未確認生物

 

早朝、ゴミの袋をもって外に出たときのこと。薄暗い目の前の道を何かが通り過ぎた。
うす暗いなか、さらに黒い塊のようなものが、たったったったったっ、
と。
猫? ちがうな。犬か。いやちがう。子狸。まさか。
ゴミ収集ネットをセットし、
なかへゴミの袋を入れたものの、
やはり気になって仕方がない。
黒い塊が向かった方角へサンダル履きで走った。
人間の走るスピードよりは速くないと目視していたのに、
どこにもそれらしい姿は見つからなかった。
猫でも犬でも子狸でも、
はたまたそれ以外の動物でも、
いったん見遣ったにも拘らず走って追いかけたのは、
その動きと動きかたに、
ちょっと切なるものがあり、
なんとなくザワザワした印象がこちらに伝わったからだ。
何だったかよりも、
あのときあの塊がどういう心情だったのか、
それが知りたい。

 

・ふるさとは連山今ぞ冬紅葉  野衾

 

幸福の時

 

翌日にならなければ出発できなかったので、わたしはただひとり部屋にとじこもって、
生涯でもっとも悲しい一日を過ごした。
わたしは、
窓ガラスの一枚に書き残された
〈あなたもアンリエットをお忘れになるでしょう〉という言葉を見た。
この言葉は、
わたしが贈った小さなダイヤモンドの指輪の角かどで、
かの女が記したものだった。
この予言は、わたしの慰めにはならなかった。
だが、かの女はいったい〈忘れる〉というこの言葉に、
どんな広い意味をふくませたのだろう?
実際かの女は、この言葉に、
忘れればわたしの心の傷が癒えるだろうということ以外には、
何の意味も考えていなかったに違いない。
それは自然な考えではあったが、何もそんな悲しい予言をしてくれる必要はなかった。
いや、
わたしはかの女を忘れられなかったのだ。
今もわたしは、かの女のことを思い出すたびに、魂が慰められるのである。
もう年老いてしまった現在、
わたしを幸せにしてくれるものは古い記憶の蘇りしかないが、
わたしの長い人生は、
不幸だった時よりも、むしろ幸福だった時のほうが多いように思われる。
(ジャック・カザノヴァ[著]窪田般彌[訳]『カザノヴァ回想録 2』河出書房新社、
1968年、p.65)

 

こんなことを言っているカサノヴァですが、
その後、時を措いて、この謎の女性アンリエットに会うことが予告されており、
こうなると、
先を読みすすめないわけにはいかなくなります。
その後の出会いもふくめて、
「わたしの長い人生は、不幸だった時よりも、むしろ幸福だった時のほうが多い」
ように思うことができれば、
それこそ幸福といえるのかもしれません。
でもこの男、
なかなか一筋縄では捉えられない気がします。
「回想録」はあくまで自叙伝ですから、
〈書く現在〉において、じぶんが気にいるように、
あるいは、
気持ちよくなるように書き記すという欲望がおそらく働いているはずなので。
そこのところは割り引いて考えなければならない
と思いますけれど、
にしても、
よくこれだけのものを、記憶を記憶だけを頼りに書いたかと、
そのことにまず圧倒されます。

 

・なだらかな稜線を行く冬紅葉  野衾

 

光源氏とカサノヴァ

 

「何ですって! すると、あれは自尊心からではなかったのですね?」
「ええ、本当はそうじゃなかったのです。
あなたはあたしに対して正しい判断だけをして下さいましたわ。
あたしは、
ご存知のような馬鹿なまねをしましたが、
それは、義父があたしを修道院へ入れようとしたからなのです。でも、
どうか身の上話には興味をお持ちにならないで下さい」
「うるさくは聞きませんよ。わたしの天使。今は愛し合いましょう。
二人の平和を乱すかも知れない将来の心配などはしないことにしましょう」
二人は愛し合いながら寝たが、
翌朝ベッドを出るときには、さらにいっそう愛し合っていた。
こうしてわたしは、
つねに同じ愛情を抱いて三カ月を過ごしたが、たえず愛することの幸福に酔いつづけた。
(ジャック・カザノヴァ[著]窪田般彌[訳]『カザノヴァ回想録 2』河出書房新社、
1968年、p.42)

