思う火だから「思ひ」

 

連日記録的な暑さがつづいていますが、暦の上では秋に入りました。
無理にも涼しい風を引き寄せ感じて、
ことし三分の二の来し方を反省する日もあり。
反省はまた物を思うことでもありますが、
和歌の世界では、
「思ひ」の「ひ」は「火」に掛けられて詠まれることが多かったようです。
たとえば『新古今和歌集』1032番、
寂蓮法師の

 

思ひあれば 袖に蛍を つつみても いはばやものを 問ふ人はなし

 

峯村文人(みねむら ふみと)さんの訳は、
「思いという火があるので、袖に蛍を包んででも、心を告げたいものだ。
物思いをしているのかと問う人はいない。」

 

また1033番、後鳥羽院の

 

思ひつつ 経にける年の かひやなき ただあらましの 夕暮の空

 

峯村さんの訳は、
「思い続けて過ぎてしまった年のかいがないのか。
ひたすら、逢えたらよいという期待がつのるばかりの、夕暮の空よ。」

 

なにか物を思うのは、精神的な営みだとの観念があり、
そうではありますけれど、
それが胸に、こころに、火を宿しているという、
その捉え方がなるほどと思い、
いいなぁ、わかるなぁ、
腑に落ちる気がします。
*
弊社は明日より今月16日(水)まで夏季休業となります。
17日(木)から通常営業。
よろしくお願い申し上げます。

 

・秋近し恋は思ひの止み難し  野衾

 

ドゥンス・スコトゥスさんのこと

 

ハイデガーさんの伝記を読んでいますと、
ドゥンス・スコトゥスさんという人の名前がでてきます。
若き日の教授資格論文名が『ドゥンス・スコトゥスの範疇論と意義論』
であることからも、
ハイデガーさんの学問にとって、
ドゥンス・スコトゥスさんがたいせつな人であることが分かります。
そうですか。
と、
ひとり呟いていましたら、
2019年に知泉書館から八木雄二さんの訳註により、
ドゥンス・スコトゥス[著]『存在の一義性 ヨーロッパ中世の形而上学』
が出版されていることを知り、
さっそく買って読みました。
ははあ、
なるほどハイデガーさんが注目し、
意識し、研究するはずだな、と思いました。

 

スコトゥスにおいては, 実存する対象の完全な知性認識とは,
直観認識(知覚)であり,
これに対して抽象認識は, 実存(現存)が抜け落ちた不完全な知性認識である。
このような理解は,
二世代前の神学者トマス・アクィナスにはない。
なぜなら,
トマスにおいては抽象認識のほうが神を認識するうえで
よりふさわしい認識だからである。
それゆえにまた, トマスには、知性の直観認識の論はない。
知性の直観認識の論はスコトゥスにおいて中世哲学史上はじめて生じたものである。
さて,
直観認識(知覚)が完全な認識であるとすれば,
それに対して人間知性が一般的に知性認識としてもつ認識は,
一般認識, すなわち, 抽象認識である。
それゆえ,
スコトゥスにおいては,
一般的な知性認識は,
対象を不完全にしかとらえていない認識として理解される。
この段落で, まず知性が色の実在性をとらえる認識について述べているのも抽象認識
の話である。
すなわち,
目前に対象が現存するかぎりの認識ではなく,
時空的限定を問わない普遍的な(一般的な)対象認識である。
したがって,
抽象認識における色の認識であれば,
それは何らかの色の「種」の認識である。
わたしたちは抽象認識でふつう, この「種」の認識を得る。
たとえば「白」とか「赤」とかの認識である。
(ドゥンス・スコトゥス[著]八木雄二[訳註]
『存在の一義性 ヨーロッパ中世の形而上学』知泉書館、2019年、pp.552-3)

 

んー。
小林秀雄さんを思いうかべます。
ゆうめいな「美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない」。
小林さんらしい。
それと。
ドゥンス・スコトゥスさんはイギリス生まれ。
フランシス・ベーコンさん、アイザック・ニュートンさん、
それにジョン・ロックさん
なんかのことも、
つぎつぎ気になってくるし。
三百年生きられたらなぁ。

 

・青空や涼をたづねて佇めり  野衾

 

ゲンジツと絡みながら

 

