精神の土台

 

哲学の本はどれもむずかしく、なにが書かれているのか分からなくなる
ようなときがあり、
ちょうど、初めて来た土地で道に迷ってしまった、
そんな気持ちになることもあります。
でも、それは、
著者が感じているところをことばにし、
ことばを用いてことばによる新しい風景を紡いでいるわけなので、
そう思ってあきらめずに歩いていると、
だんだんおもしろくなってきて、
さらに歩いて行くと、
いままで見たことのない初めての景色がそこに広がっている、
なんてことがありまして。
むずかしいことばを使う哲学者たちだって、
考えてみれば、
さいしょはアーアーとかウマウマとかマーマーとかのいわゆる喃語から始まった
のでしょう。
それから始めて
あんな巨大な伽藍を作ってしまうんだから、
大したものです。
哲学の本を読みながら、
巨大な伽藍を外から内から眺めているうちに、
建物の構造を成り立たせている土台のところはどうなっているんだろう、
そのことが気になってきます。
少年少女のころ、
なにを視、なにを聴き、なにに触れ、なにを感じ、なにを考え、
なにに感動し、なにに怒りを覚え、
どんな風に生きたのか、
それがきっとのちに創り出すことになる構造物の土台を形成しているに違いない、
そんな思いがもたげてくると、
伝記に手が伸びます。

 

五月二十八日、メスキルヒで葬儀が行われた。
ハイデガーは教会の懐に還って行ったのだろうか。
マックス・ミュラーが語っているところでは、
ハイデガーは遠出をしたときに教会や礼拝堂にやって来ると、
いつも聖水を受けて片膝をついてお祈りしたという。
あるときミュラーがハイデガーに、
あなたは教会のドグマから距離を置いてきたというのに、
これは首尾一貫しないのではないか、
と尋ねたことがあった。
ハイデガーの答えはこうであった。
「ものは歴史的に考えねばならない。そんなにも多くのお祈りがなされた場所には、
神々しいものがまったく特別な仕方で近くにいる」。
(リュディガー・ザフランスキー[著]山本 尤[訳]
『ハイデガー ドイツの生んだ巨匠とその時代』法政大学出版局、1996年、p.631)

 

・東海道宿場をつなぐ夕立かな  野衾