間違い電話

 午後5時頃だったか、ケータイが鳴った。パソコンに向かいパンフレットを作っている時だった。メールなら分かるが、電話は珍しい。
「はい」
「もしもし。あれ!? あのー、どちらさまですか」
「このやろう。電話してきて、どちらさまはねーだろ。みうらだよ」
「あ。せんせー?」
「ん? だれ?」
「Kです。ごめんなさい。まちがえちゃった。友達にかけようとして…。ごめんなさい。仕事中でしょ」
「いいよ。だいじょうぶ。久しぶりだね…。**には行っているの? 改装工事をするらしいよ」
 すぐに電話を切るのは、なんとなくためらわれた。
「最近、行ってない。いつも見てるよ」
 見てる、というのは、この日記のことか。
「元気そうだね」
「元気になったんだ」
「よかったね。**のママが最近来ないの、って言ってた。今度、一緒に食事でも、ね」
「そうだね…。ところで、下の名前、なんだっけ?」
「え。わたしの? 忘れたの? やだなー、もう。○に美しいで○美よ」
「○? 絹とか麻とかの○か? そうか。そうだったな。じゃあ、今度食事でも」
「忘れないでね」
 名前のことか。食事の約束のことか。
 Kさんは、わたしが陸上部の顧問をしていた頃のマネージャー。その後、行き付けのスナックで偶然出会い、意気投合。あれから3年。Kさんは歌がめっぽう上手い。

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名古屋駅松坂屋前

 先生との待ち合わせの時刻まで少し間があったので、わたしは、デパート入口の公衆電話の前に置かれた椅子に座っていた。夫婦と思しき男女がやってきて、椅子に座りたそうにしているので、わたしは一つずれて、椅子2脚を空けた。男が着ていた割りと派手な模様のTシャツと女が口にしていたマスクが目立つほかは、とりたてて特徴のない初老の夫婦と見えた。
「ありがとう」
と男が言い、2人は椅子に腰掛け、薄いビニールの袋から大判焼きを取りだして食べ始めた。女は、マスクを外さないで、ずらして食べた。
「5時47分だでぇ、5時35分に行けばいいが。まぁ、それまで、すわっとりんしゃい」
 男の発した言葉にちょっと引っ掛かったが、目の前で若い母親に戯れる男児に気を取られ、すぐに忘れてしまった。母に甘えながら、ちらちらとわたしのほうを見る男児としばらく目だけで遊んだ。母の脚を柱にして隠れ、わたしがそっぽを向いたかなと思われる頃合を見計らい、ペロッと柱の横から顔を出した。母親は「すみません」とわたしに言い、わが子を促してデパートの中へ入っていった。
「そろそろ行ったほうがえぇ。あなたは歩くのが遅いでなぁ」と男が言った。
 女は、ゆっくり腰を上げ、男に何やら挨拶をすると立ち去った。その場に、わたしと男しかいなくなった。夫婦と見えたのは間違いのようだった。
「あのひとは85。歩くのが遅いで。わたしは83」と、男は言った。男は立ち上がり、椅子の横のゴミ箱にゴミを捨て、大股で歩き出し、デパートの重いガラスのドアを押し、右へ歩いていった。

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からだは天才

 竹内敏晴さんの新刊『生きることのレッスン 内発するからだ、目覚めるいのち』(トランスビュー)を読んだ。自身の聴覚障害の体験を踏まえ、独自のレッスンをかさねてきた竹内さんの今の到達点なのだろう。「いまは発見されるものであって、語れるものではない」と竹内さんは言う。語れるものならば、レッスンをする意味はないということか。
 客体としての身体でなく、主体としてのからだをレッスンを通して生きてきた竹内さんは、意味(さらに精神)をもとめてレッスンを続けてきたのだと思い知らされた。
 以前、竹内さんが小社を訪ねてこられた時、県立図書館のある丘の上に立ち、ほんの少しの時間そこでたたずみ、あたりの景色を見まわしていた(手をかざしなどしたかもしれない)ことがあった。遠い記憶を探っている(迷子になった子供)ようにも見えた。竹内さんにそのことを確認しなかったし、本当のところは分からない。今回、『生きることのレッスン』を読み、なぜか、あの時の竹内さんの姿が浮かんだ。(風景と時間を生きる意味に照準を合わせていたのかな)
 からだから精神にいたるドキュメンタリー、驚きの道程がこの本には記述されている。世間的な常識を超えるからだの精密さ、地平に驚かされる。不思議!! 語り得ないいまっていうのが、なんだか、気持ちいい。分けへだてなく、だれにとってもの宝(光り輝くとはかぎらない)みたいで。そして、それは語れないんだ。

