映画愛がすごい!

 

アンドレ・バザンさんの『映画とは何か』の映画愛はすごいものがありまして、
取り上げられている映画でまだ観ていない映画は
ぜんぶ観てみたくなる、
そういうたぐいの文章です。
もっともすぐれた書評が、まだ読んでいない人にとって、
読んでみたくなる文章であるのと同じく、
もっともすぐれた映画評は、
まだ観ていない人にとって、その映画を観てみたいと思わせるもの
だとしたら、
『映画とは何か』はまさに、
そういう本であると思います。
たとえば下の文章の「現実の「積分」」という比喩に、
やられました。
高校時代、微分積分を習ったときの感動がよみがえりました。
昨年惜しくも亡くなった医学者で精神科医の中井久夫さんの文章にも、
「微分」がたまに出てきて、
アッと目をみはることがありますけれど、
「現実の「積分」」に、
中井さんの文章と共通の味わいを感じ、
また、人の技とも思えない、
あり得ぬぐらい緻密に組み上げられていく筋立てを想像し、
観てみないことには始まらないなあ、
と感じた次第。
Amazonに注文したDVDがきのう届きました。

 

つまり、筋は彼方で、並行して紡ぎ出される。
それは緊張感の持続としてよりも、
出来事の「総和」によって構成されているのである。
それをスペクタクルといってもいいが、それにしても何というスペクタクルだろう!
『自転車泥棒』は、
もはやいかなる点においてもドラマの基礎的算術に頼ってはいない。
そこでは、
筋立ては本質としてあらかじめ存在しているのではなく、
先行する物語から生じているだけだ。
つまり、
それは現実の「積分」なのである。
デ・シーカの最大の成功は
――これまでのところ、他の映画監督たちはせいぜいそれに近づいたにすぎない――、
スペクタクル的な筋立てと出来事とのあいだの矛盾を超越しうる、
映画的な弁証法を見出したことである。
それによって『自転車泥棒』は純粋映画の最初の一例となった。
もはや俳優も、物語も、演出も存在しない、
現実そのものという美学的幻想の内にある映画。
そこではもはや、
映画さえ存在しない。
(アンドレ・バザン[著]野崎歓・大原宣久・谷本道昭[訳]
『映画とは何か(下)』岩波文庫、2015年、pp.165-6)

 

・文庫本三十ページ秋の雨  野衾

 

受け入れることの難しさ

 

平凡社の東洋文庫に入っている『アラビアン・ナイト』をようやく読み終えました。
アラビア語原典からの日本語訳で、
1~12巻は前嶋信次さん、13~18巻は池田修さん。
ほかに、
「アラーッ・ディーンと魔法のランプの物語」
「アリ・ババと四十人の盗賊の物語」
の入った別巻があり、
ただいまこれを読み始めたところ。
本巻18冊を読み終え、
詠み終えるまでに長くかかったこともあり、
感慨一入。
取り上げられている物語の荒唐無稽さ、
おもしろさが格別なのはもちろんですが、
いちばんに感じたのは、
ひとの心の頑なさ、相手の話を聴き、じぶんの考えを変えることの難しさ、
そのことに尽きます。
極悪非道なシャフリヤール王が知恵者シェヘラザードから毎夜、
この世の珍しい物語をつぎつぎ聴いているうちに、
だんだんとこころがほぐれ、
荒んだこころを入れ替え、
シェヘラザードを殺めるのを自らに禁じたことが、
最後の最後になって分かります。
ひとの話を聴いて理解することは、相手を受け入れることですから、
勇気が必要なのでしょう。
ひとを受け入れないことがあまりに多い世の中で、
ひとを受け入れる勇気を持つこと、
ひょっとしたら、
それだけが希望の灯かもしれない
と、
長尺の物語を読み終えて感じた次第です。

 

・秋の雲恋のこころの夢見かな  野衾

 

男鹿和雄さんのこと

 

知りませんでした。
弊社で出した野崎歓さんの『アンドレ・バザン 映画を信じた男
を読んでいたら、
男鹿和雄さんという方のことがでてきました。
どういう人なんだろうと調べてみると、
秋田県仙北郡太田町の生まれ
とのこと、
そうなのか!
ちょっと驚きました。
さっそく男鹿さんの画集を買って開いて見、
さらに驚き、合点がいきました。
朝もやに浮かぶ山並みの具合、光が薄く射してきらめく得も言われぬ風合いなど、
わたしのふるさと井川町と共通のものを感じ、
たとえば、
腰を曲げ曲げ畑仕事に勤しんでいた金兵衛の婆さんを思い出したり、
宮崎アニメに惹かれる理由が分かった気がします。

 

宮崎アニメにおいて、背景はもはや、
アクションが継起する場所を示すだけのものではなくなっている。
それは物語の宇宙の有機的な一部をなし、
生命の息吹きを湛えてきらめく。
その点で、
『となりのトトロ』(1988年)以来、
宮崎作品の美術監督を務める男鹿和雄の仕事は特筆に値する。
漂う空気まで表現するとされる男鹿の画力は
とりわけ緑の自然、
草木のゆらぎや輝きをとらえるときにただならぬ豊かさを現出する。
しかもそれは単に〝絵”として見事なだけではなく、
つねにアクションと連動した環境として構築されている。
(野崎歓[著]『アンドレ・バザン 映画を信じた男』春風社、2015年、p.201)

