知性との受精

 

近代詩、現代詩をいろいろ読むようになり、
そもそも「詩って何?」
という、根本のところが気になりはじめ、
そのことに触れていると思われる詩論をあれこれ読む時期がありましたが、
どうもいまいちピンと来ず。
そういうとき、
西脇順三郎さんの詩と詩論を読み、
それまで小むずかしく感じられた詩の世界にサッと風が吹き抜けた、
ような気がした。
チェスタトンさんの『聖トマス・アクィナス』
は、
わたしにとりまして、
どこか小むずかしく感じられていたトマス的な時空を吹き抜ける清新な風、
のようでありました。

 

換言すれば、
トマス哲学の常識の本質は、二つの力、すなわち実在と実在の認識とが作用していて、
それら二つの出会いは一種の結婚だということである。
それは実りをもたらすがゆえに、
真の意味で結婚である。
現代の世界で本当に実りをもたらす唯一の哲学なのである。
それが実際的結果をもたらすのは、
まったく冒険心と不思議な事実との結合だからである。
マリタン氏〔フランスの哲学者。新トマス主義者。1882-1973〕

その『テオナス』(Theonas)という著述の中で、
蜜蜂が花に授精させるように、
外なる事実は内なる知性に授精させる、
という賞賛すべき比喩を用いている。
ともかく、
聖トマスの全体系は、いってみれば、そのような結婚の上に打ちたてられている。
神は人間を、
実在と接触できるように創造し給うたのである。
「神の配あわせ給いしもの、人これを分かつべからず」
〔新約聖書「マタイ福音書」第19章第6節、「マルコ福音書」第10章第9節〕
である。
(G.K.チェスタトン[著]生地竹郎(おいぢ・たけろう)[訳]
『聖トマス・アクィナス』ちくま学芸文庫、2023年、p.233)

 

・夏草や少年は夢に踏み入る  野衾

 

ジャズ事始め

 

いちばんさいしょに買ったものではないのですが、
マイルス・デイヴィスの『Bitches Brew(ビッチェズ・ブリュー)』
は、
ジャズを聴き始めて割と初期のころに買ったアルバム。
LPレコードで、ジャケットの絵柄がかっこよく、
いわゆるジャケ買いというやつ。
聴いてみました。
ところが、は? ん?
え?
そんな感じ。とらえどころがない。
これ、どう聴けばいい?
いまから思えば、
初めて聴くジャズではないものの、それに近い時期に聴いても
さぞやちんぷんかんぷんだったろうなあ、
と今なら思います。
あの頃のジブンに言ってあげたい。
それ聴いても、たぶん分からないと思うよ。
だって、子どものころから、歌謡曲と演歌しか聴いていませんでしたから。
あと、学校で習う音楽。
三橋美智也さんの『達者でナ』に感動したこころをもって、
それをたよりに『Bitches Brew』を聴いても、
感動できるかといえば、
感動できる人がいるかもしれませんが、
わたしの場合は無理でした。
ところが。
学校を卒業し、教師になり、教師を辞め出版社勤務、そして父さん、いや倒産、
会社設立、と、
いろいろ忙しくしながらも、
だんだんジャズに馴染んできてたんでしょうかね、
あるとき、
ふと思い立って、
そう、
ちょうど今のこんな暑い時期でした。
CDを掛けながら、ふと目を上げ、茫然自失。
ああ、かっこいいっ!!
なんてかっこいいっ!!
初めて。
きょうの夜中に目を覚ましたとき、
そのときのことが不意に蘇り。
きっと暑い日が続いているからかな。
ということで、
きょうは、あとでこのCDを聴こうと思います。

 

・蜩やけふの暮しの仕舞ひ時  野衾

 

光の教会の牧人

 

トマス・アクィナスさんといえば、「聖」のつく偉いひとのイメージがあり、
また、
日本語訳で45巻にもなる『神学大全』を書き、
しかも未完で、
さらに『神学大全』は聖トマスさんの全著作の七分の一、
なんて言われると、
どんだけ本を書けば気が済むの、
と唖然としてしまいます。
ですが、
デカルトさんが愛読し、
神学者としては唯一研究しようとしたのが聖トマスさんだった、
なんてことを目にすると、
また、ふつふつと興味がわいてきました。
そうすると、不思議なことに、そこに触れてくるような本が目につき、
さっそく取り寄せ、読んでみました。

