天と地

 

縦書きと横書きとはどのように違うのだろうか。
本来の書き方である縦書きがどのような意味をひめているのかを示す次のような逸話がある。
筆者がかつて編集者としてかかわった本に、
現代アメリカの自然作家、キム・R・スタフォードの『すべてがちょうどよいところ』
というエッセイがある。
原題はHaving Everything Right
編集・制作作業を終えて、出来上がった日本語訳を著者に送ると、
しばらくして心のこもった礼状が届いた。
著者は漢字と平仮名の縦組みにされた訳文を眺めていて、
まるで雪の結晶が空からとめどなく降りそそいでくるイメージを思い浮かべたという。
いかにも自然作家にふさわしい美しい比喩だが、
ここで大切なことは、
日本語を知らない外国人作家にして、
紙面に縦組みされた文章に、
天地をつらぬく垂直の方向性を感じとったということではないだろうか。
ひらかれた本の上辺を天といい、下辺を地という。
白い紙面は天地であり、
文字はその広大な天地に配置される。
人が筆記具を手にして白い紙面に対峙するとき、
磁場のような天地をつらぬく方向性が意識に生じる……。
書くとはそのようなことだったと思える。
(鶴ヶ谷真一『紙背に微光あり 読書の喜び』平凡社、2011年、pp.171-2)

 

休日、たとえば、このごろ児童遊園地にいっていなかったな、
などと、急に思いつき、
さっそく用意して外へ出てみます。
晴れていると、西の方角に富士山がまぶしく聳え立ち、
葉を落とした木の枝にまだ少しは残っていて、
道々の緑が風にゆれていたりすると、
それだけで散歩のありがたさが身に沁みてきます。
歩きながら、ふと、
歩くことは、
横組みのエッセイを読んでいるときの感覚に近いなと思うときがあります。
この場合、
「お気に入りの」という限定つきではありますが。
児童遊園地にたどり着き、
そこでしばらくベンチに座ったり、
反対の丘の上の小さな農園にある花々を眺め。
ここまでが本でいえば、左から右へ読み始めての一行目。
しばらくして、
来た道を家に戻る歩みは右から左への二行目。
ここは、横組みのエッセイでも、
いまの読み方とはちがっています。

 

・さわがしきことも後ろへ秋の空  野衾

 

悪口を言わない

 

偉大な使徒が語った「だれをもそしらず」〔テトスへの手紙3章2節〕
という言葉は、
「殺してはならない」〔出エジプト記20章13節〕という言葉
と同じように明白な命令です。
しかし、
キリスト者の間であってもいったいだれがこの命令を尊重しているでしょうか。
この命令を本当に理解する人が何とわずかしかいないのでしょうか。
そしることは、
ある人が考えるように、噓をついたり中傷するのと同じです。
その人が語ることが聖書と同じように真実であっても、
それが悪口になるときもあるのです。
というのは、
そしることはそこに存在しない人の悪口を言うことだからです。
例えば、
ある人が酔って、ある人を呪い、悪口を言うとします。
特に、その人がいないときにそれを語るとします。
それがそしることになるのです。
それはまた、「陰口」を言うことでもあります。
このことは、
私たちが人の「悪評」を言いふらすことと同じことです。
たとえその悪評が優しく、穏やかな形でなされるとしてもです。
(その人に対して善意があり、事柄が悪くならないという希望を持ちつつ話されるにしても)
私たちは、それを「内緒話」と言うこともできるでしょう。
どのような作法でこれがなされるのであれ同じです。
状況がどのようであるかが問題なのではなく、
本質が大切なのです。
これは悪口です。
第三者がいないときに、その人の過ちを語るときには
「だれをもそしらず」ということが大切なのです。
(A.ルシー[編]坂本誠[訳]『心を新たに ウェスレーによる一日一章』
教文館、2012年、p.306)

 

ヤフーニュースを見ていましたら、
藤田ニコルさんのことが紹介されていました。
それによりますと、
昨年8月に公開された動画のなかで、
日々心がけていることについてコメントしたそうです。
九つ目の質問が「守ってきたこと」。
藤田さんはそれに応えて、
「人の悪口を言わないこと」
を挙げ、
「人の悪口、あんま言わないんで。最近思う、マジでウチ(悪口を)言わない。
人が悪口を言っていてもあんまり乗りたくないです」
と語ったそうです。
わたしはその動画を見ていませんが、
そういうことを心がけている藤田さんがステキだと思います。
いま読んでいる本に「悪口」にかんする文章がありました。
書名にあるウェスレーは、
ジョン・ウェスレー(John Wesley、1703-91)。
18世紀のイングランド国教会の司祭で、
メソジスト運動という信仰覚醒運動を指導した人物として知られています。