 

もう四十年も前になりますが、『源氏物語』を原文で読もうと思い立ち、
岩波書店から出ている「日本古典文學大系」の五冊を、
こまかい注と古語辞典をたよりに冒頭から、
まさにカイコが桑の葉を食むように、
毎日少しずつ読み始め、
さいしょは、
脳味噌から汗がたらたら零れ落ちるような具合でしたが、
だんだんと物語をおもしろく思えるようになってきたとき、
女性たちに対する光源氏の熱量の多さに驚き、
さらに読みすすめていくうちに、
相手ひとりならいざ知らず、
複数の女性に対して、
しかも同時に、
この熱量の多さにはリアリティがないな
と白けはじめ、
そうか、
この物語は、一応、光源氏が主人公となっているけれども、
光源氏は、物語を進めるための、
いわば狂言回し的人物でもあって、
本当の主人公は女人たちだなと思った。
なので、
のちに、瀬戸内寂聴さんの『女人源氏物語』を読むに至り、
さもありなん、我が意を得たり、
と合点がいった。
したがって、
スーパーヒーローは、現実にはあり得ないと高を括っていたところ、
世界は広いわけでありまして、
十八世紀のヨーロッパには、
光源氏と見紛うばかりのプレイボーイが、実際に、歴史上存在していたのでした。
それが、ジャコモ・カサノヴァ、
あるいはカザノヴァ、カザノーヴァ。
ヴィクトル・ユゴーの伝記的事実を知ったときも、
その絶倫さに舌を巻く思いをしましたが、
要するに、
膾、刺身の文化とステーキの文化では、
恋における熱量が基本的に相違しているということかもしれない。

 

・奥山に大き石あり冬紅葉  野衾

 

根のあるはなし

 

哲学者・小野寺功(おのでら いさお)先生の本を、増補したものを含め、
これまで七冊、春風社から上梓しました。
そのうち二冊はことし。
今年刊行した二冊を担当したこともあり、
よく電話でお話を伺い、
いまもちょくちょく電話をしては、いろいろ面白いはなしを教えてもらっています。
先生の話を伺っていると、
何ごとによらず、
なんと言うか
(そうそう、先生は「なんと言うか」が口ぐせ)
勇気が湧いてきます。
なんでか、
と不思議な気もしますが、
どうやら、
先生の思索、それに基づくことばの一つ一つが、大地に根を張っていて、
そこから豊かに養分を吸い上げているからかな、
と。
新井奥邃(あらい おうすい)を最後まで世話した中村千代松の文章に、
新井先生ほど偉い人を見たことがない、
それは、
新井先生には根があるからだ、
というのがあり、
わたしは新井奥邃を直には知りませんので、
中村の感じ分けの微妙なところは分かりませんが、
小野寺先生の文章、話しことばに、
わたしは根を感じます。
そういうことを踏まえつつ、
思想の「根をめぐって」先生と対談、
というか、
いろいろお話を伺い、
一冊にまとめたいと考えています。

 

・冬の駅舎窓越し鳶旋回す  野衾

 

本が見つかる

 

自宅の本棚は五本あり、ゆるくジャンルに分けれていますが、
本が増えるにつれ、
一列に並べた板の手前にスペースがあると、
そこにも本を並べたり重ねたり、
そうすると、
奥に在る本の背文字が見えなくなり、記憶にたよって、目当ての本を探すことになります。
この頃はさらに、
本棚に収まり切らない本が増殖し、
廊下にある二つの収納スペース、居間の天井に取り付けられた収納スペース、
テーブルの下、一人用ソファの後ろ等々、
それぞれの場所において、
二重三重に重ねられ、
ほとんど、何といったらいいか、いわばブロック状態を呈してきました。
こうなりますと、
ふと思いつき、目当ての本を探す段になった場合、
すぐに見つかればいいけれど、
そうでないことのほうが圧倒的に多く、
ブロックを順繰りに解体していった果てに、
そこにないとなると、
ほとほとほとほと疲弊します。
さて、
きのうのこと、
ずっと前に買って、読まずにいた本を、
いま読まなければいけないという心理的欲求がにわかに生じ、
たしか、この辺りに置いたはず、
と狙いを定め、
ブロックを崩していったら、
あ!
あったあった!
ほっほうっ!
ふふふ。いいぞ。なかなかやるな、オレ!
自画自賛。
家人外出中のこととて、独り、にんまりしていたかもしれない。
こころに余裕が生まれ、
サイフォンでコーヒーを淹れ、
ソファに深々と腰掛け、ゆったり、まったり。
探し当てた本を読まないのに、
なんだかすっかり満足し。
というわけで、
なかなかの、
いい勤労感謝の日でありました。

