知性との受精

 

近代詩、現代詩をいろいろ読むようになり、
そもそも「詩って何?」
という、根本のところが気になりはじめ、
そのことに触れていると思われる詩論をあれこれ読む時期がありましたが、
どうもいまいちピンと来ず。
そういうとき、
西脇順三郎さんの詩と詩論を読み、
それまで小むずかしく感じられた詩の世界にサッと風が吹き抜けた、
ような気がした。
チェスタトンさんの『聖トマス・アクィナス』
は、
わたしにとりまして、
どこか小むずかしく感じられていたトマス的な時空を吹き抜ける清新な風、
のようでありました。

 

換言すれば、
トマス哲学の常識の本質は、二つの力、すなわち実在と実在の認識とが作用していて、
それら二つの出会いは一種の結婚だということである。
それは実りをもたらすがゆえに、
真の意味で結婚である。
現代の世界で本当に実りをもたらす唯一の哲学なのである。
それが実際的結果をもたらすのは、
まったく冒険心と不思議な事実との結合だからである。
マリタン氏〔フランスの哲学者。新トマス主義者。1882-1973〕

その『テオナス』(Theonas)という著述の中で、
蜜蜂が花に授精させるように、
外なる事実は内なる知性に授精させる、
という賞賛すべき比喩を用いている。
ともかく、
聖トマスの全体系は、いってみれば、そのような結婚の上に打ちたてられている。
神は人間を、
実在と接触できるように創造し給うたのである。
「神の配あわせ給いしもの、人これを分かつべからず」
〔新約聖書「マタイ福音書」第19章第6節、「マルコ福音書」第10章第9節〕
である。
(G.K.チェスタトン[著]生地竹郎(おいぢ・たけろう)[訳]
『聖トマス・アクィナス』ちくま学芸文庫、2023年、p.233)

 

・夏草や少年は夢に踏み入る  野衾