つねこセンセー

 

中学生のときにお世話になった先生につねこセンセーがいます。
苗字で呼ばずに、なぜか名前で呼んでいた。
音楽の先生でした。
どこかで「イマジン」の楽譜を入手し、
つねこセンセーに持っていきピアノで弾いてもらった
ことがあったっけ。
なつかしい思い出です。
漢字で書くと恒子センセー。
同じ字、同じ読みの著者の本がでていて、
つねこセンセーを思い出しながら、
読み終えました。

 

世間では孤独死した人がいると、
やれ「可哀想」だとか「みじめだ」とかまわりの人が大騒ぎしてますが、
私はぜんぜんそんなふうに思いません。
私自身は、孤独死大いに結構やと思ってます。
なぜかというと、
孤独死するってことは、
誰にも迷惑かけずに死んだってこと。
家族に介護の苦労もかけず、
病院で医療費も使わず、一人でさっさと死んでいく。
こんなに立派で、スッキリした死に方は他にないのと違うやろか。
(中村恒子[著]奥田弘美[聞き書き]
『心に折り合いをつけて うまいことやる習慣』
すばる舎、2018年、p.181)

 

ちょっと目から鱗が落ちるような思いをしました。
孤独死というのは、だいたい悲観的、否定的
なニュアンスで取り上げられることが多いからです。
引用した箇所だけだと、
つよがっているようにも受け取られかねませんが、
奥田さんのていねいな聞き書きによって、
恒子先生の来し方を知り、
その都度の判断と生き方を読むと、ふかく納得するところがあります。
中村恒子さんは1929年生まれ。精神科のお医者さん。
奥田さんは内科のお医者さんだったそうですが、
恒子先生との出会いをきっかけに精神科に転科されたとのこと。

 

・田舎家の古びの卓や菊膾  野衾

 

一日一頁

 

一日に一頁だけ読む本が数冊ありまして、たとえていうなら、
親や友だちや近所の人に、
「おはようございます」「こんにちは」
と、あいさつするような感じでしょうか。
一年で終る本もあれば、
十年ちかく、
まいにちあいさつする本もあります。
ことしは七月から
おーなり由子さんの『ひらがな暦 三六六日の絵ことば歳時記』
が加わりました。
「ひらがな暦」の「暦」に「ごよみ」
とルビが振られています。

 

夜の露天風呂。湯気が夜の色にかさなって白くゆれている。
ぼんやりとしたあかりのそばを流れるお湯の音を聞いていたら、
女の人がはいってきた。
うちの母親と同じくらいの年かな、と思っていたら
「天気、あしたもいいみたいですよ」
と、話しかけられた。
「星、いっぱいでてますもんね」
と、お湯の中からいっしょに夜の空を見あげる。
わたしのことを、
お嫁にいった娘と同じくらいだと言い、
住んでるところを聞いてみると、実家のそばだったので、
じゃあ、あそこで、買い物?
などと、話に花がさく。
声のすきまを流れていくお湯の音。
頭に巻いたタオルの先から、しずくがこぼれて、
夜がふかくなっていきました。
(おーなり由子[著]『ひらがな暦 三六六日の絵ことば歳時記』
新潮社、2006年、p.332)

 

文章はもちろんですが、絵も、おーなり由子さん。
由子さんは「ゆうこ」さん。
天はアンカットで、さわれば、ぎざぎざの紙の風合いをたのしめます。
ていねいにつくられた本だと思います。
引用したのは、十月十八日のもの。
タイトルは「湯の音」。

 

・吾の秋刀魚となりの秋刀魚より大きい  野衾

 

だれかを「知る」とは

 

アウエルバッハさんの『ミメーシス ヨーロッパ文学における現実描写』
のさいごのほう、
ヴァージニア・ウルフさんの『灯台へ』
に関し、割と熱っぽい記述がなされており、
そうだ、
買って本棚に差してあるのに、まだ読んでいなかったな、
というわけで、
さっそく読んでみた。
『ダロウェイ夫人』は読んでいましたので、
ウルフさんどくとくの運びは、
あまり違和感なく最後までおもしろく読みました。
小説のなかに、
リリー=ブリスコウという画家が登場します。
彼女についてこんなことが書かれてあり、
とても共感し、付箋を立てた。

 

そしてこれが――と、絵筆に緑の絵具をつけながらリリーは思う、
こんなふうにいろんな場面を思い描くことこそが、
誰かを「知る」こと、
その人のことを「思いやる」こと、
ひいては「好きになる」ことでさえあるはずだ。
もちろん今の場面は現実ではなく、単に想像したものにすぎない。
でもわたしにとって、
人を理解するというのは
こんな個人的な連想によるしかないように思う。
彼女はまるでトンネルでも掘るようにして、
さらに絵の中へ、
過去の中へと踏み込んでいった。
(ヴァージニア・ウルフ[作]御輿哲也[訳]『灯台へ』岩波文庫、2004年、
pp.334-335)

 