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だって、足があるじゃないの

 知り合いに齢八十を越す女性(仮にAさんとしましょう)がいて、昨日から、わたしが通っている気功教室に通い始めた。四十の手習いということがあるけれど、Aさんの場合、その倍。
 帰りがけ、すこし時間があったので、お茶を飲みながら、お話をうかがった。にこにこにこにこ、おだやかな笑いの気につつまれる。
 Aさんは二つの句会に所属し俳句を物し、また絵を描き、エッセイもつづる。なんでも一昨日はレオナルド・ダ・ヴィンチ展を観に上野へ、昨日はスケッチブック片手に湘南まで出かけたとか。Aさん、何が嫌いといって、井戸端会議ほど嫌いなものはないらしい。時間がもったいない、と。Aさんの娘さん(彼女も昨日から同じ気功教室に参加)が、「なんで1人でそんな遠くまで行くの?」と訊くと、「だって、足があるじゃないの」。Aさんの娘さん曰く、「おかあさんの1日は48時間だね」
 気功教室は1日だけいつでも無料で体験できる。Aさんは昨日から正式に通うことになったが、実は先週、1日無料体験コースに参加した。あいにくの雨で、夜7時から始まった教室は、レッスンの間中カミナリが鳴りつづいた。ビルの15階。光の枝が闇をつんざく。そのことを思い出したのはAさんの話がきっかけだった。Aさん曰く、「今日はブラインドが下りていたけど、あの日はブラインドが上がっていて、だから夜空に光るカミナリがよく見えた。あの光景をなんとか句にしたいと思ってね…」。そう言われてハッとした。ブラインドのことまで気が付かなかった。今日は下りていたのに、先週は上がっていた…。ブラインドが上がっていたから、カミナリがあんなによく見えたのだった。

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いまの発見

 私にも書いてきた本がいくらかあります。でも、それは自分が体験してきたことを、後になってから言語化したものに過ぎません。だから、私にとって、書いたものは常に過去でしかない。「すずしさや鐘を離るる鐘の声」だったかな、蕪村に確かそんな句があったと思います。これは「いま」を見事に表現している句だけれども、「いま」を語っているわけじゃない。そうではなくて、いまという時間が過ぎ去るのを感じている過去の自分を、後から気づいて言い留めている。だから、これもいまの自分にとっては過去です。いまの発見は語れない。ことば以前の体験だから。
 いまの自分がどこに行くかなんてことは、誰にもわかりません。いまの自分は、ただ見極めのつかない歴史の闇の中へ歩いていくだけです。先に出てはじめて、何かが動く。
(竹内敏晴『生きることのレッスン』)

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出版人は趣味をもつな!

 岩田博さんが経営しておられる岩田書院という出版社がある。社員は岩田さん1人。4年前に無明舎から『ひとり出版社「岩田書院」の舞台裏』という、出版人にとっては(おそらく、そうでない人にとっても)すこぶる面白く、ためになる本が出たとき、すぐに買って読み、その感想を岩田さんに送った。ホームページに掲載していただいたのが縁で、その後、目録や「新刊ニュース」を送っていただくようになった。
 きのう届いた「新刊ニュース」の「裏だより」(赤裸々な出版事情が克明に記された稀有な内容で、この第1号から第267号までまとめたものが『ひとり出版社〜』だ)には、かつて600部つくった本が6年かけて完売したことが報告されていた。その数字が、今の出版事情を如実に物語っていると思われた。
 また、こういう感想は、岩田さんに怒られるかもしれないけれど、岩田さんは本づくりが本当に(つらさも含め)好きなのだなと思った。総合商社みたいな巨大出版社のことは知らない。日本の出版は、多くは岩田さんに代表される出版人によってもっている。わたしも、その端くれでありたい。あなたの趣味はと訊かれ、臆せずに、出版ですと答えられる人(会社)しか生き残れない情況が、哀しくも今の出版界を支えている。

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気になるカーテン越しの会話

 ある日の鍼灸治療院にて
 「まだ、いたむ?」
 「だいぶよくなりましたけど…」
 「ここは?」
 「すこし…」
 「こっちは?」
 「あ」
 「いたい?」
 「いたいです」
 「あとは?」
 「こつばんのところが、ちょっと…」
 「ここ?」
 「いっ、い…」
 「ごめんごめん。いたかった? ちょっと、ぬいでみて」
 …………………………
 …………………………
 「ねむれる? きのうはなんじにねたの?」
 「じゅうにじまえにとこについたんですけど、たぶん、ねたのはいちじすぎだったとおもいます。それで、よじはんごろにめがさめて、あとは、ねむれませんでした」
 …………………………
 …………………………
 「ねむれるようにしたからね。きょうは、はやめにとこについて、ゆっくりやすんでください」
 「はい。ありがとうございます」
 右から来た音を、ぼくは、ただ左へ受け流すこともできず、ベッドに身を横たえたまま全身耳怪獣と化していた。

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