 

・在来線すすきが原を行く日かな  野衾

 

わたしより近く

 

神は実に私自身よりももっと私に近いというべきである。
私自身の存在ということも、神が私に近く現存し給うことそのことにかかっている。
私自身のみならず、
一個の石、ひと切れの木片にとっても神は近く在し給う。
ただこれらのものはそれを知らないだけである。
もし木片が最高天使と同じ程度に神を認め識り、それがいかに己れに近いか
を自覚するとすれば、
それは最高天使とその祝福を等しくすることであろう。
実に人間が木片よりも祝福されているのは、
彼が神を知り、
神の己れにいかに近いかを知るからである。
(マイスター・エックハルト[著]相原信作[訳]『神の慰めの書』
講談社学術文庫、1985年、p.294)

 

このあたりに、エックハルトの真骨頂が表れていると感じられ、
ひいては、
ヨーロッパにおける、精神分析、心理学のルーツもあるのではないかと、
想像がふくらみます。
年齢を重ねるにつれ、うきうきすることが少なくなり、
他方で、
気持ちのありようと同調するように、
しずかに、ゆっくりと、
なにかを確かめるように歩くことが多くなった
ように感じますけれど、
そうすると、
一個の石、ひと切れの木片、一枚の落葉に、自然と目が行くようになりました。
なんてきれいな色、なんておもしろい形、音までも。
こんな気持ちになるなんて。
ヘ、ヘ、
ヘックション!

 

・ふるさとは黙しの秋の降り積もる  野衾

 

両刃の剣

 

あなた方は、
言葉によって愛や悩みの感情に移し入れられる間は自分自身を不完全であると思って
いられるかも知れない。
しかし決してそんなことはいえないのである。
キリスト御自身ですらそのような意味の完全さはもち給わなかった。
「わが心いたく憂いて死ぬばかりなり」
(マタイ伝第二十六章第三十八節参照)
という彼の御歎おなげきがそれを証拠立てている。
キリストすら言葉によってかくも悩まされ給うたのであって、
その御悩みの大いさは、
一切の被造物の経験する全ての苦悩が一個の被造物に集中して襲いかかる
ことがあろうとも、
キリストの嘗め給うた苦しみには及ばないほどである。
(マイスター・エックハルト[著]相原信作[訳]『神の慰めの書』
講談社学術文庫、1985年、p.289)

 

言葉によって励まされ、背中を押され、生きがいを感じて、
ふつふつと勇気が湧いてくることがあるその一方で、
なにげない、
ほんのちょっとした言葉なのに、
頑迷で、自己中心的と感じられる言葉にいたく傷つくことがあります。
じぶん自身、
知らぬ間にそうしてしまっているかもしれません。
孤独は独りだからではない。
相手がいて、
言葉によって平らな地面にいきなり穴が開き、
孤独の底へつき落とされる、
というのが実際のよう。
そうなったら、
だれかに打ち明けるわけにはいかず、
気晴らしすることも叶わず、
まして、
傷つく言葉を発した人との対話を望んでも、
おそらく答えは見つからないだろうと思えるとき、
まずは、
目の前のなにか、
たとえば、切らなくてもいい爪を切ったり、周囲を二度、三度と見回し、
それから利休鼠の空をぼんやり眺めてみたり、
また、
冬の蜘蛛のように、
じっと息を殺してじぶんを守るぐらいしかできなくなる、
言葉はまさに両刃の剣です。

 

・ふるさとの川面群れ飛ぶ秋茜  野衾