本はこころの付箋

 

どのジャンルの本にかぎらず、本を読んでいて、
ふと、
じぶんの過去のエピソードがまざまざと蘇ることがあります。
もし、その本のその箇所を読んでいなければ、
思い出さなかったかもしれない、
そう思えることが少なくありません。
読んでいる本に目印として貼り付ける小さな紙片を付箋といいますが、
一冊の本はまた、
じぶんの記憶をよみがえらせる、
いわばこころの付箋といっていいかもしれません。
たとえば、下の文章。
わたしがまだ子どものころ、
村の政治家が家にやって来て、近所の人たちも集まっていたときに、
奥の部屋で小さく固まり、おとなしくしていたのに、
おじさんが部屋まで来て、
「○○さんにあいさつしなさい」
と言った。
「いつか世話になるかもしれない」と言われたので、
なんだかプツンとキレて、
「おら、あの人にだきゃ、世話にならね」
と言い返し、
柱につかまって泣いたこと
がありました。

 

「成熟」ということばは、人間に適用されると、わたしには不気味な感じがした。
そして今もなお不気味な感じがする。
そのことばを聞くと、
貧困、萎縮いしゅく、消耗というようなことばが、
不協和音といっしょに鳴りひびいてくる。
普通に人間の成熟と見られているものは、
あきらめの分別である。
わたしたちはほかの人たちを模範とし、
自分が少年のころ重要視していた思想や確信をつぎつぎと放擲ほうてき
することによって、
成熟を手にいれるのだ。
前には真理の勝利を信じていたのに、
今ではもう信じない。
前には人間を信じていたのに、
今ではもう信じない。
前には善を信じていたのに、
今ではもう信じない。
前には正義に熱中していたのに、
今ではもう熱中しない。
前には善意と寛容との力を信頼していたのに、
今ではもう信頼しない。
前には感激することができたのに、
今ではもう感激することができない。
人生の危険なあらしをうまく乗りきるために、不要と思う荷物を投げすてて、
ボートを軽くしたのだ。
ところが、
放棄したのは食料と飲料水であった。
今では船足かるく進んでいくが、
乗っている人は憔悴しょうすいしつつあるのである。
(生い立ちの記)
(アルベルト・シュヴァイツァー[著]浅井真男[編]『シュヴァイツァーのことば』
白水社、1965年、pp.312-3)

 

・泥臭き沼を這ひ来る夏の風  野衾

 

『石川文庫蔵書目録』

 

日曜日、仕事帰りに持ちかえった『石川文庫蔵書目録』は、
(一)と(二)の二冊ありまして、
いずれもB5判ソフトカバー。
(一)が昭和五十四年三月一日、発行者は昭和町教育委員会、274ページ。
(二)が昭和五十五年三月三十一日、発行者は昭和町教育委員会、224ページ。
編集者として川上富三さんの名が記されています。
わたしは、
疲れたなぁ、と感じたときに、
この目録をぱらぱら捲るのがいつからか倣いになりました。
石川理紀之助さんの蔵書は約二万冊。
貝原益軒さん、佐藤信淵さん、宮崎安貞さん
の本があるのは
「農聖」とよばれた理紀之助さんのことですから、
なるほどと納得。
福住正兄さんが書いた『二宮翁夜話』があるのも
うれしく思います。
また、
若い頃から和歌に親しみ、
多くの歌を詠んだ理紀之助さんらしく、
『万葉集』『古今和歌集』
をはじめ、
『伊勢物語』『源氏物語』『紫式部日記』『枕草子』『徒然草』など、
国文学の古典が、
尚庵とよばれる畳の間の書箱にあるそうです。
これについて、
編集した川上富三さんは、
つぎのように書いています。
「晩年、いわゆる座右の書として愛読した書籍である。
愛読といつたが、
必ずしも読んだものでもないらしく、
その書籍を傍におくことによつて、
心の安らぎを覚えるといつたていどの書籍も含まれているようである。」
ところで、
この川上富三さん、
もちろん面識があるわけではありません
けれど、
お名前をどこかで目にしたことがある、
いや、
あるような気がして、
まえに帰郷した折、
古い賞状を確かめたところ、
中学生のときに、
英語の暗唱大会で優良賞をいただいた折の賞状の授与者として、
川上富三さんの名前がありました。
は~、
そうであったか、
と、
なんだかとっても不思議な気がした。
これまた、
新井奥邃(あらい おうすい)さん言うところの
「かげひびき」であると思います。

 

・朝ぼらけ台湾栗鼠の走る夏  野衾

 

いろんな人がいる

 

