うら悲し

 

2006年に96歳で亡くなった白川静さんは、
『万葉集』にある大伴家持の歌、

 

春の野に 霞たなびき うら悲し この夕影に うぐひす鳴くも

 

を、ことのほか愛しておられたようです。
この歌を、ふと、思い出しました。
昨日、
「新井奥邃先生記念会」が、春風社が入っているビルの一階を会場に開催されました。
御年92歳の小野寺先生が、
仙台から瀬上先生が、
秋田から造園業を営んでおられる佐々木吉和さんが飛行機で参加されるなど、
人の縁の奇しきを改めて感じました。
わたしは、
春風社と奥邃の縁と、
このごろのわたしの勉強を披露させていただきました。
一時間ほど話したでしょうか。
会終了後、
幾人かの方から声をかけていただき、
うれしい気持ちに満たされ、
その後、
三階の社にもどり、
山岸さんと岡田くんに別れを告げ、
外に出ました。
蟬はまだ鳴いていませんが、いよいよ本格的な夏に入ったか、
と、
結婚式場横の、
伊勢山皇大神宮の裏参道にしばし佇み。
トークイベントで話さなければいけないときは、
意識して昼食を摂りません。
そのせいもあったでしょうけれど、
どっと疲れが押し寄せてきて、
満足したのに、
なんとなく悲しいような、
淋しいような、
切ないような、
名づけようのない感興がもたげてきました。
その時、
大伴家持の歌を思い出しました。
家持のこの歌の詞書に、
「興に依りて作る歌」
とあります。
いわく言い難い感興が湧いてつくった、
という意味でしょう。
この「興」という発想、考え方は、
『詩経』にもあって、
ということは、
歌を詠むこころの根本にあるもの、と言えるかもしれません。
家持は、
この歌のほかにも、
いくつか「興に依りて」と記しています。
家持が隣に立っています。

 

・照々の天よりのこゑ奥邃忌  野衾

 

ブエノスアイレスのビル・エヴァンス

 

ある男性客が、バーに座りファースト・セットを最初から最後まで聴いてくれていた。
次のセットまでの休憩中、
僕がコカ・コーラを注文しにバーに行くと、彼が話しかけてきた。
「私は出張でね。普段は農業をやっているんだが、仕事で町に来たんだ。
なんとなく、このクラブに立ち寄る気になってね。
こういうジャズは知らないんだが、
ひとつ君に言っておきたかった。
今のは、ある種の宗教的体験みたいなものだった!」
もちろん彼の言葉の意味は理解できた。
彼は農業家だ。
しかし彼は、僕がいつも伝えていると感じるメッセージを、
正確に受け止めてくれたんだ。それは実にうれしいことだった。
(ゼブ・フェルドマンによるマーク・ジョンソン・インタビュー(2021.6.2)
寺井珠重[訳]英文オリジナルライナーノーツより)

 

鎖骨を骨折した折、たいへん世話になった瀬上正仁先生から、
ビル・エヴァンスの最後のトリオによる、
ブエノスアイレスでのライブ盤二枚組CDをいただきました。
かつて海賊盤として出回ったこともあったようですが、
今回、
ライヴ当日のオリジナル・テープ・リール (放送音源) からリマスターされ、
正式盤として制作されたもの。
さっそく聴いてみた。
聴き惚れました。
二枚組CDをつづけて二度まで。
瀬上先生が、マーク・ジョンソンのベースが、
伝説のベーシスト、スコット・ラファロに似ているとおっしゃった意味が
分かった気がします。
また、
1979年、亡くなる一年ほど前の演奏でありながら、
ビル・エヴァンスの集中はさすがと感じられ、
空気感、間のあり方は、
ビル・エヴァンスならではもの
と、
あらためて納得。

 

・上天に烏の声す夏の朝  野衾

 

ひとつの灯り

 

