科学者と神

 

哲学の本を読んでいると、自然をどう見るか、についての言説が少なくなく、
その際「神」を持ちだすか否か、
ということはおもしろいテーマですが、
自然科学者の場合はどうなんだ?の疑問が湧きまして、
調べてみたら、
ちょうどズバリの本がありました。
著者は三田一郎さん。三田と書いて「さんだ」。
さんだいちろうさん。
1944年東京都生まれ。名古屋大学名誉教授。専門は素粒子物理学。
また、
南山大学宗教文化研究所客員研究所員、
カトリック名古屋司教区終身助祭、
カトリック東京大司教区協力助祭を務めておられます。

 

また、ニュートンには次のような逸話も残っています。
彼が腕利きの機械職人に注文して、太陽系の精巧な模型を作らせたことがありました。
歯車によって惑星が動く仕掛けになっている、凝ったものでした。
ある日、
ニュートンの部屋を友人の科学者が訪ねてきました。
彼は無神論者でした。
テーブルの上に置かれた模型に気づいた彼は、惑星を動かしてみて、
感服した様子でニュートンに尋ねました。
「実にみごとな模型だね。誰が作ったんだい?」
読書をしていたニュートンは、本から目を離さずに、こう返事をしました。
「誰でもない」
面食らった友人が聞き返します。
「おいおい、
僕の質問がわからなかったのかな。僕は、誰がこれを作ったのかと聞いたんだよ」
ニュートン、今度は友人の顔を見て、真面目な顔でこう答えます。
「それは誰が作ったわけでもない。
いろいろなものが集まって、たまたまそうなったのさ」
友人は気色ばんで言い返しました。
「人をばかにするものじゃない。誰かが作ったに決まってるだろう。
これだけのものを作るとは、かなりの腕前だよ。
それは誰かと聞いているんだ」
ついにニュートンは立ち上がり、友人の肩に手を置いて、語りはじめました。
「これは偉大な太陽系を模して作った、単なる模型だ。
この模型が設計者も製作者もなく、ひとりでにできたと言っても、君は信じない。
ところが君はふだん、
本物の偉大な太陽系が、設計者も製作者もなく出現したと言う。
いったいどうしたら、
そんな不統一な結論になるのかね?」
それを聞いて無神論者の友人は、創造主が存在することを納得したというのです。
実はこの逸話は、
ニュートンではなく別の人物のものである可能性もあるようですが、
創造主としての神についての彼の考え方はイメージしやすいのではないかと思い、
紹介しました。
このようなニュートンの神への信仰の深さを、
みなさんは意外に思われるでしょうか。
それとも、
自然なものと感じられるでしょうか。
(三田一郎『科学者はなぜ神を信じるのか コペルニクスからホーキングまで』
講談社ブルーバックス、2018年、pp.125-7)

 

講談社のブルーバックスというのが、まず懐かしい。
中学生、高校生のころに、宇宙に関する本を買った記憶があります。
星雲のカラー写真も載っていたような。
興味のもとは、さらに遡って、
小学生のころの記憶につらなります。
学校帰り、
てくてく、とぼとぼと家に向かっているとき、山々に目を馳せ、
それから空を見上げました。
空の向こうのまた向こう、そのまた向こうはどうなっているんだろう?
こたえのない想像はふくらみ、
いつも眩暈がしてくるようでした。

 

・来てみればふつう貌なる師走かな  野衾

 

計画変更

 

わたしが持っている岩波文庫の『哲學の慰め』は、昭和13年11月初版、
その第8刷(昭和25年12月)。
そうとう茶色く変色し、
たまにぱらぱらめくって眺める具合でいたところ、
今年、
京都大学学術出版会から新訳で出版されたことを知り、さっそく求めました。
読む順番がきたら読もうと思い、
とりあえず、
本に挟んであった月報だけ見てみようかな、
と読み始めたのがいけない。
永嶋哲也さんの「救済としてのコンソラチオとその裾野の広がり」
により、
この本を先に読みたい!
の気持ちが勃然と湧き起こり、読書慾が俄かに刺激されました。

 

