出会いはスローモーション

 

中森明菜さんの歌に『スローモーション』があります。
歌詞のなかに「出逢いはスローモーション」という文言がでてきます。
恋愛の歌ですから「逢」の字がつかわれているのでしょう。
さてこちらは、
時代を代表する哲学者と、
劇作家、小説家、自然科学者、博学者、政治家にして法律家でもある天才
との出会いですから「会」でいいかと。

 

一八〇一年十月十八日、
教授資格取得手続きは『惑星軌道論』を学部長に提出することで形式的には完了した。
二日後の十月二十日、
彼はシェリングに頼んで
ワイマール公国宰相ゲーテに会えるよう計らってもらっていて、
ゲーテの日記には二十一日の日付で
「十一時、ヘーゲル博士来訪」とある。
この初めてのゲーテとの出会いについては詳しいことは分かっていないが、
まったく形式的な表敬訪問だったらしい。
ゲーテの『ファウスト』第二部はまだ完成していなかったが、
ゲーテはすでに『ファウスト』の詩人として名声を高めていて、
官職に就きたいと望んでいるこの無名の訪問者が後日、
ファウストに始まるとも言える世界史を叙述し、
詩人が姿と形で捉えるものを「理念」に置き換えることになろうとは、
そのときは予想もしていなかった。
ヘーゲル自身にしても予想してはいなかっただろう。
それはまったく性質の違う二人の人物の出会いであった。
一方は、
思弁に不信を抱く視覚型の人間で、彼にとって経験とは身をもって体験すること、
対象を感覚的に手探りすることを意味し、
自然科学者であるとともにあらゆる意味で世馴れていて、
自然と技巧が体内に渾然と調和しているのに対し、
他方は、
抽象をこととする人間で、
対象の形態をその理論上の状態に還元し、
対象の基礎にある力の法則性を探り、それを熟考し、
その影響するところを追求する。
一方は、
かつてのシュトゥルム・ウント・ドラングの詩人で、
ドイツの天才の中でも第一人者とも言えるやみくもに前進する奇人、
他方は、
じっくりと思索に耽り、前進しても次に後戻りする傾向の持ち主、
一方は芸術家にして芸術的なかけひき上手、
他方は世事にうとくぎごちない動きをする書斎学者。
こうした二人がそのとき初めて向い合ったのであった。
(ホルスト・アルトハウス[著]山本尤[訳]『ヘーゲル伝 哲学の英雄時代』
法政大学出版局、1999年、p.151)

 

伝記を読んでいておもしろいのは、こういうところ。
へ~、この人がこの人とこんな形で出会ったの、
と、
いきなりその現場に立ち合っているかのような錯覚にとらわれます。
ヘーゲルさんとゲーテさん、
肖像画で知っているふたりの風貌を思い浮かべると、
なんだか楽しくなってきます。

帰省のため、19日(火)のブログはお休みします。
よろしくお願いします。

 

・にぎやかもけふをさかひの虫の声  野衾

 

夢二さんと新古今

 

竹久夢二さんの作詞した歌に『宵待草』があり、
一番の歌詞をなんとなく憶えています。

 

待てど暮らせど 来ぬ人の
宵待草の やるせなさ
今宵は月も 出ぬそうな

 

これをふと思い出したのは、いま『新古今和歌集』を読んでいるからでありまして。
1283番、有家朝臣(ありいへのあそん)の歌。

 

来ぬ人を待つとはなくて待つ宵の更けゆく空の月も恨めし

 

宵待草は出てこないとはいうものの、
「来ぬ人」「待」「宵」「月」が重なります。
夢二さんの歌詞には、原詩があり、実体験を踏まえて作られたそうですが、
体験をことばに置き換えるときに、
読んできたものが不意に思い出されたり、
意識的に思い出し、
本歌取りすることは考えられます。
上のふたつ、
無関係ではない気がします。
それについて、
すでにちゃんと調べが付いていて、
単にわたしが知らないだけかもしれません。

 

・信号待ちいづ方よりの虫の声  野衾

 

収穫の時

 