愛をほとんど経験したことがないとしたら、どうやって愛を選ぶことが出来るでしょうか。
機会あるごとに、愛の小さな一歩を踏み出すことで、
私たちは愛を選びます。
微笑み、握手、励ましの言葉、電話をかける、カードを送る、抱き締める、
心のこもった挨拶、助ける仕種しぐさ、注意を払う一瞬、
手助け、贈り物、財政的な援助、訪問、
これらのものはみな、愛に向かう小さな一歩です。
それぞれの一歩は、
夜の闇の中で燃えている一本のろうそくのようなものです。
それは闇を取り去ることはありませんが、
闇の中を導いてくれます。
愛の小さな歩みが残したたくさんの足跡をかえり見ると、
長くて美しい旅をしてきたことが分かります。
(ヘンリ・J・M・ナウエン[著]嶋本操[監修]河田正雄[訳]
『改訂版 今日のパン、明日の糧』聖公会出版、2015年、p.213)

 

『傷ついた癒し人』という本も書いているナウエンは、
オランダ出身のカトリックの司祭で、
1996年に64歳で亡くなっています。
ナウエンのものを読んでいると、
いろいろインスパイアされますが、
引用した箇所を読んだとき、
すぐに、
宮沢賢治の、
わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です
で始まる詩集『心象スケツチ 春と修羅』の「序」
を思い出しました。
つづく言葉は、
(あらゆる透明な幽霊いうれいの複合体)風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅めいめつしながら
そして、
第一連の最後は、
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
賢治を媒介にしてナウエンを読み、
また、
ナウエンを媒介にして賢治を読むことで、
ふたりの心象スケッチが、
エコーし合いながら、
明滅しているようにも感じます。

 

・鎖樋まどろみつたふ梅の雨  野衾

 

本を割る

 

いまはやらなくなった、いや、出来なくなっただけかもしれませんが、
若く、力があった頃は、
りんごを、ズボンの太腿の辺りで磨き、
それから膝にかけ、腰を下ろし、思いっきり力を入れて、
両手で割ることがありました。
ググッと力を入れると、
バキッと音を立て、
割れる瞬間に飛沫が飛ぶ。
そうして、
半分になった皮ごとのりんごの片方にかぶりつく。
その美味しさ、みずみずしさ。
わたしのファイト一発はりんごでした。
ほんとうに、包丁で皮をむき、きれいに切ったりんごよりもおいしい気がしたものでした。
もちろん科学的根拠はありません。
しかし、
薪を割る、でも、腹を割って話す、でも、
割ることには、
どくとくの微かな快感が伴っている気がします。
力が衰えてきた反動か、
わたしはこの頃、
本を読むときに、
本のノドが鈍角からフラットになるぐらいまで本を押し広げるようにしています。
視力が衰えたせいもあるでしょう。
この頃は、糸でかがらない、
糊付けだけの製本が主流ですから、
ときどき、
開きすぎて、バキッと、
文字どおり割れることもあります。
平らになった本はまるで木簡、竹簡、金文、石文。
本を斜めに開いて、薄暗いノドの部分の文字を探るように読むよりも、
右ページと左ページが平らになるぐらいまで開き、
紙と文字を指でなぞるようにして
光のなかで読む
のは、
心地よいだけでなく、
時空を飛び越え、
本の中身と著者に、より近づけるような気さえします。
たとえば古代ギリシアまでひとっ飛び。
ただし、
図書館でも、知人でも、借りた本の場合、
それはできません。

 

・かをり立つ珈琲の香や梅の雨  野衾

 

昭和がはたかれる

 