会社で飲むコーヒーはコーヒーメーカーによるものですが、
家では、サイフォンを使います。
めんどうでないこともないのですが、
ふっくらもわっとしたフラスコの形状も気に入っていて、
気晴らしを兼ね、
ゆっくり、じっくりを、その都度こころに刻むように淹れて飲む、
みたいなことかとも思います。
豆は、
焙煎を専門にする近くの珈琲店で購入していますが、
ブラジル産のものと、
もう一種類、
その日マスターが薦めてくれる豆を常備。
朝、
淹れる直前にミルで挽きます。
計量スプーンで適量の豆をミルに入れてハンドルを回すと、
ミルの刃が豆をつかみ、グッとストレスがかかり、
ガリガリガリガリガリガリ…。
数えていませんが、
一度に二杯分を挽くので、
120回から150回ぐらいのガリガリ度だと思います。
右手でガリすることが多いのですが、
疲れてくると左手も使い。
やがてガリガリの音が止み、急にストレスから解放されたようになり、
ミルの底を持ってミルを回すと、
ハンドルがくるくるストレスフリーで回転し、
なんとも気持ちいい。
その回転を見ながら、ふと、うつに陥っていた時期のことを思い出しました。
豆がゲンジツだとすると、
挽き終ったあとの状態というのは、
いくらハンドルを回しても、
もう一粒の豆もないから、
刃が豆に触れることはなく、ただクルクルクルクル。
豆があったときは、
豆に刃がグッと食い入り、
ブレーキがかかって回転が止まってしまうことも間々あるけれど、
考えようによってはそれがゲンジツ。
ストレスがかかることで、
からみながら目の前のゲンジツをくだき、
ひらき、仕事をこなしていく。
過度でなく、適度のストレスが、仕事にとっては必要でたいせつなものかと、
ふと、
そんなことを思いまして。

 

・涼の日のセゴビア空気より涼し  野衾

 

死に際しての贈り物

 

三十年ほど前のことになりますが、大好きだった祖母が亡くなりました。
亡くなった年の正月に帰省した折、
入院先の病院で会ったのが最後でした。
そのとき祖母に言われたことばは今もはっきり覚えています。
秋田で行われた葬儀に参列しているあいだ、
なんとなく、からだがビリビリし、
悲しいとか、いなくなって寂しいとか、そういう感情、それもなくはないけれど、
それよりも、
ビリリと、からだがまっすぐに伸びて、
こころも伸びて、気圏のかなたから何かが降ってきて、
いまそれを全身に浴びている、
とでもいうような不思議な感動につつまれた。
ああ、おばあさんは、ぼくに最後の贈り物をくださったのだ。
(どうすることもできない悲しみが、あとからやってきた)
それから数年経ち、祖父が亡くなった。
また、
敬愛し慕っていた先生たちが亡くなり、
畏友の死にも遭った。
その都度、ビリリはやってくる。
からだがまっすぐに伸びて、
そうだ、
もうもう、まっすぐに生きていこう、その他のことにはあまり気を取られまい。
受けとる側の問題で、
この世を去っていく人が意識してすることではない
のかもしれませんが、
たしかにいただくものが、
死に際してあるのだと感じ、思います。

 

聖霊(せいれい)  神の霊の別名。特に新約聖書においてこの表現はひんぱんに
用いられ, 重要な事柄を表している。
イエスは聖霊によって身ごもったマリアからお生まれになり
(マタ1:18,20, ルカ1:35), ヨルダン川で洗礼を受けたときに,
聖霊がイエスの上にお降りになった(ルカ3:22)。
復活したイエスが約束されたとおり,
聖霊は五旬祭の日,
イエスの弟子たちの上に降って(使2:1-4), 教会が生まれた。
パウロによれば,
イエスの死と復活によってわたしたちに与えられる最大の贈物は聖霊であり,
「わたしたちに与えられた聖霊によって,
神の愛がわたしたちの心に注がれている」(ロマ5:5)
(日本聖書協会『新約聖書 詩編つき』新共同訳、2012年、巻末付録pp.29-30)

 

・クラクシヨンきけば天竺夏の旅  野衾

 

時間のこと

 

