希望における幸福

 

神の国の最高善は、永遠で完全な平和であるがゆえに、
すなわち死すべきものが誕生から死に至るまで通過するごとき平和ではなく、
不死なるものがまったく敵対者を耐え忍ぶことなく存続するごとき平和であるがゆえに、
かの生がもっとも幸福であることをだれが否定するであろうか。
またその生に比較すればこの地上で営まれている生は、
たとえいかに魂と身体において恵まれ財産が豊かであるとしても、
悲惨であることをだれが信じないであろうか。
しかしだれであろうと、
もっとも熱心に愛し、
またもっとも確実に希望するかの生の目的に関連づけてこの生を用いるならば、
現実においてというよりも、
むしろその希望において、
今でもなお幸福であると間違いなく言うことができる。
これに反して、
あの希望なしに現実に幸福であるとしても、それは偽りの幸福であり、
大きな悲惨でしかない。
なぜなら魂の真の恵みは、享受されていないからである。
賢明に判断し、勇敢に行動し、ほどよく抑制し、正しく配分する際に、
その意図をかの生
――そこでは確実な永遠性と完全な平和のうちに、神がすべてにおいてすべてである――
の目的へ向けていないならば、それは真の知恵ではない。
(アウグスティヌス[著]金子晴勇ほか[訳]『神の国 下』教文館、2014年、pp.360-1)

 

アウグスティヌスの面目躍如といったところでしょうか。
文に帯びる熱量がすごい!
引用した文の下から二行目の
「神がすべてにおいてすべてである」
は、
パウロがコリントの信徒へ送った手紙(一)の第15章28節にある言葉で、
「万物が御子に従うとき、御子自身も、
万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。
神がすべてにおいてすべてとなられるためです」
の最後の箇所。
御子とはイエス・キリスト。
こんかい『神の国』を再読してまず感じるのは、
あたりまえのことながら、
アウグスティヌスがいかに聖書を読み込んでいるかということ。
希望における幸福、という考えは、
大方の、
幸福を幸福感とみなす考えとは違うようです。

 

・いまぞ知る応援歌歌詞雪皚皚  野衾