こんな碑も

 

きのう紹介した道標は四基ありまして、
調べていませんが、
かつて別々の場所にあったのを今のところに集めたのではないかと思われます。
四基の道標のそばに
「程ケ谷宿お休み処」があり、
時間が限られていますが、
お茶を飲めるようになっていたはず。
きょう紹介するのは、
文化十一年(1814)に建てられたもので、
正面に、

 

程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花   其爪《きそう》

 

と刻されています。
ていうか、
そう刻されていると、説明板に書いてあります。
そう刻されてあると知って、石が凹んでいるところをゆっくりなぞれば、
たしかに、そのように読むことができます。
さらに説明板によれば、
句碑を兼ねた道標は珍しいそうで、
また、
作者の其爪は江戸の人で、河東節《かとうぶし》の名家の一門なのだとか。
ところで、かつお節ならぬ河東節とは何ぞや。
ネットで調べたら、
三味線音楽の一種目で江戸節の一つ。
享保二年(1717)二月に十寸見《ますみ》河東が
江戸市村座で「松の内」を語ったのをはじめとする、
とありました。
これまた知らなかった。

 

・矢の如し光陰いまぞ栗の花  野衾

 

かなさわ道

 

ここ保土ヶ谷に住んで三十年ちかくになりますが、
灯台下暗しのことわざどおり、
知らないことが少なくありません。
保土ヶ谷宿から分岐するかなさわ道(金沢道)というのがあって、
能見堂(のうけんどう)を経て金沢八景へと通じていた
ということでありまして。
道標四基が現在残っており、
下の写真はその一つ。
「かなさわ、かまくら道」
天和二年(1682)建立といいますから、ちょうど340年前。
なんともあたたかい石、
それと、
くねくねよく解らない字であります。

 

・閑さや蟻の行方をたづねをり  野衾

 

万葉集と古今集

 

古今和歌集の682番

 

石間いしま行く水の白浪立ちかへりかくこそは見めあかずもあるかな

 

片桐洋一さんの通釈は、
「石の間を流れて行く水の白浪が、激しく浪立っては元に戻るように、
何度も何度もこのようにあなたを見るだろうけれども、
それだけでは満足しないことであるなあ。」
「石間行く水」というのは、滝をふくめた激流の意味。
それにつづく片桐洋一さんの説明がおもしろく、
古典研究の醍醐味が、
こういうところにも表れている気がしますので、
少々長めですが、引用します。

 

では、「石間」とは何か。『万葉集』では、
いのちをし幸さきくよけむと石流いはばしる垂水の水をむすびて飲みつ
巻七・一一四二
石激いはばしる垂水の上のさ蕨わらびの萌えいづる春になりにけるかも
巻八・一四一八
が、
一字一音表記の
伊波婆之流いはばしる》滝もとどろに鳴く蟬の声をし聞けば都し思ほゆ
巻十五・三六一七
にならって、「いはばしる」と読んでいるのが、
『古今集』になると、
いしばしる滝なくもがな桜花手折たをりても来む見ぬ人のため
春上・五四
のように「いしばしる」に変っていることから考えられるように、
「石」は「岩」のことであり、
「石間」は「岩間」と同じと見てよかろう。
岩にぶちあたりつつ激しく流れる水であるゆえに白浪が立つのである。
「いしばしる」が万葉歌語「いはばしる」の文字によって出来上がった語であるのと同様に、
「石間」もまた疑似万葉歌語であると言えるのである。
このように一筋縄でゆかないものを含めると、
『古今集』における『万葉集』の影響は、
今まで言われていたのとは比較にならないほどに大きいことに気づかざるを得ない
のである。
(片桐洋一『古今和歌集全評釈(中)』講談社学術文庫、2019年、pp.687-8)

 

伊藤博さんの『萬葉集釋注』によって、
大伴家持らの編集の妙を教えられましたが、
『古今和歌集全評釈』では、
片桐洋一さんが、
古今和歌集と万葉集の親和性について、ていねいにひもといてくれていますので、
編集の仕事に携わった紀貫之たちは、
歌はもちろん、
詞華集を編む=編集に関しても、
万葉集から多くを学んだであろうと想像されます。

 

・午睡止むうつつより自動車の音  野衾

 

肉と言葉

 

言葉は肉とならねばなりません。しかし、肉もまた言葉とならねばなりません。
私たち人間にとっては、
ただ生きるだけでは十分とは言えません。
同時に
私たちはどのように生きているかを言葉にしなければなりません。
どのように生きているかを語らないなら、
私たちの人生は活力と創造性を失ってしまいます。
美しい景色を見たら、
見ているものを表そうと言葉を探します。
心やさしい人に出会ったら、
その出会いについて語りたくなります。
悲しみや大きな苦しみに遭うと、その悲しみや苦しみについて語る必要を感じます。
喜びで驚いた時には、
その喜びを告げ知らせたいと思うのではないでしょうか。
言葉を通して、
私たちはどのように生きているかを自分のものとし、
内面化します。
言葉は、
私たちの経験を真に人間的なものとしてくれます。
(ヘンリ・J・M・ナウエン[著]嶋本操[監修]河田正雄[訳]
『改訂版 今日のパン、明日の糧』聖公会出版、2015年、p.222)

 

さびしいことを、秋田の方言で「とじぇね」といい、
「わだしは、とじぇねわらしでありました」と講演で語り、不意に涙が出てきたことを、
その後、話したり、書いたりしていますが、
「とじぇねわらし」だった少年が、
右往左往しながらも、
これまでやってこられたのは、
言葉があったおかげ、
という言い方が成り立つかもしれません。
ほんとうに苦しいとき、
悲しいときは、
とても言葉にできないとも思われましたけれど、
じっと我慢していると、
苦しみや悲しみの底から、
涙がま~るく形を成すように、
ぽつりぽつりと言葉の切れ端が浮かんでくるようでありました。

