森鷗外の頭

 

小倉斉(おぐら ひとし)先生の『森鷗外、創造への道程《みち》』が出来ました。
全国の書店に届くのは、来週ぐらいでしょうか。
原稿を読んでいておもしろく感じたのは、
いまでこそ明治の文豪の代表格みたいな鷗外ではあるけれど、
鷗外にグッと寄ってみれば、
わき目もふらず堂々と我が道を行く、
という風では決してなく、
時代の思潮を鋭敏に察知し、
取り入れ、
思索と思考を重ねながら、
ときに悩みつつ創作していたということ。
校正の途中で、
森茉莉のエッセイ「父の帽子」を思い出しました。
鷗外といっしょに帽子店に入ったときのエピソードが記されているものですが、
鷗外はすこぶる頭が大きく、
店の人が持ってくる帽子のサイズが合わず、
大きいサイズのをくれとはよう言わず、
「もう少し上等の分を見せてくれ」
とかなんとか。
その辺の細やかなニュアンスに、
父を思う娘の情愛が籠められているようで印象にのこっています。
鷗外の創作の道程が、
わたしのなかで、
「父の帽子」のイメージと重なってきましたので、
そのことを著者に伝え、
了解を得た上で、
装幀家の毛利一枝さんに話しました。
結果、
こういう本に仕上がりました。
さて、
ここからは、全くのわたしの想像です。
森鷗外の本名は森林太郎であって、鷗外はペンネーム。
なぜ鷗外か、
いろいろ説があるようです。
どれもそれなりに、ふむふむと了解できますが、
けさ、
目を覚ました時に、ふと、ある考えが脳裏をよぎった。
鷗外というペンネームには、頭の大きさが関係しているのではないか?
鷗外の頭は通常より相当デカい。
帽子は、
見方によっては頭に被せるフタのようなもの。
ときに鷗外は、小さなことにもひどく怒りっぽいところがあったようだし。
怒りのるつぼ。
なので、大きいフタが必要になる。
フタを漢字で書くと蓋。
音読みするとガイ。
大きい帽子=大きいフタ=大蓋、すなわち、オオガイ。
これだーーーッ!!!
てか。
ちがうか。
でも、
ひょっとしたら、
あるあるじゃないか。

 

・雪しんしんと水は滔滔と逝く  野衾

 

経験を通して

 

誠に「我が眼の洪水は神に喜ばれる供物」である。
神はその恩恵を之に映して七彩の虹をかけ給う。
幸なるかな、滝つ瀬の如く汝の涙をその溢れ出ずるに任せ、
「何時まで、何時まで?」「何故、何故?」
との泣願を神に為したる事ある者。
かかる者は神に慰められるのである。
嘗て私(矢内原)もこのアウグスチヌスとほぼ同じ年齢の頃、
浅間山麓の小山を溶かすかと思われるばかりに眼の洪水を溢れさせ、
「神様、どうして? 神様、どうして?」
と叫びつつ、
山を叩かんばかりに幾度となく下っては上り、
上っては下って居た。
然るに見よ、
私の心は突然軽くなり、涙の泉は立ちどころに止まり、
次の瞬間には微笑さえ私の唇に浮んだ。
その如何にしてかを私は知らないけれども、
私の心に平安が与えられたのである。
私は神の赦を讃美しつつ、山を下ったことを告白する。
(矢内原忠雄『土曜学校講義 第一巻』みすず書房、1970年、p.184)

 

仏教でもキリスト教でも、文章を読んでいて、迫力に打たれ、
血が通っていると感じられるものに触れると、
おしなべて、
こういう経験に裏打ちされていることに気づきます。
たとえば、親鸞、白隠にして然り、
パウロ、アウグスティヌス、マザー・テレサ、田中正造にして然り。
矢内原の文章の迫力も、
上に引用したような経験あったればこそと納得。
ひとつ気になったのは、
比喩。
涙を表すに
「浅間山麓の小山を溶かすかと思われるばかりに眼の洪水」
アウグスティヌスもそうですが、
眼の洪水だもん。
ダ~~~!!
山の上り下りを表すに
「山を叩かんばかりに」
デンデンデン、ザクザクザク、どんだけ強く踏みつけたの。
笑いが好きなわたしは、
これを比喩でなく、
事実としてマンガに描いたらさぞおもしろいのではないか、
などと不謹慎なことを思い浮かべ。
でも、
それぐらい強烈な体験だったんでしょうね。
あ。
きょうから二月。

 

・秋田出でいつか近江の春と逢はむ  野衾

 

悲しみの目薬

 

パウロの言える如く、人生の苦しみには救いに到らしむる苦しみと、
滅亡に到らしむる苦しみとがある。
人生の目的が真理の探究に向けられて居る時、
すべての苦しみは
「健全なる悲しみの目薬」であって、
それが鋭く目にしみる事によって傲慢の腫脹《はれ》は引いて行く。
之は思想上の煩悶をもつ者に対して、
深き理解と同情の言葉である。
たましいの煩悶は、
神の光を見るに至るまでは決して心を落着かせない。
この内なる刺戟によって落着かせないことが、
既に神の恩恵である。
而して神の秘かなる御手によって悲しみの目薬を注《さ》される中に、
一日一日と真理の光が見えるようになる。
神の存在と、神の善にして不朽不変なることを信じてさえ居れば、
如何に長き且つ深刻なる思想的疑問であっても、
遂に光を見ずに終ることは絶対にない。
そのことをアウグスチヌスは彼の実験によって告白して居るのである。
(矢内原忠雄『土曜学校講義 第一巻』みすず書房、1970年、p.140)

