であります。
それとフッサールさんかな。
そのヘーゲルさんの伝記を読んでいたら、
『精神現象学』や『大論理学』をものしたヘーゲルさんも、
浮世のことではそうとう困ったろうなと笑ってしまうエピソードが記されており、
あのこわそうな顔を脳裏に浮かべつつ、
人生のままならなさを思わずにはいられませんでした。
ニュルンベルクのギムナジウムで校長先生をしていた当時のこと。

 

とにかく学校の管理のために過大な要求が突きつけられていると彼は思っていた。
校長の職務を減らせてもらえるなら、
一〇〇グルデンの特別手当を返上してもいいとも思った。
そんな金のために「時間の無駄使い」
はしたくなかった。
「補助クラス」の便所が軍隊に接収されるというスキャンダラスな状況があって、
彼はこの問題と何週間も格闘していた。
生徒たちは近所の民家の便所に招かれざる客として押しかけ、
近所の住民からの学校への苦情を覚悟せねばならなかった。
校長にできることと言えば、
生徒の親に
「学校ではできるだけ用便をしないよう子供をしつけてほしい」
と頼み込むことだけであった
(一八〇九年二月十二日付、ニートハマー宛の手紙)。
(ホルスト・アルトハウス[著]山本尤[訳]『ヘーゲル伝 哲学の英雄時代』
法政大学出版局、1999年、p.246)

 

・栗鼠の尾や道の空なる秋風に  野衾

 

そのときどきの今を語る

 

中世ドイツの神学者をテーマに博士論文を執筆された研究者の方が、
本の出版に関して打ち合わせのために来社。
いつものように、
事前に論文を精読し、
当該神学者を取り上げた他の既刊の書籍を読んだりして、
提示された論文についてのわたしのとらえ方を吟味し打ち合わせに臨みました。
それはいわば予習していたことの発表の場、
でもあったわけです。
本の打ち合わせは総じてそういう形になります。
ところが、
いくら予習していても、
打ち合わせ当日のわたしのからだ、わたしのこころ、わたしのあたま、
まではわたし自身予測不能ですから、
どういうことばでどう語るかは、
その場になってみなければ分かりません。
そういう認識は、
打ち合わせに限らず、講演でも、対談でも、鼎談でも、
これまでもボンヤリとはあった
のですが、
きのうはそのことをハッキリ途中で意識できました。
大げさみたいですが、
わたしには強烈な驚きでした。
「いま」に触れた。
「いまを生き」ている
ことの恩寵とでもいったらいいのか、
なにかすばらしい時間を、
そんなに長くつづいたわけではなかったけれど、
刻々体験しそれを味わい意識し、
その喜びに満たされていたと思います。
時時刻刻を体感する喜びが、
日々の仕事のなかに可能性として常に埋め込まれ秘められている
と気づかされた瞬間でもありました。
歓喜の波はやがてしずかに収まっていきました。

 

・水澄みて乙女の像の白きかな  野衾

 

浮世のことは

 

世間のことを浮世(うきよ)といいますが、
本を読んでいてこのことばに出くわすと、
いつも思い出すのが
『男はつらいよ 寅次郎忘れな草』。
浅丘ルリ子さん演じるリリーさんと寅さんの出会いが描かれる忘れられない回
であります。
リリーさんが、
自分のこと自分の生活のことを、
あってもなくてもどうでもいいような、
あぶくみたいなもんだと少々自嘲気味に言う。
すると寅さん、
共感するようにうなづいて、
「うん、あぶくだよ。それも上等なあぶくじゃねえやな。
風呂の中でこいた屁じゃないけども背中の方へ回ってパチン!」
なんてことを言う。
リリーさん、
思わず笑いがこみあげ…。
前の日の夜汽車での無言のシーンと併せ、
印象深く、
シリーズ中いちばんと言っていいぐらい好きな場面です。
『広辞苑』で「浮世」を調べると、
見出し語として【憂き世・浮世】となっており、
(仏教的な生活感情から出た「憂き世」と漢語「浮生(ふせい)」との混淆した語)
の説明があります。
『男はつらいよ』には、僧侶がでてきたり、
寅さんが僧侶に扮するシーンもあり、
仏教との親和性が高い映画といえるかもしれません。
まさに
「よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。」
であります。
背中の方へ回ってパチン!