 

・秋の雲脳とこころの螺旋かな  野衾

 

光の痕跡

 

和室の低い棚の上に、祖父と祖母の、小さな額に入った写真がそれぞれありまして、
ときどき水をあげ、手を合せます。
ながく見ていると、
駅のだるまストーブのうえでスルメイカを炙った祖父の姿、
米を背負い、
横浜駅の構内でわたしを待っていた祖母の姿、
いろいろいろいろ、
ありありと脳裏をかすめます。
スマホが普及してますます写真が身近になりました。
写真て何かな、その延長の映画って何かな、
バザンさんの本を読み、そんなことを考えます。

 

写真が生まれ、その後、映画が誕生するまでは、
具体的な存在と不在のあいだを媒介することができたのは、
造形芸術の中でもとりわけ肖像画だけだった。
その理由は類似にあり、
肖像画は類似によって想像力をかきたて、記憶を助けたのである。
ところが、
写真は肖像画とはまったくの別物である。
それは事物や人間のイメージではなく、
より正確にいえばその痕跡である。
それが自動的に生成するイメージである点が、
他の複写技術と写真を根本的に隔てている。
写真家はレンズを介して、まぎれもなく光の痕跡を写し取る。
それは型取りによる複製なのである。
こうして写真家は単なる類似を超えた、ある種の同一性イダンチテ
を手に入れるのだ
(身分イダンチテ証は写真が到来しなければありえないものだった)。
だが写真はその瞬間性ゆえに、
一瞬の時間しかとらえることができず、
その意味では不完全な技術だ。
対象の時間を型取りしつつ、
さらにその持続の痕跡までもつかみ取るという異様なパラドックスを実現した
のが映画なのである。
(アンドレ・バザン[著]野崎歓・大原宣久・谷本道昭[訳]
『映画とは何か(上)』岩波文庫、2015年、pp.251-2)

 

・秋の日や脳とこころをながめをり  野衾

 

「世界への信頼」のこと

 

拙著『文の風景』について鼎談を行った折、仏文の中条省平先生が、
ドゥルーズさんの『シネマ』を引き合いに出し、
お話しくださいました。
中条先生いわく、
映画に関するドゥルーズさんの論が縷々展開されていくなか、
下巻の後半(と仰ったかな?)
いきなり「世界への信頼」ということばが登場すると。
そのことばと、
ドゥルーズさんの本にそのことばがあること、
また、
中条先生がそのことばを、
拙著に関するコメントのなかで触れてくださったことが印象に残ったので、
その後、ドゥルーズさんの本を読み、
そのことばを見つけ、嬉しく思いましたが、
反面、
この世界のどこの、
なにを以って「世界への信頼」ということが言い得るのか、
つらつら考えていたところ、
ひとつのヒントがアンドレ・バザンさんの『映画とは何か』にありました。
『映画とは何か』を読むと、
バザンさんが、映画を信じ、世界を信じた人であったことが、
よく分かります。
ドゥルーズさんの「世界への信頼」は、
バザンさんの映画論を踏まえてのことばだったのだと思います。
訳者のお一人である野崎歓さんが書かれた「訳者解説」
から、
ふたりの関係について触れた箇所を引用します。

 

ロラン・バルトの写真論『明るい部屋』(1980年)や、
ジル・ドゥルーズの『シネマ』(1983、1985年)がことあるごとに引用される
のを見るにつけ、
それらの思想家たちの議論の前提となっている本書の翻訳が
長らく絶版のまま、
一般読者が入手しにくい状態が続いていることを残念に思い、
新訳を思い立ちながらも、
なかなか果たせないまま時間が流れてしまった。
『明るい部屋』はサルトルに捧げられており、
バザンの名は一度さりげなく引かれるのみだが、
「写真映像の存在論」を一読すればバルトがそこから汲んだものの大きさは明らか
である。
一方、ドゥルーズの『シネマ』はバザンを頻繁に引用し、
バザン的な映画史のパースペクティヴの延長線上に、
壮大な映画の分類学を建立している。
(アンドレ・バザン[著]野崎歓・大原宣久・谷本道昭[訳]
『映画とは何か(下)』岩波文庫、2015年、pp.282-3)

 

・一日を択び疲れて秋の暮  野衾

 

写真の客観性と聖骸布

 

