古典の素養

 

先だって、名のみ知っていて、読んでいなかった新渡戸稲造の『武士道』を読んだとき、
新渡戸が東西の古典をいかに読み込み自家薬籠中の物としていたか
を改めて知るに及び、
文章の迫力が、
そこからじわりと伝わって来るようでありました。
幕末から明治、大正にかけて生きた人の古典の素養には舌を巻きます。
『新井奥邃著作集』を編集しながら、
奥邃の文章の迫力の半分はそこにある
と感じていたので、
『武士道』の迫力も、
内容もさることながら、
古典に裏打ちされ練り上げられた文章の迫力が大いに与っている
と思われました。
さらに確かめるために、
というわけではありませんが、
いま西田幾多郎の『善の研究』を読み返しているところ。
と、
やはりなぁ、
とつくづく感じます。
仏教の古典はもとより、
中国古典である四書五経の言葉がこんなに鏤められていたかと驚きます。
引用という形をとっていないので、
気づきにくいということはありますが、
研究者の注解によってそのことを教えらえると、
あらためて、
引用と地の文が混然一体となり独特の味を形成している
ことが自ずと感得できます。
昭和十一年十月と記された
「版を新にするに当って」
の文章の末尾に、
西行の歌を踏まえた表現がさり気なく、
控え目になされており、
純粋経験、実在、善、宗教、
にかかわる地平が一気に広がるのを覚えます。

 

・新涼やカーテンの影ひるがへる  野衾