小説のさいごのさいごに、リリーさんのこの絵は描き上げられる。
そこがまたとても印象に残りました。
ひとがひとを知り理解するというのは、
時間をかけ、
ていねいに一枚の絵を描き上げるようなものなのだな
と、
ふかく納得しました。

 

・立ち止まり秋刀魚焼く香や小路の店  野衾

 

有限と無限

 

としを重ねてくると、死がだんだん近づいてきますので、
ニンゲンは死んだらどうなるんだろう? 死んだらすべて終りかな?
そもそも死ってなんだろう?
とかとか、
子供のころに空を見上げて、ぼんやり思っていたことが、
にわかに切実さを増してきます。
そりゃあ死んだら終りさ、終りに決まっているさ、
みたいな啖呵を耳にしたり目にすると、
じぶんの不安感がどうにもヘナチョコなものに思えてきます
けど、
ひとはひと、
ヘナチョコでも、じぶんの不安と付き合っていくしかない、
とも感じます。

 

虹は人間のいとなみを映し出すものだ。
あれに則して考えてみろ、そうしたらもっとよく分るはずだ。
光の多彩な反映こそわれわれの生にほかならぬと。

 

人間の感受方法では無限のものを無限のままにとらえることはできず、
そのようなことをすれば、
無限のものが破壊作用を及ぼすだろう。
が、
方法はほかにもある。
人間に定められた、人間独自の方法、
無限のものを有限の形式で獲得するという方法である。
老ゲーテはこんな格言詩を書いたことがある。

 

なんじ無限なるもののうちに歩み入らんと欲すれば、
ただ有限なるものをたどりてあらゆる方向に進むべし。

 

無限性と有限性のあいだに人間の本質は挟まれ、その両方とかかわり合う。
人間の本質の最高の検証であり、
同時に最高の目標となるものは何かといえば、
それ自体ではなんの意味もない有限
のものに、
意味を豊かに蔵する万象と永遠性の息吹
をみたし、
それを宇宙的生命の反映として形成することによって、
より高い統一性に到達すること
である。
そしてこの統一性にいたってはじめて、
澄みきった調和的な人間存在が約束される。
そのとき本質と現象、神的理念と世俗的現実が結び合せられる。
むろんこのような統合は諦念において、
すなわち
みずから制限した実践活動においてのみ実現しうる。
そして成熟と忍耐の長い道のりは、
魂を人間最高のこの目標に近づけるために不可欠なもの
なのである。
(アルベルト・ビルショフスキ[著]高橋義孝・佐藤正樹[訳]『ゲーテ その生涯と作品』
岩波書店、1996年、p.1173)

 

お日さまをジッと見ていれば目がつぶれるから、
ゲーテさんの言うとおりだな。
じぶんの仕事をまじめに忠実におこない、先人の知恵にきいて、
考えつづけることをしたい
と思います。

 

・つれづれを濃き日となして秋刀魚焼く  野衾

 

直接性ということ

 

ドストエフスキーさんを初めて読んだのは、高校生のとき。
漱石さんから始まった読書遍歴ですが、
「ニンゲンて、気持ちの悪い生き物」
という感想は、
さらにエスカレートしていった気がします。
そういうなかでの『罪と罰』の衝撃はすさまじいものでした。
とりわけ、
殺人犯ラスコーリニコフと娼婦ソーニャの
『聖書』にまつわる対話。
「ラザロの復活」について、ことばを継げなくなる
ソーニャの精神の緊張度。
なんど読んでもドキドキします。
そのことをアウエルバッハさんの本は思い出させてくれます。

 

ロシア人は、十九世紀の西欧文明にはめったにみることのない経験の直接性
を保持してくれたように思われる。
強烈な実際的、倫理的、精神的衝撃が
ただちに本能の深淵を掻き立て、
一瞬のうちに彼らは平静な、時としては無為徒食にひとしい生活から、
実際面でも精神面でも
この上なく恐ろしい極端へと飛びこむのだ。
彼らの本性、行動、思想、感情の振子運動はヨーロッパの他のどの国よりも
はるかに大きいようである。
このことはまた、
われわれがこの書の始めの数章で明らかにしようとつとめた
キリスト教リアリズムを連想させるものである。
愛から憎しみへ、
従順な献身から動物的な野蛮へ、
真理への情熱的な愛から下賤な享楽欲へ、
敬虔な素朴さから残忍なシニシズムへの変化は、
特にドストエフスキーの場合にいえることであるが、
彼に限らず、
法外なものである。
変化はしばしば同一人物に、驚くべき予知できない変動のうちに、
ほとんどだしぬけに現われて来る。
そのたびごとに人々は全力を消耗し、
彼の言葉や行為は混沌とした本能の深みを明かすに至る
のだ。
この深淵は
西欧諸国においても決して未知のものではなかったが、
科学的な冷静な態度、形式感覚、礼節の重視から
表現がはばかられたのであった。
偉大なロシア作家たち、
とりわけドストエフスキーが中欧や西欧で知られるようになったとき、
読者を驚かした作品中の緊張した精神力と表現の直接性は、
初めてリアリズムと悲劇性の混合の真の完成
の可能性を示す啓示ともなった
のである。
(E・アウエルバッハ[著]篠田一士・川村二郎[訳]
『ミメーシス ヨーロッパ文学における現実描写 下』筑摩叢書、
1967年、p.277)

