歴史が問いつめる

 

きょうは弟の誕生日で、このブログを書く前にまず弟にショートメールを送りました。
年を重ねると年をかさねた分だけ、
何ごとによらず発見することが少なくなるのかな、
と勝手に思っていましたが、
それはただの思い込みでした。
知ることと発見することはちがうなぁ
というのが、
このごろの発見です。
ザ・ブルーハーツの歌に「青空」があり、
歌詞のなかに
「歴史が僕を問いつめる」というフレーズ
がでてきます。
歴史を学ぶのは「僕」で、
「問いつめる」とすれば「僕」のはずなのに、
ここでは逆転している。
メロディーも好きなので、何度となく聴いています。
こんなふうに考えました。
個人のことでいうと、
人生のどこかで強烈な体験をし、それをうまく乗り越えられなかった場合、
それがしこりとなって、
あとからあとから、
傷口から血がふき出すように、
記憶がよみがえる
ということがあるようです。
個人を超えたもっと大きな集団ではどうでしょうか。
ある時点で酷烈また酷薄な出来事が生じた
とき、
それにどう向き合ったか、
きちんと対応し、
問題解決のために遺恨を残さぬような働きをし解決に至ったか、
そのときは分からなくても、
あとからそれが別の形をとって現れ、
ああ、
あのときのあの問題は、
解決したのではなく、隠蔽しただけであったのか、
と気づくことがありそうです。
そんなふうに考えてみると、
「僕」が歴史を学ぶことのほんとうの意味は、
「僕」が歴史を問うのではなく、
歴史が「僕」に何を問うているのかを見極めることかな、
と、
そんなふうに思います。

 

・弟と予定ばかりの夏休み  野衾

 

「今感」に触れる

 

世話になっている鍼灸の先生は、まず脈診を行います。
そうして、
「今週はいそがしかったですか?」
「イライラしませんでしたか?」
「仕事、落ち着きましたか?」
と、
質問の形を取っていますが、
これらは、
「いそがしかった」「イライラした」「仕事が落ち着いた」ことが
脈に現れている、
ということのようで。
ただ脈に触れているだけですが、
そうとうのことが分かられてしまいます。
二宮金次郎さんの有名なエピソードに、
「夏に茄子を食べたら秋茄子の味なのに気づき、
村々に冷害に強い稗を植えるよう指導し、飢饉で餓死者を出さずに済んだ」
というのがあります。
どうやら伝説の域を出ないようですけれど、
ひとつの仕事に集中していると、
物やいのちに触れるだけで、
いろいろなことに気づくことはあるのかもしれません。
わたしの場合ですと、
日々の仕事で読む原稿がそれにあたるかな?
テーマによっては、
たとえば数百年も前の、
それも日本でなく外国の人物に関する研究というのもありますけれど、
執筆しているのは、
いま日本に住まいする研究者ですから、
しずかに精読していると、
どこがどうとうまく言えなくても、
いま現在の感じ、
いわば「今感」に触れる瞬間はあります。
それがあると、
書名だとか、
装丁のイメージ、モチーフがだんだん絞られてきます。

 

・風来る端の夏服揺れてをり  野衾

 

余白のある話

 

哲学者の小野寺功先生と、ときどき電話でながく話をし、またお話をうかがい、
その都度、いろいろ刺激を受けているわけですけれど、
そのことがまた日々考えることの糧になっている
気がします。
野球の栗山英樹さんが「不世出の哲学者」と自著に書いていた森信三さんと
小野寺先生は親しくされていたそうで、
森さんとのエピソードもおもしろく拝聴しています。
そのなかで、
とくに印象にのこっていることが。
あるとき森さんが、
ふかく影響を受けた人のことは、あまりしゃべらないほうがいい、
と仰ったのだとか。
エピソードとしてうかがっただけですが、
その後もたびたび思い出しては想像し、
考えます。
ふかく影響を受ければ受けるほど、
それをしゃべるまえに、まず、ことばにするのがむずかしい。
じぶんのこととして考えてみても、
ひょっとしたら、
じぶんでも気づかないところまでふかく、
ということがあるかもしれない。
だとしたら、
しゃべらないという選択、判断が正しいかもしれない。
しかし、
そこのところを巧く、
余白をのこすような話というのもある気がし。
小野寺先生のお話は、
その都度たのしくうかがいながら、
一方で多くの余白があって、
しばらくするとまたうかがいたくなります。

 

・もの書けば過去も未来も夏の風  野衾

 

光の量

 