 

ちなみにわたしは、夜、布団に横になった後、目薬を注します。
サンテボーティエという赤い目薬。
以前、赤い目薬がいいと聞いたことがありました。
注したあと目を閉じ、
右回りにゆっくり20回、
左回りにゆっくり20回、
目の運動をすることにしています。
眠るまえのルーティン。
一日ゲラを読んでいると、目も頭も疲れます。
内にひそむ「傲慢の腫脹」にも効いているとすれば、
こんな嬉しいことはありません。

 

・寒鯉の動かずにゐる重さかな  野衾

 

聖書と矢内原忠雄

 

私にも亦之と同じ小さな経験がある。
私が始めて聖書を手にしたのは、中学五年の夏の休暇であった。
私は田舎の家の土蔵の中にて虫干の際に之を発見し、
道徳的知識慾に燃えて読み始めた。
読み方も知らぬ私は、
創世記の第一頁より異常の熱心を以て読み始めたのである。
おお何という奇怪にして不可思議なる文字の羅列であったか!
私は忍耐に忍耐を重ね、
退屈と道徳的反撥心とを抑えながら民数紀略の第二十六章にまで読み至り、
遂に堪えかねて之を投げたのであった。
その後私が再び聖書を取り上げて、
その中に生命と智慧を示されるに至ったのは、
一高二年生の時、
内村先生の門に入るを許されてからである。
(矢内原忠雄『土曜学校講義 第一巻』みすず書房、1970年、p.59)

 

「生命と智慧」に充ちた古典との出会いというのは、
たやすいものでないのかもしれない。
聖書となったら尚更だろう。
矢内原忠雄にして然り。
ちなみに引用した箇所の冒頭「之と同じ」経験の「之」というのは、
アウグスティヌスの経験を指しており、
同書の前頁に、こんなことが書かれている。

 

アウグスチヌスは聖書を読んで見ようとしたが、少し読んで見て、
文章は幼稚であり、内容は神秘的で何のことやら解らない。
取りつく価値のなきもの、
若しくは取りつきにくいものとして、棄てたのである。
すべての事に時がある。
多くの者が始め聖書を解し難しとして、之を棄てることに無理もない。
併し再び之を取上ぐる時が来れば、
聖書は何という解し易き、
又何という「堂々」たる書物であろう。
神はその間に必要なる「時」の準備をそなえ給うたのである。
神は人に智慧を与うるに、
決して急ぎ給わない。
常に十分の準備を以てし給う。
之れは人が一度び得たる智慧を永遠に失わざらんが為めである。
(同書、pp.58-9)

 

「生命と智慧」に触れ、生かされてあることを識るために、
肉体は衰えなければならないのか、
という気もします。

 

・鈴鳴らし杉材運ぶ父の橇  野衾

 

ひじ時計

 

こないだの日曜日、出勤後まずはマッサージチェアに深く腰掛け、
日頃の首や肩の凝りをほぐしてから、
予定していたゲラ読みに取り掛かりました。
その後、Kさん、Yさんが出社し、それぞれの仕事に向かうようでした。
夕刻となり、
ふたりにあいさつをし、ひと足先に退出。
日曜日の電車は、乗客が少なく快適。
保土ヶ谷駅のホームに降り立ち、何気なく、右手が左手首に触れた。
ら、
あれ!?
ん!?
無い。
無い無い。腕時計がない。
朝、ちゃんと、したはずなのに!
待て待て。焦るな。落ち着いて落ち着いて。
(こころの声とは裏腹に、この時点で、そうとう、焦っている)
会社に電話してみる。
「もしもし。三浦だけど、机の上に腕時計、忘れてないかな?」
「ちょっと待ってください。……。無いですね」
とYさん。
「そうか。わかった。ありがとう」
今度は自宅。
「おれだけど、本棚のいつものところに腕時計、忘れてない?」
「ちょっと待って。……。無いよ」
「あ。そう」
ということになり、
焦りはそろそろ絶望へと変貌を遂げるようであった。
なんて。
余裕をかましている場合ではないので、
駅の改札を抜け、こころの汗を額に浮かべながらタクシー乗り場に直行。
一路紅葉坂の教育会館へ。
ほどなく到着。
会社に入る前に、思い当たる節があり、廊下のトイレをチェック。
無い。
会社のドアを開け入室。
Kさん、Yさん、怪訝そう。
目を皿のようにして、というのはこういう時につかうものかと机上を確認。
無い。
無い。
もはや、絶望の沼にどっぷり浸かろうとした、
その瞬間、
われの右手が、左の肘の辺り、なにやら硬いものに触れた。
ん!?
あ!!
あったーーー!!!!!
そうか。
今朝、ひどく寒かったので、
いまは死語と化したとっくりセーターを出し、
頭からかぶったのはいいとして、
手首のところがそうとうきつく、おそらく、
腕時計の中留が外れ、肘の辺りまで押し上げられて、そのままそこで止まっていた、
らしい。
疲れが急にどっと出た。
やれやれ。
老いに入ると書いて「老入れ」
それについての感慨を、無明舎の社長がブログに書いてありましたが、
わたくしも、
老入れの境涯を改めて確認する仕儀となりました。
ふ~。