多木浩二さんの『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』が面白かったので、
それとの関連から、
つぎに手にしたのは、
アンドレ・バザンさんの『映画とは何か』。
バザンさんについては、
弊社から野崎歓さんによる
アンドレ・バザン 映画を信じた男』を出版しています。
さて『映画とは何か』(岩波文庫)ですが、
一般的に「○○について」書かれた本というのは、
記述の対象となっている○○を、
著者がどの程度好きかによって左右されるところ大
であると感じますけれど、
この本などは、
バザンさんがいかに映画好きであるかが文章からひしひしと伝わってきます。
またとくに、
冒頭の「写真映像の存在論」における、
写真と聖骸布との関連についての記述に触れ、
ルーツ好きのわたしとしては、
目から鱗が落ちる思いをいたしました。
聖骸布というのは、
トリノの聖ヨハネ大聖堂に保管されている、
イエス・キリストの埋葬時に用いられた屍衣のことで、
キリストの顔と全身像が奇蹟により浮かび上がっているとされています。
下の引用は、
そのことを念頭に置きつつ書かれたものであることが、
原注に記されています。

 

こうした自動的生成は、
イメージの心理学を根本からくつがえした。
写真の客観性は、
いかなる絵画作品にも欠けていた強力な信憑性を写真映像に与えたのである。
内なる批判精神がどう反論しようが、
私たちは表象されたルプレザンテ対象物の存在を
信じないわけにはいかない。
それはまさにふたたび=提示されたプレザンテ
のであり、
つまりは時間、空間の中に存在プレザンする
ものとなったのである。
写真は事物からその写しへと、
実在性が譲り渡されることの恩恵に浴している。
この上なく忠実に描かれた絵であれば、
モデルについてより多くの情報を私たちに与えることができるだろう。
しかしながら絵は、
私たちの批評精神を撥ね返して私たちの信頼を勝ち取る写真の、
あの不合理な力をついぞ持ちえない。
(アンドレ・バザン[著]野崎歓・大原宣久・谷本道昭[訳]
『映画とは何か(上)』岩波文庫、2015年、pp.16-7)

 

・秋の日の彳む果ては天の原  野衾

 

触覚的受容について

 

小さな会社ではありますが、考えることは山ほどあり、
好き嫌いを言っていられないし、
苦手ジャンルなんだけどなぁと逃げるわけにもいかず、
ここにおいても、ていねいに、コツコツコツを信条に日々を送っています。
そういう日と時間を送りながら、
このごろいつも感じ考えるのは、時代の転換期、
さらに言えば、歴史の転換期をいまわたしたちは生きているのかもしれない、
ということ。
周りを見やれば、
大小さまざま多くの問題がありますが、
まず、
人とのコミュニケートのあり方が、根本的に違ってきているように感じます。
それは、
大げさに言えば、
世界への触れ方が問われていることの証ではないかと。
たとえば本の読み方にしても。
日々、
何気なく移ろいゆくように思える時間のなかで、
いま言った観点、問題意識から、
ヴァルター・ベンヤミンさんのことが視界に入ってきました。
「複製技術時代の芸術作品」のなかで、ベンヤミンさんはつぎのように語っています。
下の引用文は、
多木浩二さんの『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』
からですが、
文章そのものは、多木さんのものではなく、
巻末に収録されている「複製技術時代の芸術作品」
にあるベンヤミンさんのものです。
翻訳したのは、野村修さん。

 

始原の時代から建築は人類に随伴している。
多くの芸術形式がそのあいだに生まれては滅びた。
悲劇は古代ギリシアで成立し、
古代ギリシア人とともに消え去ってから、幾世紀もあとに復活した。
叙事詩は諸民族の青春時代に淵源をもち、
ヨーロッパではルネサンスの終わりとともに消滅した。
タブロー画は中世の産物だが、
これが中断なく続く保証はどこにもない。
しかし、
宿りをもとめる人間の欲求には中断はありえないから、
建築芸術は杜絶えることがなかった。
建築の歴史はほかのどの芸術の歴史よりも長いし、
建築の及ぼす作用を考えてみることは、
大衆と芸術作品との関係を究明しようとするすべての試みにとって、意味がある。
建築物は二重のしかたで、
使用することと観賞することとによって、受容される。
あるいは、
触覚的ならびに視覚的に、
といったほうがよいだろうか。
このような受容の概念は、
たとえば旅行者が有名な建築物を前にしたときの通例のような、
精神集中の在りかたとは、似ても似つかない。
つまり、
視覚的な受容の側での静観に似たものが、触覚的な受容の側にはないからだ。
触覚的な受容は、
注目という方途よりも、
むしろ慣れという方途を辿る。
建築においては、
慣れをつうじてのこの受容が、視覚的な受容をさえも大幅に規定してくる。
また、
視覚的な受容にしても、
もともと緊張して注目するところからよりも以上に、
ふと目を向けるところから、
おこなわれるのである。
建築において学ばれるこのような受容のしかたは、
しかも、
ある種の状況のもとでは規範的な価値をもつ。
じじつ、
歴史の転換期にあって人間の知覚器官に課される諸課題は、
たんなる視覚の方途では、すなわち静観をもってしては、少しも解決されえない。
それらの解題は時間をかけて、
触覚的な受容に導かれた慣れをつうじて、
解決されてゆくほかはない。
(多木浩二[著]『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』岩波現代文庫、
2000年、pp.182-3)

 

・一日の悔いを宥むる虫の声  野衾