はじめて映画館で観た映画は、『ガメラ対ギャオス』だったと思います。
父に連れていってもらったのかな。
以来いろいろ観てきました。
高校卒業式の日に友だちと『ジョーズ』を観に行き、
ぶったまげた。
韓国映画『風の丘を越えて/西便制』とインド映画『きっと、うまくいく』は、
ともに五回。
『きっと、うまくいく』は、もっとかな。
ともかく、
ふたつとも、DVDでも観ていますから、そうとうハマりました。
映画館で映画を観、泣いたり笑ったり、
感動したり。
そうして館の外へ出る。
と、
晴れていれば、
その圧倒的な明るさ、
目を開けていられないぐらいの眩しさに、
映画の内容とは別の感動がありました。
それで、ふと思い出した。
大学受験のために仙台に初めて行ったときのことです。
冬なのに、
なんて明るいんだろう!!
そのときの衝撃はいまにつながっていて、
ここ横浜も太平洋岸ですから、冬の明るさにおいては仙台と共通です。
秋田での思い出はいろいろあり、
笑ったり泣いたり感動したり殴られたり。
でも、
映画にたとえてみると、
とくに冬の秋田は映画館のなかみたい。
それにくらべ、
仙台は、
いわば映画館を出た外の世界。
光の量が圧倒的にちがっている気がします。
たとえば、
大谷翔平さんの笑顔と活躍をテレビで見るたび、
哲学者の小野寺功先生が顔を真っ赤にして笑うときの笑いに接するたび、
映画館の中から外へ出たとき、
また、
仙台に初めて行ったときのことが
ありありと思い出されます。
大谷さんと小野寺先生は岩手のご出身。

 

・遮断機はテンテンテンの溽暑かな  野衾

 

選択の積み重ね

 

朝、目が覚めたときから、夜、眠るときまで、こまかいことまで含めて、
いったいいくつ選択しているのだろう、
みたいなことを、ふと。
たとえば、
目が覚めて、すぐにムクリと起き出すか、
三十秒ぐらい待ってからか、
はたまた五分後か、
いや、十分、十五分ぐらい待ってから、
なんて。
うつらうつらしながら過ごしているうちにまた寝入ってしまったり。
事程左様に、
いま、いま、いま、は、
選択の連鎖連続によって成り立っているなぁと。
そんなことを考えたのは、
日曜日のテレビ番組
「世界の果てまでイッテQ!」
を見たからです。
カンヌ国際映画祭で会場に向かう通路の横で待ち、
世界のスターたちがそこを通るとすかさず出川さんが大声をかけて振り向かせ、
出川さんとのツーショットを撮る、
というもの。
なん人かに声をかけ、企画が成功したり、失敗したり。
やがて北野武さんが来ました。
けっこう遠くに行ってから、
たけしさんは出川さんに気づいたようでした。
サッと手を挙げ、
ニヤリ。
それで終りかなぁと思って見ていたら、
たけしさん、
いつものようにちょっと照れるようにしながら出川さんの方へ、
ゆっくり歩いて来るではありませんか。
びっくり。
出川さんもびっくりしたよう。
「何やってんだお前」「仕事か?」
「がんばれよ」
うれしかったろうなぁ。
たけしさん、
よくぞ歩いて出川さんのところまで行ったなぁと思います。
サッと手を挙げ、
そのまま会場へ入ることも出来たはず。
それだってだれも悪く言わないと思います。
でも、
そうしなかった。
あのとき、
たけしさんは歩いて出川さんのところへ行く方を選びました。
いろんなことがあるでしょう。
しかし、
その後のことは分かりませんけれど、
その後のすべての時間と行いは、
出川さんのところへ歩く方を選んだことの上に載っかっていた
ことになります。
きょうのこのブログ、
もう一つ書こうかな、と思ったことがありましたが、
結局それをそうしないで、
こちらのことを書き、
この選択の上に
このあとの時間が積み上がっていく、
そう考えると、
おもしろいような、
不思議なような、
じぶんで選んだことなんだけど、
妙でもありまして。
きのうは、
保土ヶ谷駅ホームの自販機でリポビタンDを買わなかった。
それもまた一つの選択だなぁ。

 

・キヤンデーと友の笑ひや夏帽子  野衾

 

金次郎さんと正造さん

 

