日々の求道

 

若いころから南こうせつさんの声が好きで「神田川」をはじめ、
いろいろ聴いてきました。
テレビにでていれば、
チャンネンルを変えずにさいごまで見ます。
こうせつさんの声は、
2021年に他界された装丁家の桂川潤さんをほうふつとさせます。
声が似ている気がします。
そんなこともあり、
前田祥丈(まえだ よしたけ)さんがインタビュアーとなってまとまられた
こうせつさんの『いつも歌があった』を手にとりました。
まだ読み始めですが、
すごく味のあるイラストがけっこう入っており、
だれが描いたのだろうと思ったら、
こうせつさんでした。
へ~、こんな絵を描くんだぁ。知らなかった!

 

僕の家はお寺でしたから、母が炊くご飯の香りと同時に、
本堂のほうからポクポクと木魚の音が聞こえてくる。
父の毎日の朝のお勤めです。
ある時、父に、
「こうやって毎朝拝んでいるけど、本当に仏様っているんですか?」
と聞いたら、
父は笑っているだけで答えてくれなかった。
でも、それが自分のテーマになっていきました。
仏様ってなんだろう?
というのが。
(南こうせつ[著]『いつも歌があった』yamaha music media、2019年、p.25)

 

母の炊くご飯の香りと本堂から聞こえてくる木魚の音。
ああ、これがこうせつさんの音楽かな、
って思いました。

 

・コーヒーを一杯の間の枯野かな  野衾

 

なにかが足りない…

 

せんだって気が置けない友人たちとAさん宅にて会食を行いました。
コロナ前は月1ぐらいのペースで集っていたのですが、
コロナのために間が空いてしまい、
四年十か月ぶりの開催となりました。
わが家で行うのが通例でしたが、
書物と物が満ちあふれ、十人もの人数を招くことは難しくなり、
会のメンバーでもあるAさん宅をお借りしました。
Aさんにお願いし、
前日から出汁を用意してもらい、
当日、わたしは秋田の郷土料理「だまっこ鍋」をつくりました。
トリ肉、ゴボウ、ショウガ、セリ、糸コンニャク、マイタケ、ネギ、醤油。
かんぺき!
そろそろだまっこ投入か、
のタイミングで、つゆをお玉ですくい、小皿で試飲。
ん!?
もう一度お玉ですくって試飲。
ん!?
美味しいは美味しい。濃いとか薄い、ということでもない。
どういったらいいのか、
なんとなく"キレ″がない。
しばらくつくっていなかったので、
勘が衰えたか?
それともたんなる勘違いか?
出汁はちゃんと取ってもらったし、材料に不足はないし…
で、
若干の気がかりを残したまま、
家人が事前に用意してくれただまっこを鍋に投入、
頃合いを見計らい、
出来上がったものをお椀に入れ、
つぎつぎテーブルに。
「おいしい」の声がいくつも上がる。
「おかわり」の声も、ひとりふたりでなく。
そうか。
やはり、わたしの勘違いであったか。
と、ひと安心し、
四年十か月ぶりの集いは、盛会のうちにお開きとなった。
その翌日。
早朝、無念無想の瞑想にふけるような時間帯、
あ!
てて、しまった! 酒、日本酒!
日本酒入れるの、忘れてた! そうか、そうだったのか!
ぐやしー!!
すっかり忘れていたことに、ようやく気づいた
のでありました。

 

・まずコーヒーまたコーヒーの小春かな  野衾

 

え! 無知の知じゃないの!?

 

岩波書店からでている『アリストテレス全集3』を、
きほんてきには眉間にシワを寄せながら、やっと読み終えました。
それでも途中、何か所かは、
は~、そうですか、なるほどなるほど、
と合点がいったり、
げんみつ過ぎてプッと笑ってしまう箇所もあったりで、
こういう読書もあっていいかと思いました。
このブログに取り上げるのは、
先週で終りにしようと思っていたのですが、
「ソフィスト的論駁について」
の第34章の本文に付された納富信留(のうとみのぶる)さんの訳注に、
おどろくべきことが書かれていたので、
わたしじしんの備忘録として引用し残したいと思います。
まず本文。

 

