本は

 

神奈川県立図書館新館が今月一日にオープンしまして、
わたしはまだ中に入ったことがありません
けれど、
弊社が入っているビルと、道を挟んだちょうど向かい側にあり、
また建物全体に、ガラス窓を広くとっているせいか、
なんだかとってもリゾートホテルのよう。
なので、
仕事に疲れてきたときなど、
椅子をくるりと回転させ、
館内で本を読んだり、勉強したりしている利用者の姿を遠めに眺めます。
弊社は教育会館の三階にありますが、
新しくできた図書館の三階には広いバルコニーがあって、
そこから外の風景を楽しむひとの姿も見えます。
(お~い)
社のすぐそばに図書館ができたことで、
ありがたいのは、
本を読む、本と接するひとのイメージが具体的につかめるようになったこと。
いま校正しているこのゲラも、
やがて本になり、
向かいの図書館で読む人がいるかもしれない。
一階のソファでゆっくりと読まれるか、
二階の窓に向かった机のところで辞書をそばに置いて読まれるか、
はたまた、
すぐには読まれず、
とりあえず、
本を小脇にかかえて、
バルコニーにでてみるか、
と思った人の体温に温められたり…。
本て、いいなぁ。
本て、いいもんだぞ。
弊社はきょうが二十三周年、
明日から二十四年目に入ります。
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

・丘越しのきつね色なる秋の宵  野衾

 

「は」と「が」の違い

 

つまり「は」という助詞を提題の助詞だというわけは、
「は」の本質は、その上の部分に問題として出すのだということです。
そして下に答を要求しているんです。
問題として出すからには、
その問題ははっきりわかってなきゃ困る。
だから、
「は」で受ける上の部分はすでにわかっていることとして取り扱う。
そして「は」の下に未知の答を求める。
提題というのは、そういうことなんですね。
だから既知とか未知とかいう言い方で「は」を説明すれば、
題目として、問題として出す以上は、
その部分は既知扱いとなる。
そして「は」の下のところへくるのが未知の答なんで、
答というものはいろんな、
さまざまのいい方ができるもの、
つまり、新しく提供される情報でしょう。
つまりわかっていること(既知扱い)とわからないこと(未知扱い)とを
組み合わせて、
一つの言語表現をする。
それが日本語の「は」の構文の本質なんです。
(大野 晋・丸谷才一『日本語で一番大事なもの』中公文庫、1990年、p.212)

 

この箇所を読み、すぐに、あるテレビ番組を思い出しました。
それは、
「サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん」
いろいろなジャンルのものに興味を持った子供たちが登場し、
じぶんの好きな世界を紹介していきます。
おもしろくて、
このごろよく見ます。
番組中、
「博士ちゃん」がサンドのおじさん二人と愛菜ちゃんにクイズをだす場面があります。
たとえば、
スタジオに宝石三個を用意し、
一個は20万円の物、一個は300万円の物、一個は宝石にまねて作ったガラス製品。
そのなかから、300万円の宝石がどれかを当てる
というクイズ。
そのとき「博士ちゃん」は、
「一個300万円の宝石は~~~?」
とことばを発します。
宝石の問題に限らず、
どの「博士ちゃん」も、クイズをだすときには、
「○○のものは~~~?」
と言い、
「○○のものが~~~?」
とは言いません。
宝石の場合でいうと、
スタジオで三個の宝石(一個はガラス)を直接見て触っていますから、
既知ということになります。
疑問に感じることもなく番組を見ていましたけれど、
大野さんの説明と照らし合わせると、
合点がいきます。
ちなみに、
「は」の上は既知、
に対して、
「が」の上は未知、
ということになります。

 

・赤々と夕陽の下の虫の声  野衾

 

サンスクリット的世界

 

