確かに、何が善で何が悪であるかの基準の問題はさておいて、
道徳性や行為の善悪が問題とされうるのは、
現存在が、自らの行為の可能性を選択しうるような存在であること、
つまりはその選択の責任を負いうる、
選択は自らに拠るという意味での自由な主体としての「責め在る」存在である
ということが露呈されて初めて、問題とされうるのではあった。
このことは、
あらゆる現存在が、非本来的なあり方において、
ただ世界の方から己を了解し、
世界の方から、
誰のものでもあって誰のものでもない世人自己として何らかの行為の可能性を
そのつど選び取っているだけである限りは、
どの個人も、責任ある主体としてのあり方をしているとは言えない、
ということを意味する。
例えば、
当事者のすべてが世人としてのあり方をしていたならば、
そのうちの誰一人として、
電力会社が国策において行った原子力発電が引き起こした事故の責任者ではない、
といったようなことが生じうる。
世人は、そもそも「責め在る」存在たりえないからである。
その結果、
非本来的な世人の集まりとしての共存在からは、誰も責任を取らない、
いや取ることができないままに巨大収奪機構の中に捲き込まれてゆくだけの組織しか、
生まれようがないということになる。
(上田圭委子『ハイデガーにおける存在と神の問題』アスパラ、2021年、pp.418-9)
高校の教師をしていたころ、二度、水俣を訪ねたことがありました。
いまはどうか分かりませんけれど、
当時、
「現代社会」の教科でも「政治経済」の教科でも、
公害問題が取り上げられていましたので、
水俣病について、
本に書かれていること以上に知りたい気持ちに駆られてのことでした。
訪ねた折ちょうど、
水俣病に認定されていない地元の人々の、
会社側との自主交渉の場に参加させてもらえる機会がありました。
五人でしたか、会社側の「お偉いさん」が並び、
体調の不具合を訴える切実な質問に対して規定どおりの答えを繰り返していたとき、
わたしの後方から叫びに近い声が上がりました。
「お前ら、それでも人間か」
ふり返ってみると、
髪の茶色い、おそらく高校生でしょう、
若い女性でした。
わたしは、わたしの勉強にとって、
そのことだけでも、
水俣に実際に足を運んだ甲斐があったと思いました。
むつかしい哲学の本を読んでいると、
字句の辞書的な意味を追うだけで汲々としてしまいがちですが、
上田さんの『ハイデガーにおける存在と神の問題』
には、
アクチュアルな問題意識がピーンと張り詰められており、
改めて、
本を読むこと、そのことをとおして思索すること
の意味と意義について深く考えさせられます。
・乳母車母と子と吾に冬の月 野衾