われわれは、提出された問題について、
一般にもっともそう思われることとして前提された命題から、
なんらかの推論を成す能力を見出すことを目標とした。
これが、問答法そのもの、
および、試問術の仕事だからである。
だが、
問答法は、ソフィスト術との隣接性ゆえに、問答法的に試問することができる
だけでなく、
当の事物を知っている者としてそれができるように、
推論能力そのものに加えて備えがなされている。
このことゆえ、
われわれは語られた仕事、
すなわち、
〔1〕問い手として答え手に言論を認めさせる能力だけでなく、
〔2〕自分が答え手となって言論を引き受けた時に、
提題を同じ仕方で、
一般にもっともそう思われる前提命題から推論されたものとして守ることを、
この論考の主題としたのである。
その原因をわれわれは語ったが、
このことゆえに、
ソクラテスは問いかけるだけで答えを与えなかったのである。
彼は「知らない」と同意していたからである。
(アリストテレス[著]山口義久・納富信留[訳]『アリストテレス全集3』
岩波書店、2014年、pp.465-466)

 

はやとちりなわたしは、引用した箇所のさいごのところにでてきた
「このことゆえに、
ソクラテスは問いかけるだけで答えを与えなかったのである。
彼は「知らない」と同意していたからである。」
を読み、
「お。無知の知か。」とこころのなかで呟き、
ちょっと安堵したのでした。
そうしたら、
安堵したのも床の間、いや、つかの間で、
ここに訳注が付されていた。
「アリストテレスはソクラテスの「不知の自覚」を「試問術」
として位置づけている。「知らないと知っている」(無知の知)といった、
後世(キケロ以来)のミスリーディングな表現
がここで用いられていない点にも注意。」
ふむ。
トホホなわたし。
「無知の知」と「不知の自覚」。
似ているようで、よく考えると、たしかに違っているような。
それと。
こういうことを言う、言いきる
ことの覚悟とでもいうのか、
翻訳の仕事というのは、並大抵のことではないと、
あらためて教えてもらいました。

 

・冬晴れやヘクトパスカル波高し  野衾

 

眠りによる推敲

 

これまでも幾度か経験していることですが、
いろいろな種類の文章を書き、これでよし、と一旦は思うものの、
ひと晩ぐっすり眠り、
あらためて読み返してみると、
どうしてきのうは、これでよしとしたのかといぶかる箇所が、
かならず、
といっていいぐらい目につきます。
眠りによる推敲、
と勝手に呼んでいます。
「推敲」は、
唐の詩人である賈島(かとう)が
「僧は推す月下の門」の「推(お)す」を「敲(たた)く」にしようか
まよっていたとき、
韓愈(かんゆ)の助言を得て「敲」に決めたという故事
に基づくと辞書にでています。
結果がすでにでているわけですから
何をか言わんや、
ではありますけれど、

 

僧は推す月下の門

 

僧は敲く月下の門

 

ふたつをくらべてみると、おおきな違いは音にあるかと感じます。
月下の世界に、門をたたく音が清澄にひびきわたり
寥寥の瞑目したくなる詩の世界
がゆたかにひろがりゆくようです。
さくじつ、出社し、だいじな手紙を一通書きました。
ひと晩の眠りを経、
もう一度見直すことになります。

 

・電磁波止まずヘクトパスカルの冬  野衾

 

アリストテレスさん

 

『トポス論』を読むと、アリストテレスさんの本領発揮とでもいうのか、
理屈っぽいことこの上ないわけですけど、
たまに、ほんとうにたまにですが、
眉間にしわを寄せなくても読める箇所がでてきて、
ホッと安心する具合。

 

また、それぞれのものには、それがより大きな力をもつ時機があり、
その時機においてより望ましくもある。
たとえば、
苦痛のないあり方は、
若年よりもむしろ老年におけるほうが望ましい。
なぜなら、
老年におけるほうがより大きな効力をもつのだから。
その意味で、思慮もまた老年におけるほうがより望ましい。
なぜなら、
誰も若者たちが思慮をもっていることを要求しないために、
若者たちを指導者とすることを選択しないのだから。
しかし、勇気については事情は逆である。
なぜなら、
若いときのほうが、勇気にもとづいた活動は、より必要なのだから。
また節制も同様である。
なぜなら、
若者たちのほうが年配者たちよりも欲望によって
より多く困惑させられるからである。
(アリストテレス[著]『アリストテレス全集3』岩波書店、2014年、
p.112)

 

一読、たとえばキケロさんとかセネカさん?
と勘違いするような言いぶりで。
こういうことは、
いかに理屈好きのアリストテレスさんとはいえ、
理屈では測れないところかと。
だからこそ、
かえってアリストテレスさんの人生観を垣間見た気になります。

 

・冬晴れは凛と鳴りたる心かな  野衾

 

厳密になればなるほど

 

クルツィウスさんの『ヨーロッパ文学とラテン中世』のなかになんども
「トポス」という用語がでてきます。
アリストテレスさんのものは、
ひととおり読んだ気になっていたのに、
そういえば『トポス論』はまだ読んでいなかったな。
というわけで読んでみた。
もちろん日本語訳ではありますが、
アリストテレスさん、あいかわらず、言うことがこむずかしい。
ただ、愚直に、文字を舐めるように追っていると、
たま~に、
わらえる箇所に出くわすことがあって、
それはそれでおもしろくもあり。