 

・しんしんと人間遠く虫すだく  野衾

 

椅子の位置

 

不世出の天才ピアニストとして著名なグレン・グールドは、
天才にふさわしく、
いろいろ奇想天外なエピソードに事欠かなかったようですが、
椅子の高さを微調整するのに三十分もかかり、
オーケストラをほったらかしにして指揮者を怒らせた、
なんていうのもあります。
このごろはグールドをあまり聴かなくなりましたけれど、
椅子のエピソードはちょくちょく思い出します。
というのは、
家で本を読むとき、
一人掛け用ソファーに深く腰を掛け、オットマンに両足をのせてのスタイルが多いのですが、
座ったとき、
ソファーの右手にある本棚との距離がいつも気になるからです。
グールドは、
腰掛ける椅子の高さが気にかかったようですが、
わたしの場合は、
高さでなく、本棚との距離、それと、東に切ってある窓に向かう椅子の位置と角度。
なんだか神経質な気がして、
そんなの気にしなくてもいいじゃん、
と、
気になるこころを我慢することも間々あるのですが、
我慢していると、
我慢していることが気にかかり、
とても本を読むどころではなくなり、
けっきょく、
じぶんが安心する位置と角度をさぐることになります。
そんなときです、
グールドがふと頭をよぎるのは。

 

・業果つや底へ底へと虫の声  野衾

 

あれから20年

 

しばしば述べたとおり、物語は小説と違うのであり、
物語のなかでもとくに物語的な『源氏物語』は、小説的な統一性をほとんど志向していない。
もし『源氏物語』に統一性を求めるならば、
それは、
現実生活どおりの統一でなくてはなるまい。
つまり、現実生活と同じ構造において、
周辺的な事象までこまごまと書いてゆくのである。
それは、中心的な主題から、ひどく遊離しているようにも見える。
しかし、
主題に直接関係しないことを書いてゆくのは、
じつは、主人公の生活を、いっそう広く深く暗示することになる。
主人公について一切を描きつくすことは、どうせできない相談なのだから、
周辺をこまごま書くことにより、
描かれない中心部分にも主人公の生活があることを暗示するのである。
(中略)
短篇物語の集積と見なしうる『源氏物語』は、
全体的な筋立てにおいてもいちじるしく無限定的だが、
それは、
この作品がもっとも物語的な性格をもつ物語であり、
物語の史的展開において頂点をなすものだという意味において理解されるべきだろう。
(小西甚一『日本文学史』講談社学術文庫、1993年、pp.69-70)

 

まもなく新しい『春風新聞』(第30号)が発行されますが、
ちょうど20年前、
『春風新聞』の前誌ともいえる『春風倶楽部』第6号の特集を、
「〈ものがたり〉の可能性」とし、
エッセイをお願いしたのでした。
ご執筆くださったのは、
谷川俊太郎、田口ランディ、山田太一、吉増剛造、中沢新一、しりあがり寿、
ウペンドラの七氏。
いま思い出せば、
特集のテーマを設定するにあたり、
小説と物語のちがい、
さらに物語の広がり、深さ、不可解さがわたしの胸にあって、
諸氏に尋ねてみたくなり、
原稿をお願いしたように記憶しています。
あの時点で小西さんの『日本文学史』を読んでいれば、
きっと小西さんにも原稿をお願いしていただろうと思います。

 

・金秋を来りたはむる雀かな  野衾

 

キーンさんと小西さん

 

ところで、作り物語は、一般的にいって、小説とたいへん違った特性をもつ。
それは、
小説が人生の「切断面」を描くものであるのに対し、
物語は人生の「全体」を述べるものだという点である。
つまり、小説は、
長篇小説にもせよ短篇小説にもせよ、
作者の描こうとする中心があり、
それを適切に描き出すため、いろいろな周辺的事実を配置してゆくのだが、
物語は、むしろ、
周辺的な事実をこまごま書いてゆくことが本体なのである。
構想の緊密な統一を要するはずの短篇物語においてさえ、
主題がどこに在るのかわからぬような散漫さが、
常に平然として存在する。
小説ならば、失敗として非難されるであろう無統一性が、
物語においては、かえって本来の性格となる。
小説をよむときの批判基準は、物語に適用できないのである。
(小西甚一『日本文学史』講談社学術文庫、1993年、pp.56-7)

 

