忘れないために

 

学校の国語の授業で習って以来、賢治さんのことはずっと好きで、
好きが高じて、
重い全集を買い込み、
ページを虫が這うようにしてぜんぶ読み、
そのあとも、
ことあるごとに読み返し、
仕事においても賢治さんに関する原稿を読む機会があると、
ありがたいことだと拝むような気持ちになります。
なので、
わたしにとりまして賢治さんはとくべつ。
作品はもちろん好きですが、
賢治さんといえばこれという、ぜったい忘れたくない、
忘れられないエピソードがあります。
それは、亡くなる日の前日、
肥料のことやなにかで訪ねてきた農民の相談に応じたこと。
賢治さんのまごころが表れているように感じ、
そういうことのできる人だったんだとつくづく思います。
さて。
賢治さんのことから書き始めましたのは、
デカルトさんの伝記を読んでいたら、
農夫とのエピソードがなんともおもしろく、
農夫レンブランツさんの情熱とデカルトさんのまごころに触れた気がして、
そこから賢治さんのことを思い出したという次第です。

 

(前略)ディルク・レンブランツは、
フリースラントに臨む北オランダの端の方のニエロップに生まれたオランダの農夫
であった。
郷里で彼が生業としていた靴屋の仕事は、
生計に必要な最低限のものしか彼に生み出さなかった。
しかし、
彼は自分の運命を打ち破る方法を数学への卓越した知識によって見出しており、
しばしば彼の手仕事を犠牲にしても、
数学に打ち込むことをやめることができなかった。
数学の書物を日常のことばで読んでいたこの農夫は、
それにほとんど満足できなかったこともあり、
デカルトという偉大な名前が、
彼の村を去ってデカルトに相談をしに行かせることになった。
デカルトの名声は彼に、
この世で近づくのが最も容易な人のように思い描かせていた。
隠棲した哲学者という彼がもっていたイメージは、
デカルトの孤独の門は衛兵で守られているはずだとは思わせなかったのである。
しかしながらデカルトの家人は、
向こう見ずな農夫として彼を追い返し、
そのあとで家の主人にそれを報告することでよしとした。
レンブランツはその後も二、三度、
最初のときと同じ身なりでふたたびやって来た。
そして、
なにか重要なことを相談したいと思われた人のような決意をもって、
デカルトと話をしたいと懇願した。
彼の外見は
最初のとき以上の厚遇を得るのになんら貢献しなかった。
デカルトにその知らせが伝えられたとき、
その男はなにか施し物をもらうために、
哲学と占星術について話をすることを求めるしつこい物乞いとして描かれた。
デカルトは家人が見た印象を鵜呑みにして、
ことを詮索しようともせずに、
彼に金銭を与え、話すことはなにもない、
と言ってやらせた。
レンブランツは貧乏であったが心までは失っておらず、
われわれの哲学者の施しを拒否して、
まだ自分が来る時ではないようなのでしばらくしてまた来るが、
三度目の来訪はもっと有益であることを期する、
と返事をした。
その返事がデカルトに伝えられると、
彼はこの農夫に会わなかったことを後悔し、
もしその男がもう一度来たときには知らせるように家人に命じた。
レンブランツは数か月後ふたたびやって来た。
この農夫にとっては、
デカルトに会いたいという情熱のために、
二度も旅をして無駄足を踏んだことを認めてもらったので、
彼はあれほど熱意と忍耐とをもって求めていた満足をようやく得たのである。
デカルトはすぐに彼の能力と才能を認め、
すべての労苦に利子を付けて払いたく思った。
デカルトはその男のすべての問題点を教え、
彼の推論を正すべく自分の方法を伝えただけでは満足しなかった。
彼を自分の友人の一人としても迎え入れた。
だが、
身分が低いからといって彼を第一級の身分の人たちよりも下にみなすことはなかった。
そして自分の家と自分の心は、
いつも彼に開かれていることを保証した。
レンブランツは、
エフモントから五、六里しか離れていない所に住んでいたので、
そのときからたいへん頻繁にデカルトを訪問した。
彼はデカルト学派では、
その時代の一流の天文学者の一人になった。
彼はデカルトの『原理』を習得してしっかりと地歩を固めていたので、
生涯を通じてそれ以外のものを基礎とするものは何もうち立てなかったほどである。
『フラマンあるいはオランダの天文学』
は、
デカルトの死後、日常のことばで書かれ、
今日でも多くの学者によって高く評価されているが、
すべてデカルトの体系によるものであり、
渦動説から始まっている。
そこでは地動説の仮説にも大きな光が当てられている。
コペルニクスが、原理と方法を欠いたために証明できぬまま主張していた意見が、
そこでは、デカルトがそれに与えた証明によって完成したものになっている。
さらにレンブランツは、
対数や、
これとは別の算術や幾何学の主題についての著作も出版した。
そこではデカルトの解析と方法が君臨しているのである)。
(アドリアン・バイエ[著]アニー・ビトボル=エスペリエス[緒論・注解]
山田弘明+香川知晶+小沢明也+今井悠介[訳]
『デカルトの生涯 下』工作舎、2022年、p.400-02)

 

上の引用文にパーレン(  )が付されているのは、
訳者の注をみると、
原書の巻末に「第七部第11章への補足」とあって、
それに従い、
しかるべき場所にパーレンを付して入れたと説明書きがなされています。

 

・隙は無し角が直角新豆腐  野衾