なにがだいじか

 

精神病理学会場では演題を聞かずに、
精神の危機にあるとおぼしき風貌の若手医師の隣にさり気なく座り、
休憩時間になっても静かに談笑していた姿を何度か目撃した。
中学時代に夜になると天井に誰かがいると言い、怯えている友人の家を訪ねて
二晩寝泊まりした。
一緒に天井を調べ、誰もいないことを確かめた。
以後その友人の怯えは消えた。
また、
医局の高価な医療機器が損壊した責任を押し付けられた友人医師
(ムツゴロウこと畑正憲氏も友人だったと聞く)
が失踪したことを知り、
推理を働かせて行き先を追ったが、
寸でのところで彼の自殺を止められなかった悲しみと
当時の医局講座制への怒りを抑えながら運転する私に語った
(これはのちの『日本の医者』にも収載されている)。
(統合失調症のひろば編集部[編]『中井久夫の臨床作法』日本評論社、2015年、p.2)

 

本を買ったときも目をとめた文章ですが、
あらためて読んでみると、
やはり目が留まり、
中井久夫さんの凄さがひしひしと伝わってきます。
この文章は、
この本の「刊行に寄せて」として精神科医の星野弘さんが書いたもの。
著書、訳書をあわせ、
中井さんのものを、
これまでいろいろ読んできましたが、
先だって『中井久夫との対話 生命、こころ、世界』
を読み、
思うところがありまして、
また中井さんの文に触れたくなりました。
日本を代表する著名な精神科医でありながら、
(この場合「ありながら」はおかしいかもしれません)
自身の職業的なもろもろを離れ、
なにが大切かを忘れないところが凄いと思います。
それがあるから、
日本を代表する精神科医なのでしょう。
京都大学に入学して間もなく結核に罹病していることが判明し
休学したことが、
中井さんのその後の人生に大きく影響したのではないか
と思ってきましたが、
上で引用した文章を読むと、
中井さんのセンスは、
自身の病気の体験よりもさらに深いかも知れず、
そのセンスが、
病気をとおして更なるものになったか、
とも思えてきます。
なによりも、
中井さんの書くものには「希望」があります。
かつて春風社のPR誌『春風倶楽部』にご寄稿いただいたことを、
なつかしく、
うれしく思い出します。

 

・春寒し道路拡張工事中  野衾