二回目の廻村は八月九日から始められた。
金蔵坊下寺桜秀坊から弥太郎・吉良八郎・民次郎とともに廻村に出た。
廻村時には野中包五郎が同道することもあった。
この九日間にわたる廻村は鹿沼・足尾方面二七ケ村に対して行われた。
この廻村は概ね一回目と同様であったが、
金次郎は思わぬ事態に遭遇した。
それは銅山の公害を目の当たりにしたことである。
八月一五日の日記には新梨子村の銅山を見分した折の記録が記された。
案内に立った村役人の言に基づいた記載である。

 

耕地、屋鋪跡共一円に荒地に相成居候処、銅気にて一切作物実法不申候段申立候
『全集』五巻七一五頁

 

「銅気にて一切作物実法不申」と、
金次郎は銅の鉱毒被害の実態を認識することになった。
同様のことは唐風呂村見分の折にもみられた。

 

石井啓兵衛、昨日罷参挨拶に立寄候処、荒銅吹立之分為見候、
其上銅山迄同人案内いたし、
銅吹立候も為見候(中略)但銅山権現前之瀧致一見候事、
右川銅気にて石不残赤錆相成居候事
『全集』五巻七一五頁

 

村人に銅山まで案内されて、
銅山から出る鉱毒で河原の石が赤錆びている実態を目の当たりにした。
この後、
金次郎が公害に対してどのような取り組みをしたのかは不明である。
今後の研究に期待したい。
(二宮康裕『日記・書簡・仕法書・著作から見た 二宮金次郎の人生と思想』
麗澤大学出版会、2008年、p.358)

 

この廻村が行われたのは、嘉永六年。西暦だと、一八五三年。
まだ明治になっていません。
古河市兵衛さんが足尾銅山を買収するのが明治一〇年(一八七七)。
その後、足尾鉱毒事件が起こり、
田中正造さんが歴史の舞台に登場してくる
ことになりますが、
金次郎さんが銅の毒によって作物が育たない実態を目の当たりにした嘉永六年では、
正造さんはまだ一二歳。
「予は下野の百姓なり」を意識するのは、
もう少し後になるでしょう。
金次郎さんと正造さんが、
直接ではありませんけれど、
足尾の鉱毒においてつながっていることを、
はじめて知りました。

 

・三時間かけて友来る半夏生  野衾

 

金次郎さんの俳句

 

文化三年(一八〇六)には生活の安定ぶりを示す記載が増えてくる。
顕著なのは俳句に関する記載である。
彼の俳号は「山雪」といい、
四月以降「句料」九回に総額四六一文を支払っている。
それに伴ってか、
筆三本(計七九文)、墨(四八文)、硯(一〇八文)、紙(二九八文)
を購入している。
二〇歳前後の金次郎の俳句には、長閑な情景を表現したものが多い。

 

おちつのや 枯いたどりの 五六尺
雉子啼や七里並木の 右左
蝶々や 日和動きて 草の上
山吹や 古城を守る 一つ家

 

日々の暮らしの中で、目に触れた季節の移ろいを詠んだものであろう。
はじめの二句は酒匂川の堤防の情景と思われる。
冬、草木が枯れ果てた中、
いたどりの間に鹿の角を発見した新鮮な驚きが目に見える。
同様に堤防の松並木から雉の声が聞こえてくる。
目をこらすと、
松陰に雉が二三羽見える。
そんな堤防上の光景を素直に詠んだ句である。
三句目は春先の田畑での耕作中に、
目に入ってきた蝶々を詠んだものであろう。
四句目は足柄峠に出かけたとき、
古城付近の一軒家に悠久の流れを観じたものであろう。
金次郎がいつから俳句の指導を受けていたのかははっきりしないが、
二〇歳前後に雪中庵完来宗匠に師事し、
山雪という俳号をもらっていたようである。
(二宮康裕『日記・書簡・仕法書・著作から見た 二宮金次郎の人生と思想』
麗澤大学出版会、2008年、p.61)

 

金次郎さんが俳句をやっていたことを、はじめて知りました。
田舎生まれのわたしは、
自然に触れてのよろこびの句にふかく共感します。
農聖、秋田の二宮尊徳と称される石川理紀之助さんは短歌
でしたが、
身を粉にして農業指導にあたったふたりの先人また偉人が、
共に俳句や短歌をつくっていた
ことに興味をおぼえます。
生成AIがもてはやされている時代だからこそ、
どういう人生を送ったどういう人が、日々の暮らしをいかに味わい、
ことばにしていったか、
それを知ることは、
今に生きるわたしたちの大きな喜びにつながる
ものと思えます。

 

・階段をひと脚ごとの溽暑かな  野衾