「喜」「怒」「哀」の先の「楽」

 

筆者の一人(真保呂)がよく覚えているのは、
八〇年代末、中井さんが『カヴァフィス全詩集』の翻訳で読売文学賞を受賞した時期に、
その当時に自宅にいた祖母が痴呆症状を示したこともあって、
診察がてら遊びにきたときのことである。
そのとき、祖母の状態を尋ねた筆者にたいして、
中井さんはこのような話をしてくれた。
以下、会話調で再現する。

 

中井 人間はね、赤ん坊から「喜怒哀楽」の順番に感情を覚えていくんだけれど、
年をとったり精神を病んだりすると、
「喜怒哀楽」の「楽」から順番に感情を失っていくものなんだ。
筆者 なるほど、でも「喜」と「楽」ってどう違うんですか?
同じような感情に思えるけど。
中井 満足すると「喜」。満足できないと「怒」。それが続くと「哀」。
でも「楽」っていうのは、その三つの感情を超えた感情だね。
筆者 どういうことでしょう?
中井 わかりやすくいうと、ゲームに勝つと喜び、負けると怒る。
そして負けつづけると哀しい。
しかし、それでも「もう一度」ってゲームを続けようと思うのが、楽しむってことだな。
つまり、「喜怒哀」の全部を受け入れて、
その先にあるのが「楽」というわけさ。

 

このときの会話を筆者はしばらくのあいだ、ほとんど忘れていた。
大学院時代にフロイトの著作を読んだときに、断片的に思い出した程度だった。
しかし、専門学校や大学で授業をするようになり、
精神的な問題を抱えた学生たちの対処をしているとき、ふと記憶が鮮やかによみがえり、
いつしか自分もそうした学生にたいして、
中井さんの話したのとそっくり同じ内容を伝えるようになった。
そして、この会話の中井さんの言葉が、
彼の人生観と世界観をそのまま縮約したものであることを理解したのは、
だいぶ後になってからのことである。
筆者は五年程前にパリで、知り合いの初老の女性カウンセラーから、
夫が若い女性と駆け落ちしたと聞いて、
彼女を慰めるために
「私の父と同年齢の精神科医の言葉だけれど」と断ったうえで、
先ほどの喜怒哀楽の話をした。
すると彼女は大粒の涙を流し、私を背骨が折れそうになるくらい強く抱きしめて
「その精神科医の言葉は私の魂を救ってくれた」と言い、
こう付け加えた。
「私たちフランス人がよく言うセラヴィ(それが人生)って、そういうことなのね」。
(村澤真保呂・村澤和多里『中井久夫との対話 生命、こころ、世界』
河出書房新社、2018年、pp.228-9)

 

二ページまるまるの引用です。著者たち二人の父親と中井久夫さんが親友で、
著者たちはものごころついた頃から
「中井久夫」の名前を聞かされて育ったという。
時間の長さにかんけいなく、
肝胆相照らす仲というのもあるかもしれませんが、
この本は、
ひとのちからではどうすることもできない時間によって醸される行き交い、
とでもいったものが、
そこここにしずかに鳴っており、
それがこちらの深い処にひびいてきます。
引用を、
著者の一人村澤真保呂さんと中井さんの会話だけで済ませようとも思いましたが、
中井さんとの会話が著者のこころにずっとのこっていて、
仕事がらもあってよみがえる箇所に唸り、
さらに、
それがフランス人の女性との会話の際に、
意識して話し出すところも、
言い知れぬ感動を覚え、
読むだけでなく、
入力する身体動作をつうじてもわたしのこころに刻んでおきたくて、
ながく引用しました。
著者たちのご尊父は、2004年1月2日に他界されたとのこと。
ご尊父を見舞いに行ったときの中井さんの行動も、
涙なしには読めませんでした。

 

・思ひ出は後悔もある桜かな  野衾