生前親しくしていた詩人の長田弘さんは、たいへんな読書家でもありました。
本を読み、それが詩になって、そのことばに触れると、
読む者のこころに沁みてくる、
そんな詩のことばをつむぐ詩人でした。
対談をお願いし、弊社にお越しくださったとき、
お好きだと聞いていたラスクを差し上げた。
手に取り、ちょっと間を置いてから召し上がっていた姿、
お顔の表情が目に焼きついています。
長田さんが愛した人のひとりに、ベンヤミンさんがいました。
こうした建築経験の全体が、いわば触覚的というべき受容を形成している。
触覚的受容とは手で撫でるとか、指先で接するとかの場合の知覚をいうのではない。
すでに述べたことであるが、
時間をかけ、思考にも媒介され、多次元化した経験にともなう知覚を「触覚的」
(ラテン語起源のtaktileをベンヤミンは使う)と呼ぶのである。
この触覚的受容のなかには、
何気なくちらっと眺めるという視覚的受容も含みこまれる。
あらためて建築を注視し、
精神を集中させてその意味を考えてみようとするのは、
建築家か建築の研究者、
それに遺跡を求めて有名建築の前に立った旅行者などである。
これらは例外である。
**触覚的な受容は、注目という方途よりも、むしろ慣れという方途を辿る。
**建築においては、慣れをつうじてのこの受容が、
**視覚的な受容をさえも大幅に規定してくる。(183ページ)
ここまでくると「気散じ」とか「くつろぎ」とかを、
なぜベンヤミンがもちだしたのかが理解できるだろう。
それはこのような意味での触覚的受容が始まる条件のひとつだったのである。
それは時間をかけての受容なのである。
建築群は地表を覆っており、
互いに異質であり、
都市という時空間を背景にすると、すべてが未完成であるといってもよい。
建築の経験、受容のしかたは、
世界そのものを経験することに近接している。
(多木浩二[著]『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』岩波現代文庫、
2000年、pp.122-4)
引用文中の「**」につづく文は、
この本の巻末に「複製技術時代の芸術作品」が収録されており、
そこからの引用文。
岩波現代文庫では二字下げですが、
ブログにアップすると戻ってしまいますので、
「**」としました。
・濃き宵を細く転がる虫の声 野衾