捨ててこそ
下のエピソードは、
すでにこのブログに書いたことがあるものですが、
忘れることについて考えたり、忘れたもろもろに思いを巡らしているうちに、
二十代、七年間務めた教師時代のことをどういうわけか
また思い出して、
おなじエピソードなのに、
万華鏡の傾きをちょっと変えるだけで、見える様子がガラリ変ってしまう、
そんな気もして、
懲りずにまた書くことにします。
あの頃、
学習指導案、いわゆる教案というものを、
その都度わたしも用意し、
調べられることは極力調べ、
できるだけ完成度を上げるべく工夫しました。
それで、教室に向かい授業本番になったら、
教案にたよらず、
いわば教案を捨てる覚悟で、あるいは捨てて、授業に臨む。
そのちょっと変った方法は、
わたしが編み出した、わけではなく、
学生のときに、岩浅農也(いわさあつや)先生の講義で聴いた話が元になって
います。
へ~、
せっかく準備したものをどうして使わないのだろう、
と、さいしょ思いました。
が、
先生の話を聴いているうちに、
教案に頼らない、捨てる極意、覚悟みたいなものでもって、
むしろ目の前の生徒の貌が
よく見え、
ことばで相手に触れることにつながるのだな、
という気がし、
だんだん面白く感じられました。
その感想がさらに増幅したのは、イギリスの演出家ピーター・ブルックさんの
『なにもない空間』を読んだことによる
ものでした。
綿密な計画を立ててワークショップに臨んだブルックさんでしたが、
計画通りにやろうとして、
そのこと(ばかり)に意識が向かい、
場がまったく弾まなかった。
それで、
ブルックさん、開き直っちゃったかして、
ええいっ、の気合いで、
計画してきたことを捨て、その時その場で考え始めた。
そうしたら、
目の前の人の貌が初めて見えてきた。
そのようなことだったと思います。
でも、
計画していたものを捨てた
といっても、
計画立案していた時にあれこれ考えたことは、
なんらかブルックさんのこころと体、精神のどこかに浸み込み、
隠れていたのではないか。
それが、
計画してきた案を捨てたことによって、
むしろ顕現してくる。
そういうことだったのではないか
と感じられ、
岩浅先生から教わった話と重なるように思いました。
その精神は、
教師を辞めた後、現在に至るまで、
いろいろな場面で役立っている気がします。
・佇みて川のほとりの桜かな 野衾