この土日、休日出勤し、きのうの夕刻、少々疲れ気味ながら、
仕事のゲラ読みが思いのほか捗ったので、
気分上々で桜木町駅から電車に乗り込みました。
背中にリュック、両手にバッグ。
左手の布のバッグには、
秋田県昭和町教育委員会が発行している『石川文庫蔵書目録』、
それと、
平凡社の東洋文庫に入っている平川祐弘さん著
『マッテオ・リッチ伝』1・2・3。
「石川文庫」の石川は、
石川理紀之助さん。
明治の二宮尊徳、秋田の二宮尊徳、また「農聖」とよばれた方。
石川さんとマテオ・リッチさんでは、
関係なさそうですが、
あいだに、
宮崎安貞さん、明代中国の徐光啓さんをもってくると、
「かげひびき」としては、
うすくつながる。
窓外の夕陽に染まるビル群に目をやり、
深呼吸してから車内に目を戻すと、
二メートル、いや、
三メートルぐらいですかね、
若い女性が何やら口ずさんでいた。
声を出さずに歌っているようにも見えました。
と、
なるほどと納得!
車内に流れる英語のアナウンスに、口元がぴたりと合っています。
ひとつの芸を見ているようでした。
口元の動きは、
アナウンスと同時に終りましたから、
アナウンスの内容を暗記しているのかもしれません。
あるいは、
英語の前の日本語のアナウンス
を聴いて、
それを英語で言ったらどうなるかと予想して喋ってみた
ら、
ぴたりと一致、
なんてことがないわけではない
けれど…。
いろんな人がいるなぁ。

 

・木漏れ日の揺れてたはぶる五月かな  野衾

 

ペスタロッチーさんの祈り

 

彼は自ら筆を取った(これは長い間彼れのしなかつたことである)。
併し言語道断の攻撃が惹起した強い昂奮と動揺とに彼れの頭はもう堪へられなかつた。
恐怖は彼を病床に投じた。
そこで彼は
ブルックの彼れの医師シュテーブリン博士を呼んで
今後どのくらゐ生きられるか尋ねた。
それは正確には決められないといふ答に対して、
彼は今後六週間くらゐは生きられるかと更に尋ねて、
次のやうに附け加へた。
「私は是非とも……私は是非とも
もう六週間は生きて恥づべき誹謗を反駁しなければならない。」
このやうに心の乱れた昂奮のうちにあつて、
彼はわけても次のやうに書いてゐる。
「おゝ名状も出来ない苦しさだ。誰も私の心の苦痛を解することは出来ないであらう。
人々は年老いた弱い脆い人間を罵る。
そして今や彼をたゞ使へなくなつた道具のやうに見るだけだ。
これを苦痛に思ふのは私自身の為ではない。
だが人々が私の理念を辱かしめ
さげすんで
私にとつては神聖な而も私が長い苦しい一生の間求めて戦つて来たところのもの
を踏み躙るのは苦しい。
死ぬことなどは何でもない。
喜んで死なう。
私は疲れて最後の安息が欲しいからだ。
だが生きて来たこと、総てを犠牲にしたこと、何ものも達成されず何時も
たゞ苦しんでばかり来たこと、
何時も為すところなく総てが粉砕するのを見て、
自分の仕事と共に墓の中に落ち行くこと……。
おゝそれは怖ろしいことだ。
私にはさう言ふことさへ出来ない。
そして私はもつと泣かうと思つた。
だがもう涙も出て来ない……。
そして私の貧しい人々よ、圧へつけられ、さげすまれ
そして排斥された貧しい人々よ……。
貧しい人々よ、
人々は御身等をも私同様に棄て去り追放するでもあらう
――富める者はその有り余つた境遇にゐて御身等のことなど考へもしない。
せいぜい御身等に一片ひときれの麺麭を与へるくらゐのことだ。
それ以上は何も与へはしない。
――彼自らが実は貧しいので、
たゞ金より外には何も有つてゐないのだ。
御身等を精神の饗宴に招き、御身等を人間にしようなどとは、
人々はまだまだ長い間、
本当に長い間考へてはくれないだらう。
併し雀のことさへも考へ給ふ天なる神は御身等を忘れず、
御身等を慰め給ふであらう。
神が私を忘れず、私をも慰め給ふやうに。」
(ハインリヒ・モルフ[著]長田新[訳]『ペスタロッチー伝 第五巻』岩波書店、1941年、
pp.419-420)

 

