意志と衝動

 

私たちが死の代わりにいのちを選ぶためには、しばしば衝動とは相反する意志の働き
を必要とします。
意志が許そうとするのとは反対に、衝動は復讐しようとします。
衝動は私たちに即答を迫ります。
誰かに顔を殴られたら、
衝動的に殴り返したくなるものです。
では、
意志が衝動に打ち勝つようにするにはどうすればよいのでしょうか。
鍵となる言葉は「待つ」です。
何が起ころうとも、
私たちに向けられた敵対的な行為と、
私たちの反応とに間を置かねばなりません。
自分自身をその事柄から引き離し、時間をかけて考え、友人と話し合い、
前向きに応えることが出来るようになるまで待たねばなりません。
衝動的な反応をするなら、
悪が私たちに勝つようになり、
そのことでいつも後悔するでしょう。
けれども
よく考え抜いてから答えることで私たちは
「善をもって悪に勝」つように助けられることでしょう(ローマ12・21)。
(ヘンリ・J・M・ナウエン[著]嶋本操[監修]河田正雄[訳]
『改訂版 今日のパン、明日の糧』聖公会出版、2015年、p.301)

 

先だって、『アラン『定義集』講義』の著者・米山優先生と対談した折、
考えることがきわめて意志的な行為である
ということについても話題となり、
さらに、
「意志的である」は、
そこに、何らか選択の行為が含まれていることについて、
考えさせられるお話を伺うことができました。
アランがストア派の哲学者の心性を尊重している
というのも、納得。

 

・公園のひぐらし子を呼ぶ母の夕  野衾

 

本が本をよぶ

 

大学の経済学部に入り、三年生に上がるとき、ゼミを選択する必要に迫られ、
わたしは、嶋田隆先生の日本経済史をえらんだ。
じぶんが育った農村のことを学べるような気がしたことが、
選択の理由だったかもしれない。
嶋田ゼミに入って最初に読んだのが、
有賀喜左衛門の『日本家族制度と小作制度』
だった。
じぶんと自分のことを距離をおいて眺めることの必要、
その折の感覚をそこで知った気がする。
本に登場する用語は、
辞書で調べてよしとする、意味だけの、単なる熟語ではなかった。
たとえば、
本家、分家、という言葉を用いて論述される文章に触れると、
稲の収穫時期、子供までいっしょになって、
本家筋の家に集まったことが、
わくわく感や、ある恥ずかしさをともない、
きのうのことのように、
まざまざと思い出された。
『日本家族制度と小作制度』は
学問の本ではあるけれど、
記憶の呼び水という点において、
ほかの本と何ら変わるところがなかった。
有賀さんの本のこと、
それを当時どんな気持ちで読んでいたのか、
またそのころの学生生活
を思い出したのは、
いま読んでいるクロード・レヴィ=ストロースの『親族の基本構造』
によってである。
マリノフスキー、ラドクリフ・ブラウンの名は、
有賀さんにほど近い。
一冊の本が過去に読んだ本の記憶を呼び覚まし、
それが、
本以前の記憶に直結している。

 

・いつの間にめぐるめぐるや虫の声  野衾

 

これも遺伝!?

 

家でも会社でも、床に小さなゴミが落ちていると、つい拾ってしまい、
これは、わたしが善人であることの証ではなく、
ただのクセでありまして、
秋田にいる母とそっくりなのでした。
こういう類は、
けして遺伝ではない
と思うのですが、
母を見ていてそうなったのではなく、
あるとき帰省しているときに、
母の行動を見ていてハッと気がつき、
ふだん自分が行っている行為とあまりに似ていることから考えると、
遺伝ではないにしても、
遺伝的ではあるのでした。
「床に落ちているゴミを拾う」ことに加え、
このごろ気になるのが、
小さなプラスチック容器に入っているヨーグルトを食べたあとの行為でありまして。
どういうことかと言いますと、
ヨーグルトを食べた後、
容器の底に1ミリでもヨーグルトが残っていると、
「これでもか」というぐらい、
さいごの最後まで、
徹底的にすくい上げなければ気が済まないことであります。
どうも気が済まない。
それで、
ふと思い出したわけであります。
秋田の母が、
これとおんなじことをしていたな…。
これも、
遺伝ではないと思いますけれど、
遺伝的ではあります。