 

・水澄むや森の樹液の上り下り  野衾

 

トイレットペーパーのこと

 

二、三年、あるいは四、五年ぐらいのゆるい感じで、
小学校以来習ってきた歴史の勉強を改めてしてみたい気持ちが湧いてきました。
歴史上の事実というよりも、
それをつないだところの歴史の見方、
いつの間にかわたしの中に刷り込まれている歴史観がどういうものか、
それを相対化し、
ちょっぴり羽を伸ばしてみたくなりました。
ひとことで言って、
わたしの中の「発展段階説」にクエスチョンマークが付き始めた。
「発展」ということばには、
いい方へ向かうという価値が含まれていると思うんですね。
だけど、
ほんとにそうか?
というのを、
じっくり考えてみたくなりました。
トイレットペーパーの話は?
はい。
「歴史=発展段階」に疑問符が浮かび始めるのと同時くらいに、
「発展」はひとまず置いといて、
「便利」となると、
これはもうたしかに便利になっているなー
と思ったわけです。
たとえば、
冷蔵庫の製氷機。
昭和の子どもとして生きたわたしにしてみれば、
いまの製氷機は感動ものです。
昭和冷蔵庫の製氷機、
わたしの家にあった冷蔵庫のことで言いますと、
枠に水を入れ、
こぼさぬように冷蔵庫のしかるべき場所に収めるのがたいへん!
取り出すときがまたたいへん!
水道水のような、
ぬるい水をかけないと枠から氷が外れてくれない。
それはそれは面倒くさかった。
さて、
最後に控えしトイレットペーパー。
このことを言いたかった。
シャワートイレ用のトイレットペーパー
というのが世にありまして、
これ、
よく考えたなあと、
つかうたびに感動します。
12ロールが入っているビニール袋に、
「水にぬれても破れにくい」「たっぷり吸水! 肌にくっつきにくい」
とありまして、
ホントその通り!
ふつうのトイレットペーパーだと、
こうはいきません。
紙が濡れて破れてお尻の中央の凹部の辺りにペタリくっつく。
はがすのがまたたいへん。
恐る恐る指を這わせて、
破れた紙片をさぐり当てる。
というわけで、
まさに、
シャワートイレ用トイレットペーパー様様
なんであります。
事程左様に、
時代とともに、便利グッズが増え、
便利になっていることは否定しようがなく、
それは人間が人間であるかぎり、これからも変ることはないでしょう。
しかしそれが発展と呼べるか、
となると、
そうかそうなのか?
と疑問がもたげてまいりまして、
学校から離れたところで、
ちゃんと自分で、じぶんの頭で考えたくなった次第です。

 

・深き影ひかり輝く夏の雲  野衾

 

それはむつかしい

 

ナウエンさんの本を、帰宅後まいにち一ページづつ読むのを数年つづけていますので、
おなじ文章を数度目にしていることになりますが、
印象がその都度ちがって、
わがことながら、
おもしろいものだなあ、と、つくづく思います。
まったく新しい感想を持つこと間々あり。
きょう引用する箇所など、
理屈では分かるけど、
それはむつかしいなぁ、であります。

 

人に深く傷つけられた時、敵愾心、怒りや憎しみ、そして時には復讐心すら起こる
のを押さえるのはほとんど不可能です。
これらは往々にして、
内面から制御を受けることなく知らぬ間に生じて来ます。
自分を傷つけた人に何を言い、
何をすれば仕返し出来るだろうか、
とただ思い巡らしている自分に気づきます。
そんな時、
呪いの代わりに祝福を選ぶには、
大きな信仰の飛躍が求められます。
仕返ししてやりたい要求を自ら進んで乗り越え、
いのちを与えようとすることを選び取る心の姿勢が求められているのです。
時には、
そのようなことは不可能に思われるかもしれません。
けれども、
傷ついた自分を乗り越え、
神から与えられた自分を取り戻すたびに、
自分自身にいのちを与えるだけではなく、
自分を傷つけた人々にもいのちを与えることになるでしょう
(ヘンリ・J・M・ナウエン[著]嶋本操[監修]河田正雄[訳]
『改訂版 今日のパン、明日の糧』聖公会出版、2015年、p.299)

 

・少年の夢よどこまで夏の雲  野衾