コンソラチオ
(ボエティウス『哲学のなぐさめ Consolatio Philosophiae』を以下、
こう呼ぶことにする)に関して、
少し前まで西洋では聖書に次ぐベストセラーであったということはよく言われる。
つまり聖書と同等というほどではなくとも、
それなりに「教養ある者なら誰でも知っている本」
であったことを意味する。
そのことをC・S・ルイスはThe Discarded Imageの中で
「ほぼ二百年以前のころまでは、
ヨーロッパのいかなる国においても教養のある人で
この作品を愛さない人を見出すのは困難であっただろうと思う」
と表現している。
(C・S・ルイス『廃棄された宇宙像』山形和美監訳、八坂書房、二〇〇三年)
しかし日本ではどうであろう。
一部の目利きが早い時期から翻訳に取り組み
(岩波文庫に収められた畠中尚志訳の初版は昭和一三年、つまり一九三八年である)
本邦での紹介に尽力していたことには感服という言葉以外思い付かないが、
残念ながらその裾野はあまり広がらなかったし、
現在でも広がっていないと思う。
そのような事態に対する嘆きについては、
現在、この文章を読まれている諸氏ならば共有していただけるのではないだろうか。
ところで、
日本においても誰もが知る外国の書籍の一つとして
『ロミオとジュリエット』
が挙げられる。
シェイクスピアの原文とまではいかなくても、
いく種類もある日本語訳のどれかを読んだことがある人も少なくないだろう。
しかしその『ロミオとジュリエット』
のなかで
コンソラチオがかなりあからさまにほのめかされているのにはお気づきだろうか。
物語が悲劇的結末への階段を登り始めたあたり、
キャピュレット家のティボルトを殺してしまったモンタギュー家のロミオに対して
ヴェローナの大公が下した罰の判定を、
フランシスコ会の修道士ロレンスがロミオに伝えるシーンである
(第三幕 第三場)。
本来、死刑とすべきところを大公がロミオに温情をかけ
ヴェローナからの追放となった
とロレンスが告げるが、
若く未熟なロミオは激昂し、それは死罪より残酷な拷問、
ジュリエットのいない場所に追放になるくらいなら
いっそ殺して欲しかったと応える。
(『西洋古典叢書 月報158』pp.2-3)

 

もっと引用したいところですが、長くなりますので、ここまでにします。
永嶋哲也さんによれば、
ロミオに語りかける修道士ロレンスのセリフを観劇で聞いて、
その中の「哲学」がコンソラチオをほのめかしていることに気づかない知識人は、
エリザベス朝の時代、一人もいなかっただろう、
とのこと。
ちなみにエリザベス一世は、
自らコンソラチオを英訳しているそうです。
しかし、若く未熟なロミオは、どうやらコンソラチオを読んでいない。
あるいは、
読んでいたとしても
恋に盲目の少年にピンとくるはずはなかった。
は~。
宜なるかな、であります。
というようなことでありまして、
読書の計画を大きく変更せざるを得ません。

 

・明滅す賢治もゐたり冬の星  野衾

 

読書計画

 

いつの頃からか、これを読み終えたらつぎはアレ、そのつぎはアレ、そのつぎは、
というように、いちおう自分なりのゆるい計画を立てるのですが、
その通りに進むことはまずありません。
しょうがないか、と思うものの、
やや後ろめたい気持ちがないわけではなく、
ハ~だったのですが、
先だって、
ベルクソンさんの本を読んでいたとき、
自分と世界との関係を万華鏡を例にして記述している箇所に出くわし、
なるほどなあ、
と、
しばし一人合点しました。
感覚がちょっと変っただけで世界の様相はがらりと変化する。
まるで万華鏡のように。
ほんとうに。
読書にかぎらず、
計画通りに進むことの喜びはあるけれど、
計画通りに進まないことの味わいはあるわけで、
そのことを感じ考えることは「今」の直観に触れている気がします。
これも「哲学の慰め」のひとつかなと。

 

・冬の星いま地球に届きけり  野衾

 

月に慰められる

 

「月」だけだと、俳句的には秋ですが、「冬の月」となると、
すさまじい感じが伴い、また格別です。
『新古今和歌集』1782番は、
慈円さんの歌で、

 

思ふことなど問ふ人のなかるらん仰げば空に月ぞさやけき

 

峯村文人(みねむら ふみと)さんの訳は、
「わたしの思い嘆いていることを、どうして、
問い慰めてくれる人がいないのであろうか。
仰いで見ると、空に月がさやかに澄んでいることだ。」
この歌は、
建仁元年(1201)二月に後鳥羽院が主催した「老若五十首歌合」の中のものですから、
冬の月を見ての感懐だったのかもしれません。
いま空にある冬の月も、
八百年前の冬の月も、
同じように人のこころを慰めてくれることが、
歌を通して知ることができます。
この歌の月について、
峯村さんは、真如の月を暗示すると注しておられます。
真如の月はこころの迷いを破る悟りを示す月、
と。

 

・凩や灯りの下に佇めり  野衾

 

哲学書を読むよろこび

 

仕事の関係もありますが、この仕事に就くまえから、
割と好んで哲学書を読んできた気がします。
西暦480年ごろに生まれ、525年ごろに反逆罪に問われ処刑されたローマの哲学者に
ボエティウスさんという人がいまして、
獄中で『哲学の慰め』を書きました。
この書名が今のわたしにはいちばんぴったり来ます。
哲学のことばは難しく、難しいのが哲学、
みたいな印象もありますけれど、
読んでいるうちに、
ほかの本では味わえない得も言われぬ、ほのかなよろこびに満たされることがあります。
哲学の本を読むことで慰められる、
哲学の本には、そういうところがあるようです。
岩波文庫の『哲学の慰め』は、
畠中尚志(はたなか なおし)さんの訳です。
このごろは、
ベルクソンさんの文章に慰められています。