 

・淡雪や来し方のとき解けて消ゆ  野衾

 

旧約聖書のリアリティ

 

創世記に登場するアダムとイブが今から遡ること約6000年前、
マタイによる福音書の冒頭、イエス・キリストの系図にあるアブラハムが
約4000年前、ダビデが約3000年前ということですから、
旧約聖書には、
新約聖書の時間とは比較にならないほどの膨大な時間における
人間のドラマが描かれています。
多くは、
預言者とそれにまつわる民の物語ですが、
たまに目をみはるような記述があって、
ほんとうに、
歴史上、この世にいた人なのだーと思わずにいられません。

 

ダビデ王は多くの日を重ねて年を取り、いくら服を着せても暖まらなかった。
そこで家臣は王に言った。
「王様のために若いおとめを探し出し、御前にはべらせ、お世話をさせましょう。
彼女が添い寝をすれば、王様は暖かくなられるでしょう。」
家臣は美しい娘を探し求めて、イスラエル領内をくまなく探し回り、
ついにシュネム人のアビシャグを見つけ、
王のもとに連れて来た。
娘はこの上なく美しかった。
彼女は王の世話をして仕えたが、王が彼女を知ることはなかった。
(聖書協会共同訳聖書「列王記 上」2018年、p.511)

 

若いときに、ここを読んだはずですが、ピンときませんでした。
が、
いまこの箇所を読むと、
ピンとくるどころか、
なるほどと深く納得するところ大であります。
ダビデは王様ですから、
家臣たちはダビデに最高級の服を着せたのでしょう。
なのに、
「いくら服を着せても暖まらなかった。」
王様といえども、
いのちに共通する老いを免れることはできません。
このごろホッカイロを愛用しているわたしは、
ホッカイロの温みを通して、
ダビデの体とこころが、
よく分かる気がします。
また引用した箇所の最後「王が彼女を知ることはなかった」
の「知る」とは何か。
大野晋と丸谷才一が『光る源氏の物語』で、
ここは実事があった、いや、なかった、いやいや、あったにちげーねー、と、
議論していて爆笑した「実事」
(事実でなく「実事」。大きい国語辞書だと、三番目ぐらいに出てくる意味がそれにあたるはず)
のことでありましょう。
ちなみに、
文語訳聖書ではこの箇所を
「王 之と交《まじは》らざりき」
と訳している。

 

・父母の上に雪あり眠りあり  野衾

 

希望における幸福

 

神の国の最高善は、永遠で完全な平和であるがゆえに、
すなわち死すべきものが誕生から死に至るまで通過するごとき平和ではなく、
不死なるものがまったく敵対者を耐え忍ぶことなく存続するごとき平和であるがゆえに、
かの生がもっとも幸福であることをだれが否定するであろうか。
またその生に比較すればこの地上で営まれている生は、
たとえいかに魂と身体において恵まれ財産が豊かであるとしても、
悲惨であることをだれが信じないであろうか。
しかしだれであろうと、
もっとも熱心に愛し、
またもっとも確実に希望するかの生の目的に関連づけてこの生を用いるならば、
現実においてというよりも、
むしろその希望において、
今でもなお幸福であると間違いなく言うことができる。
これに反して、
あの希望なしに現実に幸福であるとしても、それは偽りの幸福であり、
大きな悲惨でしかない。
なぜなら魂の真の恵みは、享受されていないからである。
賢明に判断し、勇敢に行動し、ほどよく抑制し、正しく配分する際に、
その意図をかの生
――そこでは確実な永遠性と完全な平和のうちに、神がすべてにおいてすべてである――
の目的へ向けていないならば、それは真の知恵ではない。
(アウグスティヌス[著]金子晴勇ほか[訳]『神の国 下』教文館、2014年、pp.360-1)

 

アウグスティヌスの面目躍如といったところでしょうか。
文に帯びる熱量がすごい!
引用した文の下から二行目の
「神がすべてにおいてすべてである」
は、
パウロがコリントの信徒へ送った手紙(一)の第15章28節にある言葉で、
「万物が御子に従うとき、御子自身も、
万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。
神がすべてにおいてすべてとなられるためです」
の最後の箇所。
御子とはイエス・キリスト。
こんかい『神の国』を再読してまず感じるのは、
あたりまえのことながら、
アウグスティヌスがいかに聖書を読み込んでいるかということ。
希望における幸福、という考えは、
大方の、
幸福を幸福感とみなす考えとは違うようです。

 

・いまぞ知る応援歌歌詞雪皚皚  野衾