人生の貌

 

秋田に住んでいる弟の文章が地域誌に掲載されました。
父がいたく褒めていたので、
弟にたのみメールに添付して送ってもらいました。
公立の中学校を定年で辞め、
いまは町から委嘱され
「井川こどもセンター」の園長を務めています。
「新米園長にできること」
というタイトルで、
まだ村だったころの井川幼稚園の一期生当時の思い出と現在の心境をむすぶ
カイロス的時間がしずかに解きほぐされ、
思索の過程が読む者にゆっくり伝わってきます。
父と同様、わたしも、
いい文章だと思いました。
文のタイトルの横に、
割と最近の弟の顔写真が掲載されています。
よく知った弟の顔をしばらく眺めているうちに、
昨秋読んだ矢内原忠雄の『ダンテ神曲講義』を思い出しました。
矢内原もダンテも時代の波を強く受けた人ですが、
ダンテの肖像画を見、
言葉少なくつぶやくように語った矢内原
のことが記録されてありました。
いま手元に本がないので確かめられませんけれど、
ダンテの顔に刻まれた人生を思っての言葉だったと思います。
それは、
ダンテの顔についてのコメントであるけれど、
見方を変えれば、
人生の相貌、貌のことを言っているのだと感じられました。
子どものころ、わたしは、
だれと遊ぶよりも弟と遊びました。
というよりも、
わたしと弟がセットで、ほかの友だちと遊んだ、
と言ったほうがいいかもしれません。
ふるさとを離れてからも帰省すれば会ってきたし、
このごろは老いた両親のことを電話で話す機会が増え、
気ごころをお互いに知っていると感じますが、
当然のことながら、
知らないことのほうが圧倒的に多く、
それが人知れず、顔に刻まれているということかもしれません。
時代がちがい、国がちがっていても、
例外なく人生は、
人生そのものを人の顔に刻むようです。

 

・うららなる公園の水見てをりぬ  野衾