セネカさんに笑う

 

茂手木元蔵さんの翻訳により、セネカさんの文章を少しずつ読みながら、
「怒りについて」書かれた珠玉のことばに触れる度、
じぶんの日常と来し方を
ふかく反省させられることになるわけですが、
まさか、セネカさんの文章を読んで、
笑ってしまうことになるとは思ってもみませんでした。

 

誰かが君に侮辱を加えたりする。
しかし、
ストア哲学者のディオゲネスに加えられた侮辱ほど大きなものがあろうか。
ちょうど彼が怒りについて論述していた時のことである。
一人の青年が大胆にも彼に唾つばを吐きつけた。
しかしディオゲネスはじっと、
賢者にふさわしくこれに堪えた。
そしてこう言った。
「無論私は怒ってはいない。
だが、怒るべきかどうかには迷っている。」
(セネカ[著]茂手木元蔵[訳]『道徳論集(全)』東海大学出版会、1989年、p.229)

 

「だが、怒るべきかどうかには迷っている。」
ここで、ついプッと笑ってしまいました。
だって、ふつう、怒るときというのは、迷う前に爆発している
(わたしの場合ですけど)よ。
のんびり迷っている暇などないですって。うん。
でも、
とは言い条、
なんか、いいなぁ、こういう人。
ほんとかなぁ。
こういうひとにこそなりたいと思うけど、
無理な気がする。
気がします。

 

・うららかや道草の間に忘れたり  野衾

 

カバー曲のたのしみ

 

休日出勤してのたのしみは、仕事が一段してから聴くYouTubeの音楽。
気に入っているどなたかの歌を聴いていると、
パソコン画面の右横にいくつか、
AIが判断しているのかどうか分かりませんけれど、
わたしが興味を持ちそうな、ほかの動画の候補も上がっているので、
興味がありそうないくつかを見、
聴きます。
おとといは、美空ひばりさんが歌う「恋人よ」を。
いやぁ、驚きましたね。
「恋人よ」は、作詞も作曲も五輪真弓さん。
そんで、本人が歌っていますから、天下無双と思い込んでいました。
ところが。
いやぁ、くり返しになりますが、
驚きましたよ。
驚き、感動して、目頭が熱くなりましたもの。
それからそれから、
「ファドの女王」と称される、アマリア・ロドリゲスさんを連想したり。
堂々たるものですね、
ひばりさん。
「恋人よ」、恋人、恋を超え、人生、じんせーの味わい、
って感じかなぁ。
と、
もうひとつ。
藤圭子さんが歌う「岸壁の母」。
二葉百合子さんの「岸壁の母」は、これまで何百回も聴いてきて、
これこそ天下無双と思ってきました。
(のちに菊池章子さんの歌唱を知ることになりましたが、
オリジナルの菊地さんのは菊地さんので、二葉さんのとはまた別の味わいがあり、
いいなぁと思います)
が、
藤圭子さんの「岸壁の母」、これはもう、凄いとしか言いようがありません。
二葉さんも藤さんも浪曲師の親に育てられていますから、
浪曲師の血が騒ぎ、声に出るのかな、
そんなふうにも思います。
いやあ、
歌っこ、ウダッコはいいなぁ!!

 

・幾度目の春やたつきのゲラを読む  野衾

 

生けるの水のこと

 

哲学者の小野寺功先生の本を数冊、春風社から出していて、
聞書集 聖霊はまことの息吹 絶対無即絶対有のコスモロジー
が直近のものになります。
これまでもそうですが、
この本の出版にあたっても、対面での聞き書きだけでなく、
たびたび電話でお話をうかがいました。
わたしが読んでいる本のもろもろについて、
読み方が間違っていないか、
先生にそのつど申しあげ、先生のコメント、感想
をいただきました。
それが、いまのわたしにとりまして、
だいじな宝になっています。
先生がお話のなかでよく触れられる聖句の一つに「ヨハネによる福音書」
第7章の文言があります。
第7章38節、

 

わたしを信じる者は、聖書が語ったとおり、
その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。

 