『論語』に「子、川の上に在りて曰わく、逝く者は斯くの如き夫、昼夜を舎てず。」
があります。
「上」は、「うえ」でなく「ほとり」。
孔子さんが川のほとりで言ったことばについて、
吉川幸次郎さんの解説は、
「過ぎ去る者は、すべてこの川の水の如くであろうか。
昼も夜も、一刻の止むときなく、過ぎ去る。
人間の生命も、歴史も、この川の水のように、過ぎ去り、うつろってゆく。」
まさしく「川の流れのように」
であります。
この世のすべてのことには時があるという『聖書』のことばも響きます。
過去から未来へと向かう時の流れは、
どうすることもできず、
ピンで留めるように、いま現在を捉えることはできません。
なげいても、わめいても、仕方のないことで、
ただじっと、我慢し、
あきらめ眺めているしかないようです。
しかし、
川の流れのように水平方向にうつろいゆく時のイメージに対して、
「時が止まったように」
と
たとえられもする瞬間、
垂直方向に開かれる「現在」というのが、
一方にある気がします。
恩寵のように降ってくる「時間」。
「開かれた明るみ」
に打たれ、
こころがふるえます。
じぶんの業で叶うことではありません。
恩寵を待つ行為は、
たとえば、
うさぎが走ってきたと思いきや、木の切り株に当たって死んだのを目の当たりにし、
以来、仕事を投げ捨て、毎日切り株を見張り、
またうさぎが飛び出して来やしないかと待ちつづけたものの、
ついにうさぎは捕まえられなかったという
宋の農民の愚かな姿に似ているかもしれず。
まずは、
きょうの仕事を由無し事とせずに、
こころを籠め、
きちんときちんとこなしていくしかないようです。

 

・忙中の破れかぶれや蟬の声  野衾

 

道徳の時間

 

いまの道徳の授業がどんなふうに行われているのか分かりませんけれど、
小学時代にわたしが体験したことでいいますと、
道徳の授業、道徳の時間は、総じて、たのしみな時間だった
気がします。
なんでかといえば、
予習したり復習したりする必要などまったくなく、
与えられたテーマについて、
ああでもない、こうでもない、ああでもあり、
こうでもあるか、
先生の話を聴いたり、友だちの話に耳を傾けたり、
なにかわたしも発言したかもしれない。
あの授業が役に立ったかどうかは分かりませんけれど、
いろいろ考えるきっかけにはなっていた
かもしれず、
子どもの日常にもっとも近い心情と感情が取り上げられ、汲まれていた気がします。
勉強という感じがありませんでした。
思い返せば、
担任の先生の存在が大きかったかな、
とも思います。
たとえば小武海先生は、
大柄で太っていて、いつもニコニコの笑顔を湛え、
子どもたちと相撲を取ったり、
(先生にぶつかっていったときの、ブヨンとしたデップリの腹の感触を忘れません)
体育の時間にグラウンドでソフトボールをすれば、
特大のホームランを打って、
体育館のガラス窓をボールが直撃したり。
そんなことでしたから、
道徳の時間も、
先生を信頼していればこそ、
100パーセントはあり得なくても、
割と自由に話すことができたし、聴けたし、
ほかの科目と違って、
ふかぶかと羽を伸ばしていたよう。
伊藤陽子先生、齋藤時子先生、星野喜美江先生、川上景昭先生、小武海市蔵先生、
なつかしいなぁ。

 

・蟬つぶて古代の声を放ち飛ぶ  野衾

 

あるきっかけ

 

高校一年生のとき夏目漱石さんの『こゝろ』を読み衝撃を受けたのが、
ふり返れば、
やはり大きな出来事だった気がします。
ひとことで言えば、
「ニンゲンて、なんて気持ちの悪い生き物なんだ」
という感想。
以来、
たぶんですけれど、
まとまった考えもなく、ぼんやりと、
ニンゲンや宇宙やこの世の成り立ちについて知りたくなったのではないかと、
いま想像します。
五十年も前の話になりますので、
そのときの気持ちは、さすがに忘れてしまいました。
ただ、
それをきっかけにして、
高校の帰りに秋田市の本屋に立ち寄り、
買った本のことは憶えています。
三浦つとむさんの
『弁証法はどういう科学か』。
おそらく。
「弁証法」という単語が教科書に載っていたかして、
なんだかよく分からないけれど、
分からないなりに、
世界を読み解くカギがこの単語にある気がしたのでしょう。
しかも著者の苗字がわたしとおんなじ三浦で、
名前がまたわたしの叔父と同じ、
立ち寄った本屋が三浦書店。
三拍子そろっている!
まあ、
そんなことの、
ちょっとした連鎖からこの本を買ったんじゃなかったでしょうか。
最後までは読まなかった、
いや読めなかった気がします。
少年のころの高揚した背伸びした気分によるものだったと思いますけれど、
のちにヘーゲルやマルクスやエンゲルスを読むことへの
細い道筋はこのとき着けられたかと、
いまになって思います。
あ。
このあと、
経済学部を受験しようとしたことの遠因にも、
ひょっとしたらなっていたか、
んー、
いま思いつきました。

 

・すき間なく呼び交わしゐる蟬の声  野衾