こういうことを書かざるを得なかったペスタロッチーさんを、気の毒に思います。
それがいちばんですかね。
貧しい子らのためにひたすら働いてきたペスタロッチーさんが、
最後に到った場所がここだったのかと、
思わずにいられません。
かつてペスタロッチーさんの生き方に感動して寄りつどった人びとが、
おのれの正義に執着し、
分裂し、
ペスタロッチーさんが涙ながらに訴えても、
どうしようもないところに来てしまいました。
人生最後の時期の、
この引用した文の強度というものは、
イエスの弟子が書いた聖書の箇所に匹敵するものであると感じます。
モルフさんの『ペスタロッチー伝』を読んで、
もっとも感銘を受けたのは、
ペスタロッチーさんが、
いかに聖書の教えを愚直に実行したか、
ということ。
そして、
人が人を理解するということがいかに難しいか、
正しさよりも赦すことが
いかに大いなる行いであるか、
ということ。
『ペスタロッチー伝』全体の恐らく半分以上は、
ペスタロッチーさん本人のものを含め、
ペスタロッチーさんにかかわりのあった人の書簡で構成されています。
書簡というのは、
特定のだれかに対して書くものですから、
まごころ、真情が出やすい。
『新井奥邃著作集』を編集していたとき、
そのことを身をもって知りました。
ペスタロッチーさんの手紙文は、
相手のこころに切々と訴えかけている、
にもかかわらず、
かたくなになったこころは、
どうにも動くことがありません。
この文をつづった後、
ペスタロッチーさんは程なく亡くなりますが、
聖書になぞらえていえば、
ペスタロッチーさんは、
死んで蘇ったのだと思います。
たとえば、
モルフさんのこの本を訳された長田新(おさだ あらた)さんの生き方、
日本にペスタロッチー主義の教育をもたらした高嶺秀夫(たかみねひでお)さん
の生き方、
稀代の教育者・教育実践家であった斎藤喜博さんの生き方に、
ペスタロッチーさんの精神が生きて働いていた
のだと思います。
それを、
あとにつづく人につなげたいと
こころから思いました。

 

・アスファルト黒く染みゆく走り梅雨  野衾

 

師範教育の原点

 

彼は並み並みならぬ心理学的な才能を有つてゐたので、
――何時でもさうするのが例になつてゐたが――
僅かに二三分一学級に現はれるだけで、
彼れの見たことに就いて往々最も細かな心理学的な注意を教師に与へることが出来た。
彼は数学のどの部門かの教授をしてゐる学級に顔を出すのが
この上もなく嬉しかつた。
その場合に
授業が活発に行はれてゐればゐるほど、
騒ぎが大きければ大きいほど、
また生徒達の眼が輝けば輝くほど、
ペスタロッチーは強く、親切に、満足げに教師の肩を叩いて、
それから一言も言はず教室を出て行くのだつた。
(ハインリヒ・モルフ[著]長田新[訳]『ペスタロッチー伝 第四巻』岩波書店、1940年、
p.380)

 

引用した文章は、ペスタロッチーさんの学校で教師をしていたラムザウアーさん
の発言。
文中の「彼」はペスタロッチーさんを指しますが、
群馬県島小学校で一時代を画した斎藤喜博(さいとう きはく)校長も、
同じように、
ほかの先生たちの授業に割り込むことがあった
ようです。
「横口授業」とか「介入授業」
の名称でよばれていました。
斎藤さんは群馬師範学校を卒業しています。
「師範学校の父」とよばれ、
日本にペスタロッチー主義の教育をもたらした高嶺秀夫さんは、
いまの福島県会津若松市のご出身。
アメリカのオスウィーゴ師範学校に留学し、
ペスタロッチー主義の教育を直に親しく学んだ人ですが、
たとえば、
引用したペスタロッチーさんのエピソード
のなかに、
師範学校、師範教育の原点である直観と洞察
の具体的なありようを垣間見る
思いがします。
また、
栗山英樹さんが「不世出の哲学者」とよんだ森信三さんは、
広島高等師範学校のご出身。
森さんは「洞察の人」であったと、
親しくさせていただいている哲学者の小野寺功先生から、
エピソードを交え、
ことあるごとに伺っています。
栗山監督の「栗山野球」のWBCでの勝利は、
ある意味で、
日本に根付いている師範学校、師範教育の全面展開であった
という見方も成り立つ気がします。
栗山英樹さんは東京学芸大学のご出身。
東京学芸大学の前身は、師範学校にあります。

 

・薄墨を空に一はけ走り梅雨  野衾

 

ペスタロッチーさんの精神

 

