翌日にならなければ出発できなかったので、わたしはただひとり部屋にとじこもって、
生涯でもっとも悲しい一日を過ごした。
わたしは、
窓ガラスの一枚に書き残された
〈あなたもアンリエットをお忘れになるでしょう〉という言葉を見た。
この言葉は、
わたしが贈った小さなダイヤモンドの指輪の角《かど》で、
かの女が記したものだった。
この予言は、わたしの慰めにはならなかった。
だが、かの女はいったい〈忘れる〉というこの言葉に、
どんな広い意味をふくませたのだろう?
実際かの女は、この言葉に、
忘れればわたしの心の傷が癒えるだろうということ以外には、
何の意味も考えていなかったに違いない。
それは自然な考えではあったが、何もそんな悲しい予言をしてくれる必要はなかった。
いや、
わたしはかの女を忘れられなかったのだ。
今もわたしは、かの女のことを思い出すたびに、魂が慰められるのである。
もう年老いてしまった現在、
わたしを幸せにしてくれるものは古い記憶の蘇りしかないが、
わたしの長い人生は、
不幸だった時よりも、むしろ幸福だった時のほうが多いように思われる。
(ジャック・カザノヴァ[著]窪田般彌[訳]『カザノヴァ回想録 2』河出書房新社、
1968年、p.65)
こんなことを言っているカサノヴァですが、
その後、時を措いて、この謎の女性アンリエットに会うことが予告されており、
こうなると、
先を読みすすめないわけにはいかなくなります。
その後の出会いもふくめて、
「わたしの長い人生は、不幸だった時よりも、むしろ幸福だった時のほうが多い」
ように思うことができれば、
それこそ幸福といえるのかもしれません。
でもこの男、
なかなか一筋縄では捉えられない気がします。
「回想録」はあくまで自叙伝ですから、
〈書く現在〉において、じぶんが気にいるように、
あるいは、
気持ちよくなるように書き記すという欲望がおそらく働いているはずなので。
そこのところは割り引いて考えなければならない
と思いますけれど、
にしても、
よくこれだけのものを、記憶を記憶だけを頼りに書いたかと、
そのことにまず圧倒されます。
・なだらかな稜線を行く冬紅葉 野衾