 

・いわし雲かなしさ淡く広がりぬ  野衾

 

言語味覚

 

「言語味覚」という語は、
文学批評に携わっている人々のあいだでよく用いられている言葉で、
それは雄弁の習性を言語機能のうえで持っていることを意味する。
雄弁とは、
すでに説明したように、
語られる言語が〔意図する〕意味にあらゆる面にわたって合致し、
しかもこの合致が、
構文が持つある特性に与えられるときに、
はじめて生まれる。
アラビア語のすぐれた能弁家は、
アラビア語の話し方に従って、
このような合致を生み出すのにもっともよい表現形式を選び、
言葉をできる限りその線にそって並べる。
もし、
アラビア語の話しぶりが一定してそのようになされるならば、
その人は自分の話し言葉をそのような線にそって並べることに習熟しているといえる。
彼にとって構文を作るのはいともたやすいことであり、
立派なアラビア語を話すという道からもほとんど逸れることはない。
もし、
この線にそわない構文を耳にすると、
それを唾棄し、彼の耳はちょっと考えこんでしまう。
事実この心の反応があってこそ、
彼は言語上の習性を得ているといえる。
(イブン=ハルドゥーン[著]森本公誠[訳]『歴史序説(四)』岩波文庫、2001年、pp.181-2)

 

「言語味覚」という言葉は、これまでにもでてきて、
おもしろいと思いましたが、
引用した文章は、
そのことに関しバッチリまとめて論じており、イブン=ハルドゥーンの考えがよく解ります。
言わずもがなのことながら、
味覚は舌の感覚。
食べ物や飲み物について言うのがふつうですが、
ことばも舌に上せて味わう、
というところに「言語味覚」の要諦があるのでしょう。
たとえば「コーラン」はどうでしょうか。
「コーラン(クルアーン)」がアラビア語で
「誦まれるもの=声にだして詠唱すべきもの」
を意味し、
外国語に翻訳されたものは、
本来の「コーラン(クルアーン)」とは別物であるというのは、
「言語味覚」という考え方にも表れている気がします。

 

・少年の日の後悔も秋の空  野衾

 

世の中の人の心

 

古今和歌集の804番に、つぎの歌があります。

 

初鴈の鳴きこそ渡れ世の中の人の心の秋しうければ

 

『古今和歌集全評釈』の片桐洋一さんの通釈は、
「秋になって初めてやって来た雁があんなに鳴いて空を渡って行くように、
私も泣きながら過ごしておりますよ。
秋ならぬ、世間の人の心の「飽き」がつらいものですから」
となっています。
紀貫之のこの歌、
「秋」に「飽き」が掛かっていておもしろく、
これは、この歌にかぎらず、
けっこうありまして、
ということは、
どうやら、
さらに古い時代からの日本人の感性に、溶け込み、沁み込んでいる
ということなのかもしれません。
それともう一つ、
この歌で気になるのは「世の中の人の心」
これについて片桐さんは、
つぎのように記しています。

 

『古今集』『後撰集』『拾遺集』の三代集から、「世の中の人の心」という言い方を
求めると、
当該歌を含めて、この『古今集』の恋五にしか見出せない。
そして当該歌以外の例は、

世の中の人の心は花染めのうつろひやすき色にぞありける     (恋五・七九五)

色見えでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありける     (恋五・七九七)

の例のように
「✕✕は○○にぞありける」という総括的話法をとっており、
「世の中の人の心」が、
たとえ具体的に一人の人物の心のことを言っているにしても、
あくまで直接に指示する形ではなく、
一般論的に言っていることをあらためて確認するのである。
「世の中の人の心~」という言い方は、
このようにまさしく一般論化して総括的に言う『古今集』の歌にふさわしい話法だった
のである。
(片桐洋一『古今和歌集全評釈(中)』講談社学術文庫、2019年、p.940)

 

一般論化して言うことが、つねにいいとは限りませんが、
「世の中の人の心」の場合は、
詠み手が特定のだれかを想定していても、
人というものは、
だれであってもそういうものかもしれないという、
いわば諦観に通じる音が底に響いているような気がしますから、
しみじみとした味わいが感じられます。
歌のなかに「秋」が歌い込まれているとなれば、
なお一層です。

