王女エリザベトさん

 

デカルトさんのよき理解者にエリザベトさんという王女がいました。
バイエさん執筆になる伝記を読み、
はじめて知りました。
ドイツ・ハイデルベルクの王女で、ボヘミアの王女も兼ねていたとのこと。
亡命先のハーグに身を寄せていた1642年以来デカルトさんと交わり、
心身問題や道徳などを論じ合ったそうです。
訳注によると、
ふたりの間には多くの書簡が残されており、
『哲学原理』と『情念論』は彼女に献呈されました。
山田弘明さん訳の『デカルト=エリザベト往復書簡』がでていますので、
そちらも読もうと思います。
晩年はドイツ・ヘルフォルト修道院長として生涯を終えたそうですが、
それに関する本文の記述から、
間接的に、
デカルトさんの宗教観が垣間見えるようで、
これも、エピソードとして、
おぼえておきたいと思います。

 

われわれの哲学者王女は、晩年、結局ラーヴェンシュペルク伯爵領の
ヴェストファーレンのハンザ同盟の町ヘルフォルトの修道院長職を受け入れた。
禄はおよそ二万エキュの収入であった。
それは彼女が、
わが家で安息が保証されたなかでようやく充足を味わおうとし始めた時であった。
彼女はこの修道院を、
性別や宗教さえも問わず、
あらゆる種類の人や学者のための哲学アカデミーにした。
ローマ・カトリック教徒、カルヴァン主義者、ルター主義者は
そこに等しく受け入れられ、
ソッツィーニ主義者や理神論者でさえもそこから排除されなかった。
そこに入ることが許されるには、
その人が哲学者であり、
とりわけデカルト哲学の愛好者であれば十分であった。
彼女は、
敬愛する師の徳をとりわけ承認し、賞賛すると証言していたが、
その徳は彼女にカトリックの宗教を高く評価させずにはおかなかった。
彼女はデカルトがお勤めをするのを見た
ことがあったのである。
生まれによる誓いと最初の教育による先入見によって、
彼女はずっと一家の宗教に愛着していた。
それはカルヴァン主義であり、
少なくとも外見上は、
彼女は死ぬまでそれを表明した。
彼女の最期の施設[修道院]は、彼女がルター主義に順応する義務を負わせていた。
修道院ではルター主義の戒律に従って生き、
それを表明した尼僧たちを管理しなければならなかったからである。
この修道院はデカルト主義による最初の学校の一つ
とみなされたが、
王女の死までしか続かなかった。
その死は彼女が六一歳を越えた一六八〇年三月頃にやって来た。
(アドリアン・バイエ[著]アニー・ビトボル=エスペリエス[緒論・注解]
山田弘明+香川知晶+小沢明也+今井悠介[訳]
『デカルトの生涯 下』工作舎、2022年、p.301-02)

 

・もういいかい振り向く鬼に夏の雲  野衾