精読し忘れる
わたしのいまの文字を読む行為は、本づくりのために仕事として原稿を読むのと、
じぶんの勉強のために読むのと、
連動してはいるものの、大きく二つに分けることができます。
読むスピードは、計ったことはありませんけど、
感覚でいうと、
本づくりを目指しての原稿やゲラを読む時間は、
それ以外の、既成の本を読む時間のおそらく三倍はかかっているでしょう。
校正の回数を考えれば、さらに。
そんな気がするのに、
けさ、ふと感じたのですが、
本を作るために、あんなに精読、熟読し、
いろいろ、ああかな、こうかな、と著者や装丁家とも相談し、
時間をかけた、にもかかわらず、
本が出来てしばらく経つと、
スッと、
どの本にかぎらず、
記憶が薄くなっていることに気づいた。
子どもの頃からもの忘れが激しいし、
このごろは加齢もあって、忘却に、なお一層の磨きがかかっているわけですが、
あれ。ちょっと待てよ、
と。
おぼえておこうと意識し頑張らなくてもいいのじゃないか、
無意識ってこともあるな。
精読し熟読した時間における体験が
いわば経験の水となって、
じぶんの精神の根っこのほうに、
じわり浸み込み根を育て、
それが、
時を経て、わたしの日々の興味と勉強とつぎの仕事に繋がっている
のではないか、
根拠はありませんけど、
そんな気が、ふと、しました。
・忘られぬ怒りの染みを梅の花 野衾