引用文中の「内から」は、
新約聖書の原典であるギリシア語では、
「腹から」となっているそうで、
そのことを小野寺先生は、「切腹」との対比で、ことあるごとに強調されます。
日本の武士が、勇気やまごころを示すために、なぜ自身の腹を切るのか、
その行為のみなもとを、東西文化のちがいを超え、
先生は見ておられるようです。
そしてさらに、
「ヨハネによる福音書」第7章38節に対応する旧約聖書の聖句がいくつかありますが、
たとえば、
「ゼカリヤ書」の第14章5節から8節にかけ、
つぎのようなことばがあります。

 

私の神、主が来られる。すべての聖なる者たちも、主とともに来る。
その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。
これはただ一つの日であり、その日は主に知られている。
昼も夜もない。
夕暮れ時に光がある。

その日には、エルサレムからいのちの水が流れ出る。
その半分は東の海に、残りの半分は西の海に向かい、夏にも冬にも、それは流れる。

 

東の海は死海を指し、西の海は地中海を指します。
いのちは生命、いのちの水は生ける水。
『聞書集 聖霊はまことの息吹 絶対無即絶対有のコスモロジー』
の帯に、新井奥邃さんのことばを入れましたが、
その文中、
「生命の機は一息に在り」があり、
これは、
森信三さんが、森さんに親炙していた身近な方から質問されても解説しなかった、
森さんにとっても、だいじな、
火のようなことばであると思いますけれど、
『聞書集』が出てから、小野寺先生は本文を何度も読み返し、
はじめて、
「生命の機は一息に在り」が分かった
とおっしゃいました。
それが、わたしにとりまして、
こころからうれしいことであります。

 

・うららかやジヤズの悲しみ弾みをり  野衾

 

セネカさんのことば

 

セネカさんの本を毎日少しずつ読んでいますが、
耳が痛いようなことだったり、つい、きのうの行いを思い返したり、
反省させられたりすることが度々あり、
いつも思うことながら、
二千年も前の人とはとても感じられません。
文字は殺し、霊は生かす、ということがありますけれど、
文字によって、文字を媒介にすることによって蘇り、再生する霊もあるようです。

 

人間の本性は愛を促すが、怒りは憎しみを促す。
前者は人の役に立つことを命ずるが、後者は人に害を加えることを命ずる。
更にまた、
怒りが憤いきどおりを発する原因は、
自分自身を甚だ高く買っているからであり、
それは一見誇り高く思われるかもしれないが、
実は貧弱で狭量なものに過ぎない
と言うべきである。

なぜなら、
自分が軽蔑されたと思い込む当人が、
その相手よりも小者でない例ためしはないからである。
しかるに、
かの広大な心、すなわち自己を真に評価する心は、損害に復讐しない。
損害を感じないからである。
投げ槍は、
堅い面に当ると跳ね返る。
堅い物を打っても、打った者のほうが痛い目に会うだけである。
それと同じように、
どんな損害を偉大な心に加えようとも、
それを感ずるまでにさせることは不可能である。
加えられた損害のほうが、相手の加えんと求める損害よりも弱いからである。
このような心が、
いかなる投げ槍にも突き刺されないごとく、
どんな損害をも侮辱をも撥ね退けることは、
なんと立派なことではないか。
復讐は苦痛の表明である。
偉大な心は、損害によって歪ゆがめられるものではない。
君を侮辱した者は、君より強いか弱いかである。
もし弱いなら、
その者を大事にするがよい。
強いなら、君自らを大事にするがよい。
(セネカ[著]茂手木元蔵[訳]『道徳論集(全)』東海大学出版会、1989年、p.193)

 

このようなことばは、頭で考えて、でてくるようなものではない気がします。
セネカさんがどれだけ苦労した人か、
その心痛は如何ばかりであったのか、
と想像せずにはいられません。

 

・ただそこを大地の上の蕗の薹  野衾

 

伏流水のこと

 