このごろテレビにお笑いの人がでていると、
なんとなく、
いちばん楽しくなるのが錦鯉の長谷川雅紀さんを見ているとき。
錦鯉の笑いを、
「M-1グランプリ」で優勝したときのネタ以外には
それほど面白いと思ったことはない
のに、
錦鯉がテレビにでていると、
つい見てしまい、
長谷川さんが笑えないギャグを言い、
相方の渡辺さんから頭をはたかれると、
ふと、
テレビを見ながら微笑んでいるじぶんに気づくことがあります。
けしてガハハとは笑えない。
なのに楽しい。
きのうは、
「帰れマンデー見っけ隊!!」という番組で、
タカアンドトシたちと、
北海道は登別温泉の辺りを歩いていました。
クマ牧場でクマに向いオハコの「こんにちは~!」
野生のシカに向い「こんにちは~!」
歩き旅がすすんでいたら、
どこか遠くから「こんにちは~!」
ちっちゃな女の子が長谷川さんに向い、声を発したのでした。
それを見つけた長谷川さん、
「こんにちは~!」
ふと思いました。
長谷川さんて、なんだか昭和っぽい。
照れずに昭和をしている感じ。
思いっきり昭和をし、そして、すべる。
すると、
間髪入れずに相方から頭をはたかれる。
たとえば、タカアンドトシのトシがタカの頭をはたくのとはわけがちがう。
きのうの番組では、
長谷川さんのダジャレですべった空気を、
相方が頭をはたくのではなく(はたいたときもあったけど)
トシやタカがほぐしていました。

 

・保土ヶ谷を出でて戸塚へ梅の雨  野衾

 

さ夜ふけての「さ」

 

『古今和歌集』648は、

 

さ夜ふけて天《あま》の門《と》渡る月影にあかずも君をあひ見つるかな

 

『古今和歌集全評釈』の片桐洋一さんによる通釈は、

 

夜がふけて、天の門、すなわち雲間を渡る月の光によって、
飽きることもなく十分にあなたを逢い見たことであるよ。

 

歌の冒頭「さ夜ふけて」の「さ夜」について、
片桐さんは、
「さ夜」は「夜」に美称の接頭語「さ」がついた形、
と説明しています。
手元にある講談社の『古語辞典』
および電子辞書(『全訳古語辞典 第三版』旺文社)を見ると、
「さ」は接頭辞、
あるいは接頭語としているだけで、
「美称」の語はありません。
バンテリンのテレビCMではありませんが、
あるとなしでは大違い。
(ちなみに、バンテリンのテレビCMは「するとしないじゃ大違い」)
「さ夜」に限らず、
たとえば、
むか~し、学校で習った『冬景色』の歌の冒頭、
「さ霧消ゆる 湊江(みなとえ)の舟に白し 朝の霜」にある
「さ霧」の「さ」も、
ただの接頭語でなく、
美称の接頭語ということになれば、
目の前に広がる冬景色のありようが違ってくるように思います。

 

・ごみの日の網を住処の守宮かな  野衾

 

信仰の根本、知恵の知恵

 

口にする、しないはともかく、人間における思想の根幹、アキレス腱は、
死後、じぶんのいのち、魂がどうなるか、
に関わっていると考えます。
イブン=ハルドゥーンの『歴史序説』に、
こんな詩が紹介されていました。

 

人の頭が灰色になって
床屋が染毛をすすめると
その人の笑顔は消え
もはや喜びは見られなくなった
立てよ仲間よ 失われた青春を嘆こう
過ぎ去ったものは 復活の日まで
誰にも戻って来ないものだ
その日は最後の審判をまえにして
人々がこの世に生き返るであろう日
私はこれが真の信仰だと信ずる
私は復活を疑わない 事実
神はくずれてちりとなったあとで
ふたたび生き返った人々について語り給うた
(イブン=ハルドゥーン[著]森本公誠[訳]『歴史序説(二)』岩波文庫、2001年、p.24)

 

これは、
西暦795年に没したシーア派の詩人、サイイド=アルヒムヤリーがつくった詩。
こういうところにも、
『聖書』との親近性が感じられます。
ここに知恵があると思います。

 

・夕立や保土ヶ谷宿に下駄の音  野衾