 

・焼き秋刀魚つつく猫背の与三郎  野衾

 

ハトくんのこと

 

ひとつきぐらい前からでしょうか。
ベランダから五メートルほど離れたところにある電線によくハトが来る
ようになりました。
わたしの家は崖の上にあり、
電柱は崖下に設置されていますから、
ハトのとまる電線の位置は、
ベランダに立つわたしの目線とほぼ同じ高さ。
昨日、
自宅PC周りの作業のため業者の方が来宅されたのですが、
わたしはその間、
かれにコーヒーを淹れて出すぐらいで、
ほかにすることもなく、
かといって、
本を読むのもなんとなく憚られ。
と、
おや?
またあのハトくんだ。
というわけで、
しばらくハトくんの様子を眺めていました。
ハトくんじっとしています。
途中、
向こうの三角屋根の家の手すりを台湾リスが走りました。
ハトくん、なおもじっとしてい。
しばらくすると、
尾羽をぐわっと広げました。二度、三度。
また、じっとしている。
今度は、
羽を浮かせ、頭を羽の下に持っていき、なにやら、
羽の下をつついているようにも見えます。
とこうしているうちに、
業者の方の作業も終りに近づいたようでしたが、
ふと、
ひょっとしてハトくん、体調があまりよろしくないのかな
という疑問がわいた。
なにもできないわけだけど、気になります。

 

・朋有りて昭和の歌と茸汁  野衾

 

即物的な厳粛さ

 

読みかけの本がつねに数冊ありまして。
飽き性なんですかね。
一冊読むのにある程度の時間がかかりますけど、そのあいだに、
興味がほかへ移ってしまい、
いま読んでいる本を読み終える前に、
どうしてもそっちを読みたくなる。
で、読み始める。
読んでいるうちに、さいしょのつよい興味がだんだん薄れ、
へいじょうなこころに戻っていく。
と、
読み終わらぬうちに、また別の本が読みたくなる。
あたらしい本を手に取る。
それを繰り返しているうちに、どんどん読みかけの本がふえる。
アウエルバッハさんの『ミメーシス』は、
そういうたぐいの本。
下巻の途中でやめていたのを手に取り、
なんとかこんどは読み終えそう。

 

彼女の生活の愚かしさ、未熟さ、混乱、
彼女をとりかこんでいるこの世の生活のみすぼらしさ、
(「あらゆる生活の苦しみが皿にもって出されたみたいだった」)
を、
はだかにしてみせるフローベールの言葉は、
ほんとうの悲劇の言葉ではないし、
作者も読者も、
ほんとうの悲劇の主人公のように、エンマと一体感をもつことはない。
彼女はいつも作者と読者から、
吟味され、さばかれ、彼女の生活している世界もろとも、
断罪されている。
しかしまたエンマは喜劇の主人公でもない。
絶対にそうではない。
喜劇の主人公となるには、
彼女はあまりにも運命のもつれにかたく捉えられている。
フローベールは決して心理解剖をしないで、
ただ事実そのものに語らせているだけなのではあるが。
フローベールは、
特にバルザックやスタンダールも含めて、
従来の実生活にたいする態度や様式の水準とは、全くちがったものを発見した。
これをひと言でいえば、
「即物的な厳粛さ」と称してよいであろう。
文学作品の様式を示す言葉としては、
おかしいかもしれない。
「即物的な厳粛さ」とは、
不感無覚の立場で、あるいは少なくとも感動をつゆもらすことなく、
人間生活のもつれや情熱の深みに、分けいろうとする態度であって、
芸術家よりもむしろ宗教家や、教師、
あるいは心理学者に期待されるものである。
だが直接われわれに役立つ効果を求める宗教家や、教師や、心理学者の要求は、
フローベールの心から遠い。
彼がこのような態度をとることによって目指したものは、
「さけびでもなく、痙攣でもなく、思考の眼を固定すること」、
つまり言葉によって
観察の対象となっているものの真実を語らせること
であった。
(E・アウエルバッハ[著]篠田一士・川村二郎[訳]
『ミメーシス ヨーロッパ文学における現実描写 下』筑摩叢書、
1967年、p.246)

 

わたしが読んでいるのは1967年発行の筑摩叢書のものですが、
その後、ちくま学芸文庫に入ったようです。
需要があるのかな。
フローベールさんの『ボヴァリー夫人』にかんするこの箇所を読むと、
サルトルさんがあの浩瀚な『家の馬鹿息子』を書いたのも分かる
ような気がしてきます。

 

・薄闇をさらに濃くして虫の声  野衾