両親ともに高齢なので、週に三度電話をします。
一日おきぐらいですから、具体的な用事はほとんどなく、朝の食事は終ったか、
けさの天気はどうか、稲の具合は、そんな程度のことではありますが、
親子ですので、
声の質やトーンで、体調や気持ちの張りが分かります。
電話にはだいたい父が出ます。
きのうは電話をする日でしたが、
明らかに声の張りがちがっていました。
力がみなぎっているというのか、
若々しい声なので、
すぐに予測がつきましたが、
父の語りをだまって聴いていると、予測的中。
家の稲刈りが半分終ったとのこと。
あと半分をすぐに収穫できればいいのだけれど、コンバインの調子が悪く、
いま業者を呼んでいる云々。
九十二歳の稲刈りがいよいよ始まりました。

 

あめが下のすべての事には季節があり、
すべてのわざには時がある。
うまるるに時があり、死ぬるに時があり、
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
殺すに時があり、いやすに時があり、
こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時があり、
悲しむに時があり、踊るに時があり、
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、
抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
捜すに時があり、失うに時があり、
保つに時があり、捨てるに時があり、
裂くに時があり、縫うに時があり、
黙るに時があり、語るに時があり、
愛するに時があり、憎むに時があり、
戦うに時があり、和らぐに時がある。

 

旧約聖書にあることばですが、引用した日本語は、わたしが十代で購入し、
もっともながく親しんできた1955年改訳の口語訳。
「伝道の書」第三章にある文言です。
うれしいときも、悲しいときも、
こころがどんより曇ってなかなか晴れないときも、
事あることに思い出しては
口にしてきましたから、
いまはそらで言うことができます。
それはともかく。
帰宅後、テレビを見ながら夕飯を食べていたとき、
電話が鳴りました。
これはきっと、
と、予測がつきました。
電話に出ると、父の明るい声がする。
「稲刈り、終った!! 安堵した。やああ、えがった!」
「そうが、えがったな。疲れだべ。おつかれさん。あど、ゆっくり休め!」
九十二歳の稲刈りが終りました。

 

・雲は動かずおとなしき秋となる  野衾

 

季語について

 

このブログは、下に、駄句をひとつ載せることを自分のル-ルにしています。
俳句には季語があって、
たとえばウグイスは、けっこう暑くなってからも鳴いているのに春の季語。
金魚を水槽で一年中飼っているとしても夏の季語。
なので、
俳句をつくるときに、
なんとなく、これは春だろう、これは夏だろうと思っても、
また、
これは季節に関係ないだろうと思っていたのに、
調べてみたら
冬の季語(たとえばタヌキ)だったりしますから、
めんどうでも、
歳時記で確認しないと間違えてしまうことがあります。
どうしてこれがこの季節?
と感じるものが少なくありませんが、
残暑きびしき日がつづく今日このごろのこととて、
「涼し」という季語のことが思い浮かびます。
わたしが使っている『合本 俳句歳時記 第三版』(角川書店)で「涼し」を引くと、

 

暑い夏に涼気を覚えること。朝夕の涼しさ、水辺の涼しさ、星の涼しさ、
露の涼しさなど、
俳句では暑さの中に涼しさを捉えて夏を表現する。

 

と書かれています。
この説明文を読んで思うのは、
語がいずれかの季節に含まれるというよりも、
ことばが季節を支え、
ある特定の季節を表現するのに役立っているということ。
あることばの指し示すものが二つ、三つの季節、
また一年中見られるものであっても、
そのことばがいつの季節を表現するのに役立っているか、
それは古来日本人が、
そのことばとどの季節を結びつけ捉えてきたかを知る、
いわば、
日本人のこころを知るのにも有益な気がします。
季節がことばを後押しし、
また、
ことばによって季節が支えられている、
そんな風に考えると、
俳句作りが楽しくなります。

 

・夏草や賑はふ昼をとどめをり  野衾

 

正しい人はいない

 

この地上に、正しい人は一人もいない
善を行い、罪に陥ることのない人は。

 

旧約聖書「伝道者の書」にでてくることばです。
「新改訳2017」では「伝道者の書」
ですが、
ほかの訳だと「伝道の書」だったり「コヘレトの言葉」だったりと、
すこしずつ異なります。
引用した箇所の文言も、
すこしずつ違います。
『聖書』を初めて読んだのが十九歳、
けっこうながく親しんできまして、
いまも毎日読むのを日課にしていますから、
いかに物忘れの激しいわたしでも、
長くない、いくつかのフレーズは暗記していて、ことあるごとに思い出します。
意識的に思い出すのではなくて、
不意に口を衝いてでてくる感じですかね。

