外の世界がある

 

16日の金曜日から三日間、新幹線で秋田に帰省しました。
大曲駅を出ると、進行方向が逆になり、うしろ向きに電車は走ります。
大曲を過ぎればつぎは秋田。
11時27分、秋田駅着。
暑い暑い。
秋田の気温としてはことし最高の35度。
それもあって、三日間、一歩も外に出ることなく、
家に居た。
歩行がむずかしくなった齢89の母を、明後日には93の誕生日を迎える父が介護しながら、
それでもなんとか暮らしを維持していました。
父も母も、
また、ふたりにくらべればそれほどではないとはいえ、わたしも、
耳が遠くなったので、
交わす会話はひつぜん叫びに近くなる。
とくに趣味のないふたりなので、もっぱらテレビのスポーツ番組を見ている。
甲子園の高校野球があってよかった。
テレビはまた、
大音量のため、四六時中、明るい映画館の中に居るみたいなもの。
本を読むのは、ふたりが寝室に退いている間のみ。
わたしの鏡に父と母が写りこみ、父の姿、母の姿を鏡にわたし自身が写しだされる。
重力にはさからえず、気持ちがだんだん墜ちてゆく。
それをじっと見つめていたとき、
不意にあることばが閃いた。
「すべて世は事も無し。」
上田敏さんが訳したロバート・ブラウニングさんの詩「春の朝」の一行。
訳詩集『海潮音』にある詩の全体は、

 

時は春、

日は朝あした

あしたは七時、

片岡に露みちて、

揚雲雀あげひばりなのりいで、

蝸牛かたつむり枝に這ひ、

神、そらに知ろしめす。

すべて世は事も無し。

 

映画館の中に居れば、そこだけが世界であるように感じるけれど、
映画が終って館の外にでれば、そこに、厳然と世界がある。
「すべて世は事も無し。」
ことばでいえば、そんなふうですけど、
そのことを、
なにかと気分が沈みがちな三日間ではありましたが、
その時間のおかげで、
いままでなんとなく好きだった詩のことばが、これまでとちがった相貌を有ちはじめ、
ちがった光を放ち寄せくる気がしました。
「知ろしめす」は「領ろし召す」であり、お治めになること。
それは、ありがたく、
また悲しい希望であると思います。

 

・大曲過ぎて浮き立つ帰省かな  野衾