そのときどきの今を語る

 

中世ドイツの神学者をテーマに博士論文を執筆された研究者の方が、
本の出版に関して打ち合わせのために来社。
いつものように、
事前に論文を精読し、
当該神学者を取り上げた他の既刊の書籍を読んだりして、
提示された論文についてのわたしのとらえ方を吟味し打ち合わせに臨みました。
それはいわば予習していたことの発表の場、
でもあったわけです。
本の打ち合わせは総じてそういう形になります。
ところが、
いくら予習していても、
打ち合わせ当日のわたしのからだ、わたしのこころ、わたしのあたま、
まではわたし自身予測不能ですから、
どういうことばでどう語るかは、
その場になってみなければ分かりません。
そういう認識は、
打ち合わせに限らず、講演でも、対談でも、鼎談でも、
これまでもボンヤリとはあった
のですが、
きのうはそのことをハッキリ途中で意識できました。
大げさみたいですが、
わたしには強烈な驚きでした。
「いま」に触れた。
「いまを生き」ている
ことの恩寵とでもいったらいいのか、
なにかすばらしい時間を、
そんなに長くつづいたわけではなかったけれど、
刻々体験しそれを味わい意識し、
その喜びに満たされていたと思います。
時時刻刻を体感する喜びが、
日々の仕事のなかに可能性として常に埋め込まれ秘められている
と気づかされた瞬間でもありました。
歓喜の波はやがてしずかに収まっていきました。

 

・水澄みて乙女の像の白きかな  野衾