 

彼が人間の問題に対するように天使の問題に興味を抱いたのは、
それがひとつの問題、特に中間的存在者というひとつの問題だったからである。
神よりも下で人間よりも上
であるこのはかり知れぬ知的な存在者の中にあると彼が考える神秘的な特質について、
私はここで取り扱うつもりはない。
その独自な段階の理論を発展させるにあたって、
この神学者が主としてかかわっていたのは、
鎖の一環、階梯の一段の持つこの特質であった。
なかでも、
人間の中心的神秘を魅力的に感じた時に、彼の心を主として動かしたのは、
まさにこのものだったのである。
彼にとっては、要点はつねに、
人間は空に上って行く風船ではなく、
大地にの中に単にもぐっているもぐらでもなく、
むしろ根を地中にはって養分をとり、星に向かって、
もっとも高く枝を伸ばしているように見える樹木に似ているということであった。
(G.K.チェスタトン[著]生地竹郎(おいぢ・たけろう)[訳]
『聖トマス・アクィナス』ちくま学芸文庫、2023年、pp.205-6)

 

ああ、この人は光を見ているのだな、
想像するに、それは、
5歳から14歳まで学んだモンテ・カッシーノのベネディクト会修道院での、
体験の時間によるところが大きいな、
と感じます。
「天使的博士」より、
「光の教会の牧人」というのが、
わたしにとってのトマス・アクィナスさんです。
引用文のもとになっているのは、
1976年12月8日に春秋社から刊行された『G・K・チェスタトン著作集6』所収の
『聖トマス・アクィナス』です。

 

・かなかなや閑の境内子らに降る  野衾

 

接続詞「そして」

 

いただいた原稿が組み上がると、いよいよ校正作業に入りますが、
鉛筆で割とチェックすることばに接続詞の「そして」
があります。
『明鏡国語辞典』の説明には、こうあります。

 

①前に述べた事柄に引き続いて次に述べる事柄が起こる意を表す。
そうして。それから。
「車はスピードを緩めた。――停車した」
「旅に出る。――人に会う」
②前に述べた事柄に付け加えて述べる意を表す。
そうして。それから。
「この小説は、深い感動と、――勇気を与えてくれる」
「兄はアメリカへ、――弟は中国へと旅立った」

 

いただく原稿の多くは論文で、②の使い方が目につきます。
論文の場合、思考の論理がだいじですが、
「そして」をふくめ接続詞は、
論理を補強するように働きます。
なので、
なるべく接続詞がなくても論理が徹底するように、構文を矯めつ眇めつ眺め、
文章を吟味するようにしています。
そのことを通して、
論理の強度をつかみたいと願いながら。
たとえば、引用した②の例ですと、
論文ではないので一概に言えませんけれど、
論文の中で目にすれば、
おそらく、
「この小説は、深い感動と、そして勇気を与えてくれる」
の「そして」に鉛筆で線を引き、
「トルでいいのでは?」と著者に伝えるべく、
チェックを入れるでしょう。
「この小説は、深い感動と、勇気を与えてくれる」
になります。
そうするとこの文では、
読点が「そして」がある時よりも利いてくると思います。
しかし読点まで消して
「この小説は、深い感動と勇気を与えてくれる」
にすると、
ツルンとした文になるので、
そうはしたくない。
前後の文章ともあわせ、
幾度か声にだし呼吸をふくめ、
くり返しくり返し校正することになります。
②のもう一つの例文も、
「そして」を消し、
「兄はアメリカへ、弟は中国へと旅立った」としたいかな。

 

・忙中閑寂しき母へ夏見舞  野衾

 

デカルトさんとアクィナスさん

 

伝記好きの、それも、読み応えのあるぶ厚い伝記が好みのわたしとしては、
これは読まずにいられませんでした。
『デカルトの生涯』
上下巻合せると、優に千ページを超えます。
ぶ厚い伝記を読んでおもしろいのは、
なんといっても、
これまでじぶんが持っていた印象が揺さぶられ、
ときに、
まったくイメージが変ってしまうようなことが起きること、
です。
まだ下巻を読み終えていないので
なんともいえませんが、
上巻で、
わたしにとりましては衝撃的なことが書かれていて、
さっそく付箋を貼りました。
こんなこと。