仕事で静岡県三島市に行ったとき、
富士山に降った雨が地下に浸みこみ、伏流水となって三島周辺で湧きでる、
といった話をうかがいました。
すぐに湧きでるわけでなく、
70日、26~28年、場合によっては100年もかけ、地上に湧きでるといいますから、
驚きます。
こういうことが、
人と人とが織りなす世界でも言えるかもしれないなと思います。
ドイツに『ファウスト』などで有名な、
1749年生まれのゲーテさんという著名な方がいました
けれど、
ゲーテさんを高山に喩えると、
この山に降った雨が地下にもぐり、
それがやがて湧水となって、
たとえば、
カーライルさん、エマソンさん、ソローさん、オールコットさん、
その娘の『若草物語』を書いたオールコットさん、
などのいのちを養っているのではないか、
さらにさらに、
その水は、
1871年にアメリカに留学し、29年間、かの地にいた新井奥邃さんのいのちも潤した
のではないか、
そんな想像がもたげてきます。
これも、
幽(かく)されていた意味が、時と場所を得て顕現する、
角(つの)ぐむ葦、
宇摩志阿斯訶備比古遅神
(ウマシアシカビヒコジノカミ)
の例かもしれません。

 

・春去ればジヤズレコードの音が鳴る  野衾

 

『聖書』における幽と顯

 

若い頃から『聖書』に親しんできて、とちゅう、じぶんの身辺のことが忙しくなったり、
ほかの、さまざまな本を読んだり、目移りもしましたが、
このごろは、
『聖書』はやっぱりおもしろいとの感想を持ちます。
何度も読み返していると、
その都度、
じぶんなりの発見がありますが、
旧約における預言者の書のなかにあらわれる、
メシア(救世主)の出現の予言に目が留まります。
『聖書』に関する解説書を読むと、必ずと言っていいほど、
そのことに触れており、
なので、知識としては知っているけれど、
ちかごろ鈴木重雄さんの『幽顯哲学』を読んだことにより、
旧約と新約のあいだの関係がいっそうおもしろく
感じられます。
旧約の「ミカ書」の第五章二節につぎのことばが記されています。

 

「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。
だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。
その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」

 

預言者ミカは、紀元前八世紀のひととされています。
引用したミカ書に照応する記事が、「マタイによる福音書」の第二章六節にでてきます。
たとえば、
旧約と新約のこの二つの文章をじっと眺めていると、
旧約において幽(かく)されていた意味が、
新約において顕現してくる、と感じられ、根が見えてくるように思います。
歴史のひとつひとつの出来事の底に、
幽(かく)されていた意味が、時と場所を得て顕現する、
そう考えると、
角(つの)ぐむ葦、
宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコジノカミ)
の阿斯訶備(=葦の芽)との響き合いが連想され、
じぶんの来し方行く末、
歴史の来し方行く末を考える契機にもなってくるようです。

 

・春寒し馬屋に尿の迸る  野衾

 

春日

 

きのうは、三か月に一度の定期検診の日。通院の帰りにタクシーを利用しました。
たまたま、割と利用するタクシー会社のクルマで、
それと、
前日とは打って変って、とても気持ちのいい天気でしたので、
つい、
「きょうはいい天気ですねー」と話しかけました。
「そうですねー。きのうと違って、きょうは春らしい、気持ちのいい日です」
と運転手。
さらに、
「さきほど乗られたお客さまも、クリニックの帰りでしたが、
自宅まで、歩けば五分とかからない距離だそうですけれど、
タクシーを利用して下さり、
どこでもいいので、少し走ってもらえないですか、とのことでした。
保土ヶ谷公園とか、景色の良さそうなところを思い浮かべ、
思いつくまま、
クルマを走らせました。
長崎生まれだそうで、
長崎も坂が多いけれど、横浜も坂が多い、
ふるさとを思い出しますと、おっしゃっていました。
ご自宅の前で降りられましたが、
バックミラー越しに見ると、
お辞儀をされ、ずっと手を振っていてくださいました…」
「そうでしたか…」
どんなにか喜ばしく、ありがたく、うれしい一日だったかと、
想像された。

 

・春寒し貨物列車の軋むかな  野衾