この三連休、読みたい本が何冊かあり、計画を立てて朝からせっせと読みすすめ、
ほぼ計画どおりに読みすすんだのは良しとすべきですが、
三日目のきのうに至り、
さすがに、
疲れた。くたびれた。呆けた。
そうか。いいこと思いついた。そうだ。そうしよう。
夕刻風呂に入り、
湯舟につかっていい湯だな。
っと。
これでよし(なにが?)
風呂から上がり、乾いたタオルで体を拭き下着を替え。
さて。
和室にある文庫本の棚をひょいと見たら、
小西さんの本。
そうか。
この本まだ読んでなかったな。
ぶ厚い五冊ものの『日本文藝史』を読んだので、
小さいのはそのうちに、
なんて思って済ませていたのでした。
ちょうどいい(なにが?)
これにしよう。
と。
いきなり小西節全開! 抜群に歯切れがよい。
ドナルド・キーンさんと小西さんの縁をつくっただいじな一冊。
キーンさんはこの本の旧版(弘文堂「アテネ新書」の一冊として昭和28年刊)
を読むまで小西さんを知らなかった。
旧版のこの本を読んで感動し、
それがきっかけで小西さん本人の自宅を訪ねたことが、
講談社学術文庫版の解説に書かれています。
これがまたキーン節全開で。

 

・ゆかしきは風止む底の虫の声  野衾

 

本を読む人々

 

なぜ人は、大きなスクリーンで動きまわる人間たちを見るのではなく、
本を読むのか。
それは本が文学だからだ。それはひそかなものだ。
心細いものだ。
だが、われわれ自身のものである。
私の意見では、
本が文学的であればあるほど、
つまりより純粋に言葉化されていて、一文一文創り出されていて、
より創造力に満ちていて、考え抜かれていて、
深遠なものなら、
人々は本を読むのだ。
本を読む人々は、とどのつまり、
文学(それが何であろうとも)好きな人々である。
彼らは本にだけあるものが好きなのである。
いや、
彼らは本だけがもっているものを求める。
もし彼らがその晩映画を見たければ、きっとそうするだろう。
本を読むのが嫌いなら、きっと読まないだろう。
本を読む人々はテレビのスイッチを入れるのが面倒なわけではないのである。
彼らは本を読むほうが好きなだけだ。
そもそも本を読まない人々に気に入ってもらおうとして
何年も苦労して本を書く
などということ以上に悲しい試みがあるだろうか。
(アニー・ディラード 著/柳沢由実子 訳『本を書く』田畑書店、2022年、p.61-2)

 

そのとおり、と思いました。
わたしがそのことをふかく知ったのは、
親しくしている近所の女の子たちとの会話からでした。
あれは、
ふたりがまだ小学生だったころのこと。
いまの子たちですから、
ふつうにいまどきの遊びを楽しんでいました。
あるときわたしはふたりに聞きました。
「どうして本を読むの?」
間髪を容れずにおねえちゃんが「本は別だから」
妹は頷いています。
テレビはテレビ、ゲームはゲーム、スマホはスマホ。
それと本は別。
そうか。
その後、二人が読んでおもしろかったという『メアリー・ポピンズ』のシリーズと、
『ドリトル先生』のシリーズを読んだのでした。

 

・けふの日の賑はひ遠し虫の声  野衾

 

声が聞こえる

 

書かれた言葉は弱い。多くの人は人生のほうを好む。
人生は血をたぎらせるし、おいしい匂いがする。
書きものはしょせん書きものにすぎず、
文学もまた同様である。
それはもっとも繊細な感覚――想像の視覚、想像の聴覚――
そしてモラル感と知性にのみ訴える。
あなたが今しているこの書くということ、
あなたを思いっきり興奮させるこの創作行為、
まるで楽団のすぐそばで踊るようにあなたを揺り動かし夢中にさせるこのことは、
他の人にはほとんど聞こえないのだ。
読者の耳は、
大きな音から微かな音に、
書かれた言葉の想像上の音にチューニングされなければならない。
本を手に取る普通の読者には、はじめはなにも聞こえない。
書いてあることの調節状態、
その盛り上がりと下り具合、
音の大きさと柔らかさがわかるには、
半時間はかかる。
(アニー・ディラード 著/柳沢由実子 訳『本を書く』田畑書店、2022年、p.59)

 

以前、中井久夫さんの本を読んだとき、
翻訳をするときには、
原著者が日本語を話せるものと想像し、その声を聴くようにして日本語にする、
という主旨の文章に目がとまりました。
柳沢由実子さんが訳されたアニー・ディラードの文章を読むと、
アニー・ディラードさんの声が聞こえてくるようです。
本を読むことは、
文字をとおして、それを書いた人の声を聴く、
ということになりそうです。
そのためには集中することが必要
になりますが、
集中しようと意図して集中できるものではありませんから、
集中のカミサマが下りてくるように、
場をととのえなければなりません。
紙の本は、
そのためにもある気がします。

 

・白雲のたつ果て知らず今朝の秋  野衾