 

この地上に、正しい人は一人もいない
善を行い、罪に陥ることのない人は。

 

あたりまえと言えばあたりまえのことばのようですが、
年齢を重ねるとともに、
思い出すことが多くなりました。
味わいの深いことばです。
人間関係、コミュニケーションの要諦としても肝に銘じておきたいことば
であると感じます。
じぶんが正しくて、相手の方が悪い、非は相手にある、
と思っている限り、
よき関係をきずくのはむつかしい。
いかに外面をよくしても、
腹のうちで「じぶんは正しい」
と頑なになっている限り、
ふかいコミュニケーションは成り立ちません。
わたしにも非がある、じぶんは正しくないかもしれない、と本気で思った分だけ、
こころはゆるむ、
のではないでしょうか。
お互いのこころが、そうやってゆるんだ分だけ、
相手の良さが、頭で考えるのではなく、
目に見えるようになり、
コミュニケーションの可能性が生まれてくるのだと思います。
この世の悩みの多くは、
人間関係にあり、
それは洋の東西を問わず、古今を問わないようです。

 

・峠道涼しき風の白さかな  野衾

 

とほほのヘーゲルさん

 

哲学者というのはこわい顔をしている、というイメージが多分にありまして、
それはヘーゲルさんによるところ大であります。
それとフッサールさんかな。
そのヘーゲルさんの伝記を読んでいたら、
『精神現象学』や『大論理学』をものしたヘーゲルさんも、
浮世のことではそうとう困ったろうなと笑ってしまうエピソードが記されており、
あのこわそうな顔を脳裏に浮かべつつ、
人生のままならなさを思わずにはいられませんでした。
ニュルンベルクのギムナジウムで校長先生をしていた当時のこと。

 

とにかく学校の管理のために過大な要求が突きつけられていると彼は思っていた。
校長の職務を減らせてもらえるなら、
一〇〇グルデンの特別手当を返上してもいいとも思った。
そんな金のために「時間の無駄使い」
はしたくなかった。
「補助クラス」の便所が軍隊に接収されるというスキャンダラスな状況があって、
彼はこの問題と何週間も格闘していた。
生徒たちは近所の民家の便所に招かれざる客として押しかけ、
近所の住民からの学校への苦情を覚悟せねばならなかった。
校長にできることと言えば、
生徒の親に
「学校ではできるだけ用便をしないよう子供をしつけてほしい」
と頼み込むことだけであった
(一八〇九年二月十二日付、ニートハマー宛の手紙)。
(ホルスト・アルトハウス[著]山本尤[訳]『ヘーゲル伝 哲学の英雄時代』
法政大学出版局、1999年、p.246)

 

・栗鼠の尾や道の空なる秋風に  野衾

 

そのときどきの今を語る

 

中世ドイツの神学者をテーマに博士論文を執筆された研究者の方が、
本の出版に関して打ち合わせのために来社。
いつものように、
事前に論文を精読し、
当該神学者を取り上げた他の既刊の書籍を読んだりして、
提示された論文についてのわたしのとらえ方を吟味し打ち合わせに臨みました。
それはいわば予習していたことの発表の場、
でもあったわけです。
本の打ち合わせは総じてそういう形になります。
ところが、
いくら予習していても、
打ち合わせ当日のわたしのからだ、わたしのこころ、わたしのあたま、
まではわたし自身予測不能ですから、
どういうことばでどう語るかは、
その場になってみなければ分かりません。
そういう認識は、
打ち合わせに限らず、講演でも、対談でも、鼎談でも、
これまでもボンヤリとはあった
のですが、
きのうはそのことをハッキリ途中で意識できました。
大げさみたいですが、
わたしには強烈な驚きでした。
「いま」に触れた。
「いまを生き」ている
ことの恩寵とでもいったらいいのか、
なにかすばらしい時間を、
そんなに長くつづいたわけではなかったけれど、
刻々体験しそれを味わい意識し、
その喜びに満たされていたと思います。
時時刻刻を体感する喜びが、
日々の仕事のなかに可能性として常に埋め込まれ秘められている
と気づかされた瞬間でもありました。
歓喜の波はやがてしずかに収まっていきました。

 

・水澄みて乙女の像の白きかな  野衾