 

・万緑や境内への細き階段  野衾

 

いかなる表現も

 

先日、ネットを見ていましたら
(この頃は、テレビよりネットで知ることのほうが多くなりました)
韓国の歌手で作曲も手掛けているユ・ヒヨルさんという方の作った曲が、
坂本龍一さんの曲に似ているということで、
ユさんが謝罪したというニュースがありました。
ユさんいわく、
坂本さんのことが好きで、リスペクトしてきたらしく、
知らず知らず、
坂本さんのつくった曲に似てしまったと。
それに対して、
坂本さんいわく、
自分にも、
バッハやドビュッシーから強い影響を受けてつくった曲があり、
今回のユさんの曲は、
わたしのものに似ているところもあるけれど、
法的に自作を保護しなければいけないほどの案件とは思わない、
うんぬん。
概略、そのようなニュースでした。
〝よっ! さすが坂本龍一”
と思いました。
だけでなく、
今月19日に「新井奥邃先生記念会」が、
春風社が入っている横浜市教育会館の一階で行われたときの
わたしの講演の内容ともひびき合うものでしたから、
それもあって、
興味ぶかく読みました。
どういうことかといえば、
新井奥邃の文章を読んでいると、
聖書はもちろんですが、
四書五経をはじめ、
老子、荘子、
また、プラトンのものも読んでいたかもしれない、
カーライルやエマーソンのものも
ひょっとしたらと、
『新井奥邃著作集』別巻に付した索引を眺めることで、
想像されるからです。
カーライルのことでいえば、
新渡戸稲造の『武士道』の原文は英語ですが、
それを日本語に訳した矢内原忠雄いわく、
新渡戸の英語の文体は、カーライルに似ているのだとか。
英語の文体のことは分りませんけれど、
『武士道』の本文には、
カーライルの名前もでてきます。
新井奥邃が生まれたのが1846年、
新渡戸稲造が生まれたのが1862年、
同時代といえるでしょうから、
カーライルが当時、広く読まれていたということかもしれません。
ともかく。
新渡戸稲造といい、新井奥邃といい、
天才的と称される人物であっても、
その表現は、
先人、先覚がなしたものに基づき、それを踏まえていると考えられます。
そのことを、
今回の坂本龍一さんとユ・ヒヨルさんのことで、
あらためて考えさせられました。
わたしの講演のプロットはこちらです。

 

・万緑やうす暗きなかの階段  野衾

 

にこるんの牛丼

 

ネットニュースを見ていましたら、
ファッションモデルでタレントの藤田ニコルさんは、
吉野家の牛丼並盛りに、ネギラー油、半熟たまごをトッピングするのが好きらしく、
このごろそれが商品化したとのことで、
その名称がずばり
「にこるんの牛丼」
ニコルさん喜んではいるものの、
少々問題があるらしい。
それを食べたいと思っても、
「にこるんの牛丼ください」と声に出して頼むのがちょっと恥ずかしい
という客がいるのだとか。
その記事を読んで思いました。
あれ!?
そうか。
吉野家って、
店の入口でチケットを購入するんじゃなかったか。
なるほどなるほど。
このごろ何年も、
いや、十年以上かもしれません、
吉野家に行っていないので、
すっかり忘れていました。
と。
吉野家に入った自分の姿を想像してみる。
六十を過ぎた初老のおっさんが、
メニューを見ながら「にこるんの牛丼ください」。
言えねー言えねー。
ぜーーったい言えねー。
仮に、
バンジージャンプで空中に飛び出す勇気をもって言ったとして、
追い打ちをかけるように
そこの店員が、
「にこるんいっちょう!」と復唱などしたら、
恥ずかしくて墜落すること間違いなし!
でも、
ちょっと食べてみたい気はする。
にこるんの牛丼。
店員に、復唱しないで下さいと前もって言い、
小声で頼むか。

 

・万緑や姿は見えず台湾栗鼠  野衾

 

ギリシア的人間

 

優勝者への褒美は、元来はおそらくどの地でも値打のある商品であって、
これはホメロスの叙事詩からわれわれの知るごとくである。
時が経つにつれてようやく、
何ものにもまして尊重された冠が優勝者への褒美となった。
……………
だが、
試合の真の目標は、勝利そのものであり、
勝利、ことにオリュムピアでの勝利は、
地上における最高のものと考えられたのである。
というのも、
このような勝利こそそれを手にした優勝者に、実はどのギリシア人も目標としていたこと、
すなわち、
生きているあいだ驚嘆の眼で見られ、
死んだときに高い栄誉を受けるにちがいない
ということを保証したからである。
(ヤーコプ・ブルクハルト[著]新井靖一[訳]『ギリシア文化史 第四巻』
筑摩書房、1993年、p.145)

 

ブルクハルトの『ギリシア文化史』は全五巻で九章ありますが、
筑摩書房の単行本では、
さいごの第九章に四巻と五巻の二冊があてられています。
その章タイトルが
「ギリシア的人間とその時代的発展」
なにがギリシア的なのか?
それは、
英雄神的であり、植民的であり、競技的であること。
ブルクハルトの洞察がここにあります。
およそ二千五百年前、
あるいはさらに前の時代のことなのに、
ブルクハルトのていねいな古典読解に案内されながら進むうちに、
当時のギリシア人と
現代のわたしたちが、
何一つ変っていないことに気づかされ、
驚きを禁じ得ません。
まさに、歴史も古典も、
自己と社会を映しだす鏡であると納得。

 

・つとめ終へうら悲しきや五月雨  野衾