 

しかし、敵対者たちのやり方にかかずらうことはやめて、
彼らには、
デカルトは『序説』にある道徳の四つの規則を、
それがいかに優れたものであるにせよ、
道徳哲学の規則だった完成された体系であると考えたことは決してなかった
と言うだけにとどめておこう。
デカルトは、
他人に規範を示すことは決して自らの使命ではない
ことを確信していたので、
正当に自分に課された規範につねに従っていた。
デカルトは、
愛読し、神学者としては唯一研究しようとしたことのあった聖トマスのもの
とは別の道徳哲学を構想したり、主張したりすることは決してなかった
ことは間違いないであろう。
(アドリアン・バイエ[著]アニー・ビトボル=エスペリエス[緒論・注解]
山田弘明+香川知晶+小沢明也+今井悠介[訳]
『デカルトの生涯 上』工作舎、2022年、p.426)

 

この本、原著は、1691年ということですから、
三百数十年も前になります。
デカルトさんが亡くなって41年後のもので、
だからというのか、
ただの情報ではなく、
翻訳を通してですが、血が通った記述になっていると思います。
ぶ厚すぎてこれまで翻訳されてこなかったんですかね。
どう言ったらいいでしょう。
わたしとしては、
この本によって、はじめて、
肖像画に描かれるあのデカルトさんの表情に合点がいった、
そんな感じ。
ひとの印象というのは、変わるなぁ。

 

・地より出て地にかへりゆく蟬の空  野衾

 

蟬くんのこと

 

ふるい小さいマンションなので、エントランスも至ってシンプル。
いまの時期、
朝、ゴミを出しにドアを開けると、
コロッところがっている蟬くんにでくわすことが多い。
つまもうとする瞬間、ジジッと体をふるわせ、飛び立つものもいますが、
いのちを終えたものもいて、
その場合は、
マンションの前にある緑うっそうたる藪の下に置きます。
いつも驚くことながら、
蟬くんのあの体の小ささ、軽さから、
どうしてあんな大きな声というか音を発することができるのでしょうか。
いのちの不思議とは、まさに蟬くんのこと。
字でいえば、
「蝉」より「蟬」がカッコいい。
つくりの「單」(ぜん)が、はじき弓の象形だそうで、
蟬くんのかたち、腹のふるえは、
たしかに、はじき弓「單」を連想させます。

弊社は本日より通常営業。
よろしくお願い申し上げます。

 

・サイフオンのフラスコ朝は蟬の声  野衾

 

思う火だから「思ひ」

 

連日記録的な暑さがつづいていますが、暦の上では秋に入りました。
無理にも涼しい風を引き寄せ感じて、
ことし三分の二の来し方を反省する日もあり。
反省はまた物を思うことでもありますが、
和歌の世界では、
「思ひ」の「ひ」は「火」に掛けられて詠まれることが多かったようです。
たとえば『新古今和歌集』1032番、
寂蓮法師の

 

思ひあれば 袖に蛍を つつみても いはばやものを 問ふ人はなし

 

峯村文人(みねむら ふみと)さんの訳は、
「思いという火があるので、袖に蛍を包んででも、心を告げたいものだ。
物思いをしているのかと問う人はいない。」

 

また1033番、後鳥羽院の

 

思ひつつ 経にける年の かひやなき ただあらましの 夕暮の空

 

峯村さんの訳は、
「思い続けて過ぎてしまった年のかいがないのか。
ひたすら、逢えたらよいという期待がつのるばかりの、夕暮の空よ。」

 

なにか物を思うのは、精神的な営みだとの観念があり、
そうではありますけれど、
それが胸に、こころに、火を宿しているという、
その捉え方がなるほどと思い、
いいなぁ、わかるなぁ、
腑に落ちる気がします。

弊社は明日より今月16日(水)まで夏季休業となります。
17日(木)から通常営業。
よろしくお願い申し上げます。

 

・秋近し恋は思ひの止み難し  野衾