声が聞こえる

 

書かれた言葉は弱い。多くの人は人生のほうを好む。
人生は血をたぎらせるし、おいしい匂いがする。
書きものはしょせん書きものにすぎず、
文学もまた同様である。
それはもっとも繊細な感覚――想像の視覚、想像の聴覚――
そしてモラル感と知性にのみ訴える。
あなたが今しているこの書くということ、
あなたを思いっきり興奮させるこの創作行為、
まるで楽団のすぐそばで踊るようにあなたを揺り動かし夢中にさせるこのことは、
他の人にはほとんど聞こえないのだ。
読者の耳は、
大きな音から微かな音に、
書かれた言葉の想像上の音にチューニングされなければならない。
本を手に取る普通の読者には、はじめはなにも聞こえない。
書いてあることの調節状態、
その盛り上がりと下り具合、
音の大きさと柔らかさがわかるには、
半時間はかかる。
(アニー・ディラード 著/柳沢由実子 訳『本を書く』田畑書店、2022年、p.59)

 

以前、中井久夫さんの本を読んだとき、
翻訳をするときには、
原著者が日本語を話せるものと想像し、その声を聴くようにして日本語にする、
という主旨の文章に目がとまりました。
柳沢由実子さんが訳されたアニー・ディラードの文章を読むと、
アニー・ディラードさんの声が聞こえてくるようです。
本を読むことは、
文字をとおして、それを書いた人の声を聴く、
ということになりそうです。
そのためには集中することが必要
になりますが、
集中しようと意図して集中できるものではありませんから、
集中のカミサマが下りてくるように、
場をととのえなければなりません。
紙の本は、
そのためにもある気がします。

 

・白雲のたつ果て知らず今朝の秋  野衾