光の哲学者

 

合理主義哲学の祖といわれたり、心身二元論を唱えた人
といわれたりするデカルトさんですが、
アドリアン・バイエさんによる伝記を読んで思ったのは、
物理的にも精神的にも、光を見、仰いでいた人ではなかったか、
ということです。
合理主義といい、心身二元論といい、脳の松果体を「魂のありか」と呼んだのも、
キリスト教、カトリックの信仰に深く根ざしたもの
だったのではないでしょうか。
巻末付録に、
サン・マルタン大修道院長で、
サン・ジェルマン・ローセロア教会参事会員ル・ロア氏に宛てた、
アウグスティヌス隠者修道会ヴィオゲ神父の書簡
というのが収録されています。
「オラトリオ修道会司祭のポアソン神父が、その院長にいくつか尋ねたことへの答え
として」の詞書が添えられ。

 

(前略)
ご友人の第三の(「第三の」の三文字に圏点)お尋ねは、
デカルト氏が宗教をまったくもたず、いかなる信心の業わざもしなかった
等のことが事実かどうか、というものです。
正直のところ、
この第三のお尋ねについては、
このように重要なことにおいて、
人々が情念のまかせるままに隣人をかくも間違って判断していることに、
たいへんな驚きを禁じえませんでした。
それはあなたのご友人の意見ではないものと確信しています。
しかし(彼がそう書いているように)
彼は、
デカルト氏がそのように言われているのを聞いたのでしょう。
ところで、
私が見て、知っている事実によってこの虚偽を一掃するために、
私はただ次のことだけ申しあげておきましょう。
すなわち、
デカルト氏は、
晩年のおよそ四か月間、
スウェーデンのストックホルムでシャニュ大使の館にいた間ずっと、
健康であったかぎりは(つまり死の九日前を除いて毎日)、
日曜祭日ごとにミサ、説教、夕食後の晩課に出席することを決して欠かさなかった
ということです。
彼は使徒創立ローマ・キリスト教会の深い感情をもって、
参列者による多くの善導とともに、
告解をし、聖体拝領をしました。
これらはすべて、
彼について流されている間違った噂にまったく反することであり、
彼がよきカトリックであったことを明らかに示しています。
第四の(「第四の」の三文字に圏点)お尋ねは、
デカルト氏が信仰上のことがらについて、
不遜で自由勝手すぎる仕方で話していたかどうかを知ることです。
これについては、
彼のスウェーデン滞在中、
私は毎日彼と会話を交わすのが普通でしたが、
彼がそのような発言をするのを聞いたことがない、とお答えします。
むしろそれとは正反対に、
われわれの信仰の秘儀については、
それはわれわれのもつ自然の光の能力を越えており、
その光はそれに決して反対しようとは思わずに服従すべきである、
と彼は率直かつ謙遜に言っておりました。
同じ精神は、
信仰の主題に触れた彼の著作に十分に現れております。
(後略)
(アドリアン・バイエ[著]アニー・ビトボル=エスペリエス[緒論・注解]
山田弘明+香川知晶+小沢明也+今井悠介[訳]
『デカルトの生涯 下』工作舎、2022年、p.653-4)

 

四人の訳者のおかげで、
愛情のあふれるデカルト伝を読むことができました。

 

・水溜まり中を去りゆく夏の雲  野衾