 

また、定義する人が、関係的なもののそれぞれが
本来それに関係する当のものに関係させて提示したかどうか
も考察する
必要がある。
なぜなら、
若干のものは、
それが本来それに関係する当のものとの関係においてのみ用いることができ、
他の何ものとの関係においても用いることができないが、
若干のものは他のものとの関係においても用いることができるのだから。
たとえば、
視覚は見ることとの関係でのみ用いることができるが、
肌掻き具をワインを汲むために使う人もいる。
しかしだからといって、
誰かが肌掻き具をワインを汲むこととの関係において定義したら、
それは過ちなのである。
なぜなら、
本来的にそのことと関係しているわけではないのだから。
「本来的に関係するもの」の定義は、
「思慮ある人が思慮あるかぎりにおいて、
またそれぞれのものに関する固有の知識が、
それとの関係において用いるそれに当たるもの」
である。
(アリストテレス[著]『アリストテレス全集3』岩波書店、2014年、
pp.247-248)

 

この巻には「トポス論」と「ソフィスト的論駁について」が入っており、
「トポス論」は、山口義久さんが訳されています。
で、
文中の「肌掻き具」。
訳者の山口さんは、このことばに注を振っておられる。
いわく、
「肌掻き具とは競技者が肌から脂をとったり、女性が肌に付けたクリームを
落としたりするための道具。
アリストパネス『テスモポリア祭を営む女たち(女だけの祭)』556では、
この名前の道具がワインを汲むのに使われているので、
アリストテレスはこのことを念頭においていたかもしれない。」
こういうふうに解説されると、
もとにもどり、
その段落の記述において、アリストテレスさんが何を考えていたのかが、
すこし明確になる。
とはいうものの、わたしのアタマは、
もはやアリストテレスさんから離れ、
ひたすら「肌掻き具」に行っちゃう。
なにそれ?
はじめて知ったけど、
肌を掻く道具を、ワインを汲むのにつかうって、
どういうこと?
そんなことを脳裏に浮かべていたとして、
それなのに、
そのことを踏まえつつ、あのこむずかしい言い方になってしまう、
アリストテレスさんという人が、
なんだかおもしろく感じられてきます。

 

・ストーブや五年日記の農耕詩  野衾

 

人とでなく独りと

 

いろいろなきっかけから、初めての著者の本を読んでおもしろかった場合、
その本だけで終るということはほとんどなく、
ほかにあれば、読んでみようかな、
となりまして。
奥田弘美さんが聞き役となってまとめた中村恒子さんの
『心に折り合いをつけて うまいことやる習慣』
が、めっぽうおもしろかったので、
前著とおなじようにしてまとめられた
『不安と折り合いをつけて うまいこと老いる生き方』
を手にとりました。
二冊ともにある「折り合いをつけて」「うまいこと」
が胆のようです。
奥田さんも中村さんも精神科医。
奥田さんは、
中村さんとの出会いがきっかけで、精神科医に転科されたのだとか。
奥田さんは1967年生まれ。
中村さんは1929年生まれ。わたしの父より二歳上。
さて、二冊目となる本書も、
いまのじぶんと照らし合わせ、考えさせられることが多くありました。

 

中村 そうそう。繰り返すけど、他人さんには近づけば近づくほど、
同じだけストレスも生まれるからね。
家族だけは別物と言う人もいるかもしれんけど、
結局は同じことよ。
近づき過ぎないことがコツやないかな。
人付き合いのストレスを減らしたければ、他人さんじゃなく、
孤独と仲良くすることや。
(中村恒子・奥田弘美[共著]
『不安と折り合いをつけて うまいこと老いる生き方』
すばる舎、2021年、p.89)

中村 そうね。私も人生で大変な時期ほど、付き合う人には
けっこう気を付けてきた。
精神科医という仕事柄、色々な人の話を聞いてきたけど、
いつも不幸なことばかり上手に見つけ出して、それを他人と舐め合うことで、
連帯感をたしかめたい人がおる。
残念やけど、
こうした人と関わっていると元気が奪われてしまうね。
(同書、p.83)

 

じっさいのところはわかりませんが、
中村恒子さんの語り口調は、こういう感じなのかもしれません。
それがうまくハマっている気がして、
たよりになるおばあちゃんの話を縁側で聞いている、
そんな印象をもちました。

 

・雪しんしんと珈琲の香の揺らぎたり  野衾