……夜は朝に席を譲つた。朝の後には輝かしい晴れた昼がやつて来る。
昼を導き、昼を準備し、昼を連れ出したものは誰であるか問へ、
さすれば現在幾百回となく繰り返してゐる昼はそれに答へるであらう。
――児童の友にも、教育する母にも、
人類の内的発展に喜びを有ち、
愛に溢れた教育と精神を陶冶する教育との価値を知る総ての人にも、
従ってあらゆる教師にも、
喜びと栄誉とを与へる昼は答へるだらう。
星、
一千八百年以来独逸教育界の天空に輝ける最も輝かしい最も大きな星こそは
――ペスタロッチーであると。
――今日吾々は彼れの百年誕生日を祝ふ。
それは青年と教師との祝祭日である。
――感謝と喜びとの祭日――
独逸人と人類との祭日である。
世界中でペスタロッチーの名は是認と称讃とを以て称へられてゐる。
彼れの骨は大地の片隅に墓碑も名前もなしに眠つてゐる。
併し彼れの精神と心情と言葉とは吾々の間に生きて働き、
そして
精神陶冶を受ける児童達は無言の裡にも
この不死の人の豊かな恵みある活動の恩恵を享けてゐる。
されば吾々は
彼れの精神即ち発展しつゝある人間陶冶の精神を継承し、増大し、発揚して、
それを後続者達に委ねようではないか。」
「権力者ナポレオンの創造物は跡かたもなく消失した。
併しペスタロッチーの業績は永久に存続するであらう。」
(ハインリヒ・モルフ[著]長田新[訳]『ペスタロッチー伝 第四巻』岩波書店、1940年、
pp.351-2)

 

引用文は、ドイツの教育者ディーステルウェークさんのことば。
「ドイツ国民に告ぐ」のフィヒテさんの影響を受け、
プロイセンのペスタロッチと称された人ですけれど、
さいごの一文など、
教育が、国づくりにとっていかに重要であるかの宣言文であると思います。
WBCで日本チームを優勝に導いた栗山英樹さんは、
森信三さんを「不世出の哲学者」とよんでいますが、
森さんが創立した「実践人の家」は、
広島大学教育学部が創設した「ペスタロッチー教育賞」を2012年に受賞しています。
森信三さんは、
ペスタロッチーの精神を実践した人でした。

 

・鶏小屋の網より入るる南風(みなみ)かな  野衾

 

奥邃さんの「まこと」

 

新井奥邃(あらい おうすい)さんが「影響」を「かげひびき」と読んだことは、
このブログにも書きましたが、
この「影(かげ)」、
「影」という漢字にしても、「かげ」という平仮名にしても、
暗いところを表す「影(かげ)」というより、
もともとは光を表す、
ということに重点を置いて考えた方がいいように思います。
月影の「かげ」、面影の「かげ」、
かぎろひの「kag-」、かがやくの「kag-」、
鏡(かがみ)の「kag-」。
また、
影という字には「日」があり「京」がある。
「日」は太陽、
「京」は、
白川静さんによれば、
「アーチ状の凱旋門で、上に望楼をおく」。
すると、
「景」は、望楼から太陽を拝む、
のイメージ。
「彡(さん)」は降りそそぐ感じかな。
『新井奥邃著作集』第六巻の口絵に、
奥邃さんに委嘱され柳敬助さんが描いた「天界図」を収録しました。
これは、
「輝ける天界の一方面を描写」しようとした
ものであったそうで、
これまた「kag-」を含んでいます。
奥邃さん、
きっとかがやく光が好きだったんでしょう。
ちょっと話が飛びますが、
奥邃さんと同行した人に長沢鼎さんがいて、
長沢さんはその後、
「カリフォルニアのワイン王」「葡萄王」と称されるようになります。
ワインづくりのもとであるブドウの栽培と太陽は、
切っても切れない関係にある
ようです。
奥邃さんもカリフォリニアの空を仰いだか。
ここで思い出すのが、
かつてヒットしたアルバート・ハモンドの『カリフォルニアの青い空』。
1972年リリース。
もう五十年も経ったんですね。
さらに。
わたしが大学に合格し、
仙台に暮らすようになってまず驚いたのは、
同じ東北なのに、
冬の空がこんなにも違っているか
ということ。
日本海側の冬の空が多くどんよりしているのに、
太平洋側の冬の空のなんと明るいこと明るいこと。気分がスカッと晴れる。
八木山から仰ぐ青空は、
いまも目に焼くついています。
奥邃さんは仙台藩のご出身。
とこう書いてきたことは、
エビデンスに基づかない
わたしの単なる連想ではありますが、
奥邃さんの文章を初めて読んだとき、
その後幾度となく読んできた読んでいるときの印象と、
ピタリ一致します。
うす暗く深々としたところにある真理でなく、
かがやく明るさに充たされた真理
とでもいったらいいでしょうか。
奥邃さんのことばに
「暗夜はこれ永久ならず。我は真の来るを待つ」
がありますが、
この「真(まこと)」は輝く光であり、
儒教の「まこと」ともひびいていると思います。

 

・だるまさん転んだハシビロコウの夏  野衾