 

まったく純粋な現在のなかだけに生き、
一つの外的刺激に、直接的反応でとっさに応えるというのは、
下等な動物[に類する人間]に固有の生き方である。
そのような生き方をする人間は、衝動的人物である、と言われる。
しかし、
過去に生きることを喜びとする人、
現在の状況には何の役にも立たない想起ばかりが意識の明るみに浮かび上がる
ような人も、また、
[衝動的な人よりも]行動に向いているとは言いがたい。
その人は衝動的人物ではないかもしれないが、
夢想的人物である。
この両極端の典型の中間に位置しているのが、
現在の状況が示す輪郭に精確に対応しうるほどには柔軟であり、
それ以外の呼び声には
断固として抗いうるほどには精力的である記憶機能[を持つ人]の示す、
うるわしい天賦の素質である。
良識といい、現実感覚というのも、どうやら、
それ以外のものではないようだ。
(アンリ・ベルクソン[著]竹内信夫[訳]『新訳ベルクソン全集2』
『物質と記憶――身体と精神の関係についての試論』
白水社、2011年、p.210)

 

ここに訳者である竹内信夫さんの注が付されており、その文にも、
ふかい共感を覚えます。
曰く
「ベルクソンは、1895年の講演「良識と古典研究」で、
良識とは「思考と行動の求めるものの内なる一致」である、と定義している。
哲学的議論のあいだに、
このような世間的教訓(しかし、それは常識=共通感覚の宝庫でもあるのだが)
に近い感想がふとこぼれてくるのが、
ベルクソン読者の何とも言えない喜びの一つである。
少なくとも訳者にとっては、
ベルクソンに限りない愛着と共感を感じる瞬間である。」

 

・冬の月一歩一歩の近さかな  野衾

 

疲れが吹っ飛んだ

 

休日出勤しての仕事のほとんどは、組んだ原稿を読みすすめることでありまして、
だったら家に持ち帰ってやれば良いではないか
と自分でも思うのですが、
実際、そうすることもありますけれど、
休日の仕事場の広々とした静寂がいまのわたしには好ましく、
いとわず出かけて行きます。
パソコンを立ち上げ、お香を焚き、
それからおもむろに、組んだ原稿の束を机の上に置き。
メガネを外して原稿を読みはじめます。
二時間ほどつづけるとちょっと疲れてきますから、
気分転換に、YouTubeで好きな歌を。
このごろのお気に入りは、
数年前テレビの番組で見たインドネシアのファティマさんがその番組で歌った
いきものがかりさんの「ブルーバード」。
その場に居合わせた人たちの驚きの表情もおもしろく、
見ていて飽きません。
ふと、
ハイフェッツさんの「ツィゴイネルワイゼン」を聴いてみようかな、
と思い入力すると、
画面横にHIMARIさんという少女の名まえが出てきました。
日本人の女の子のようです。
何気なくクリックし見てみることに。
……………
不覚にも、
右の頬をあたたかいものが濡らします。
くり返し見ているうちに、
少女の顔が興福寺の阿修羅像に重なっていきます。
疲れが吹っ飛び、
また原稿に向かいます。

 

・駅一つことば置き去り冬の旅  野衾

 

小さな発見、からだは繋がっている

 

お灸ファンみたいなところがありまして。
朝に晩にお灸をし、とくに寝る前には、足裏にある湧泉というツボの辺りに、
片足4壮、両足で8壮を据えていました。
そうやって体を横にすると、すぐに眠りにつくことができたので。
気分を良くし、習慣づいていました。
と、ある時、
家人から、このごろ咳き込むことが多いんじゃない、
お灸の煙のせいじゃないの? と指摘され、
アッと思いました。
たしかに、朝起きると、まず大きな咳を一つして、尾籠な話で恐縮ですが痰がでた。
気づくのが遅いぐらいでしたが、
自分のこととなると、こういうことが間々あります。
寝る前のお灸を止めて一か月ほどになりますが、
咳き込むことがなくなり、
痰もでなくなった。
さらに。
頸から後頭部にかけてのコリと痛みが減った気がする。
そうか。
アレはサインだったのか!?
そんなふうにも思います。
お灸の煙のせいで、気管支や肺にストレスがかかっていたかもしれない。
なにごとも、やり過ぎはよくないようです。
からだが繋がっているとは、子どもでも知っていますが、
お灸の煙が原因で、風が吹けば桶屋が儲かる式に、
つぎからつぎへと連鎖反応を起こし、
一見無関係なところに不具合が生じる、
ということを今回、
身をもって知った次第。
ひとつところを治すつもりが、そのせいで大元の体を傷つけてしまう、
角を矯めて牛を殺すということわざもありますが、
そんなことにならぬよう、
今後気をつけたいと思います。

 

・電磁波が宙を飛び交ふ冬の朝  野衾