 

・出汁たつぷり冬瓜箸にさくりかな  野衾

 

コトバは

 

この《創り上げる構造》が《創られた構造=実践的惰性態》となって
あたかも第一の《与えられた構造》の如き様相を呈する日常の言語状況にあって、
既成の意味体系、
既成のシンタックスの中に閉じこめられていく人間の意識を、
コトバの本質的表現作用を通して解放する試みこそ、
マラルメ、ソシュール、メルロ=ポンティの目指した共通の方向であった
ということができるであろう。
そしてその方向とは、
実生活におけるあまりにも露骨な有効性のもつ要請があるために、
ともすれば錯覚しがちな
《表現されるべきものの既存性préexistence》という幻想を破り、
ルポルタージュ言語的性格をもった貨幣の如き日常言語こそ、
実は本質的言語の惰性化した姿である
ことを再確認し、

既成の意味の烙印を押されてしまっている個々の語のみを視野におく狭い単語主義
をのり超えることにほかならない。
ソシュールのシーニュとは、
ひとり単語を意味せず、
それは文であり、
言述ディスクールであり、
テクストでもあるすべての言表エノンセであることを想起しよう。
メルロ=ポンティの言葉を借りるならば、
コトバは文字謎と同様、
さまざまなシーニュの相互作用を通してのみ理解され、
話者にとっても聞き手にとっても、
「コトバは出来合いの意味のための記号化や解説のテクニックとは全く別のもの」
であり、
コトバが表現するもの、
いやコトバ自体は、
「主体がその意味の世界の中でとる、位置のとり方そのもの」
なのである。
(丸山圭三郎『ソシュールの思想』岩波書店、1981年、p.208)

 

おもしろそうな本だと思い、買いはしたものの、
読まずに本棚に差しこみ、
やがて、
買ったときの思いの丈が徐々に下がりはじめ、
いつしか、
変りばえせぬ日常の風景に堕し、
時間ばかりがいたずらに過ぎてしまうことが間々あります。
丸山圭三郎『ソシュールの思想』もその類でありました。
ひょんなことから、
たまたま書名が目に入り、
そうか、こんな本があったな、なんて。
かるい気持ちで一ページ。
ん!
とりあえず、もう一ページ。
あれ。
あと二ページぐらい。
待てよ。
へ~。
おもしろいじゃん!
で、一章まるごと。
というような具合で、おもしろく読んでいます。
これはこれで、
幸福な出合いかもしれません。

 

・耳鳴りか否天蓋に蟬の声  野衾

 

座右の銘

 

先だって、
『アラン『定義集』講義』の著者・米山優(よねやま まさる)先生と対談した折のこと、
最後の最後のほうで、
教え子の学生から
「先生の座右の銘は何ですか?」
と尋ねられたときのエピソードを話してくださいました。
訊かれた先生、
ちょっと考えてから、
「ていねいに生きることかな」
と答えたのだとか。
大学で『定義集』をはじめアランの著作を取り上げ講じてきたことはもとより、
大学院生の頃から、
アランに親しんでこられた米山先生ならでは、
と感じ入りました。
以来、
本のページから目を上げたとき、
通勤の行き帰り、
また、夜、床に入ってから、
「ていねいに生きる」
を思い返すことが多くなりました。
きょう、
ていねいに生きたかな?
ふと思い出したことがあります。
矢沢永吉さんが、
糸井重里さんとの対談の折だったと思いますが、
歳をとって、朝、スッと起きられなくなったことを話していました。
目が覚めてから起き出すまで、
からだの端端に血が巡っていくのが分かると。
それが分かるということは、
起きることにていねいだからでしょう。
作家の五木寛之さんは、
足の指それぞれに名前を付けていて、
風呂に入った折など、
指に付けた名前を呼びながら、
ていねいに一本一本洗うのだとか。
事程左様に、
行住坐臥、
何ごとに限らず、
「ていねいに生きる」コツがありそうです。

 

・秋澄めば背筋伸びゆく故郷かな  野衾