ちょっと話がそれるかもしれませんけれども、
昨年インドに行きましたとき、
私の通訳として助けてくれたインドの若い女の人に、川の水の流れをみて、
われわれは
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例ためしなし」
というと、言ったんですね。
また中国では
「ゆくものはかくのごときか昼夜をおかず」
と孔子が言ったという話をしたんです。
そうしたら彼女いわく、
「水は流れて行くけれども、その本質においてなんの変りもない」
と。
これには私も驚きました。
インドの人には、やはりサンスクリット的世界のとらえ方があって、
時間によって物ごとが流動して行くことを詠嘆しない、
事の本質はなにかというようにだけみるわけなんですね。
いつか彼女に、
この市原王の歌を訳してあげたら、
「風の音は、本質において空気の振動である」
と言うでしょうかねえ。
(大野 晋・丸谷才一『日本語で一番大事なもの』中公文庫、1990年、p.119)

 

引用文中の「市原王の歌」は、萬葉集1042番、

 

一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 音の清きは 年深みかも

 

この一つ松は幾代を経たことであろうか。
吹き抜ける風の音がいかにも清らかに聞えるのは、
幾多の年輪を経ているからなのであろう。(新潮日本古典集成『萬葉集 二』)

 

大野晋さんと丸谷才一さんとの対談は、
『源氏物語』に関するものを以前読んだことがあり、
とてもおもしろかったので、
今度はズバリ日本語に関するものを読んでみようと思って読み始めましたら、
こんな箇所がでてきて、
なるほどなぁと思いました。
引用箇所の発言は大野さんです。
ことばを覚え、ことばを操っているようにみえて、
それは驕り高ぶりかもしれず、
実のところは、
それぞれの言語構造の海に産み落とされ、
そこの水にふさわしい泳ぎを習い泳いでいる、
ということかもしれません。

 

・天高し逆さ宇宙の雲がゆく  野衾

 

大野晋さん 2

 

大野は最晩年、自分を責めることが多くなっていた。
責める理由の一つは、
「生徒に作文を書かせ、家に持ち帰って誤字を訂正し、批評を加える。
そういう先生を増やすことに、僕はもっと時間とエネルギーを使うべきだった。
そうしておけば、
日本もこんなひどい国にならなくてすんだかもしれない。
そんな気がしてならない」
ということである。
引き受けたのは、
贖罪しょくざいのためだったのかもしれない。
会見で大野は、
言葉が日本を救った例を語った。
ポツダム宣言の中の一節、
「天皇はis subject to 連合国最高司令官」
の訳である。
普通は「従属する」と訳すところを外務省事務次官の松本俊一は、
「そんな訳にすれば、怒った軍部が焦土作戦に出る」
と考えて、
「制限の下に置かれる」と訳し、
天皇のもとに届けた話である。
松本にこういう訳ができたのは、
彼に日本語の教養があったからである。
日本を救ったのは、言葉の力であると、大野は諄々じゅんじゅんと説いた。
そして、
「私は日本語をいくらか勉強したので、少しわかるようになりました」
といってから、
「日本語が話せて、日本語の読み書きができる。
その程度で言葉がわかるとは思わないで下さい。
もっと本気で、日本語に対して下さい」
(川村二郎『孤高 国語学者大野晋の生涯』集英社文庫、2015年、pp.344-5)

 

引用文中にある「引き受けた」は、
東京書籍と時事通信社が共同で「日本語検定」を始めることになった折の、
監修役のこと。
大野さんは、
平成19(2007)年2月27日、
日本経団連会館で行われた記者会見で、上のように述べた。
このとき大野さん、87歳。
入退院をくり返し、
またそのうえに、
尻もちをついたはずみに背骨を傷め、補助具なしに歩けなくなり、
まっすぐ座ることもできなくなっていたのだとか。
このときの発言が、
公式の場で発した最後の言葉になりました。
「誤字を訂正し、批評を加える」
は校正のことですから、
わたしにも与えられている仕事を考えるための、
いいきっかけになりました。
この本の解説は内館牧子さん。
会見における大野さんの最後の言葉「日本語が話せて~」を、
肝に銘じたいと思います。

 

・ふるさとの何処にありや花野道  野衾

 

大野晋さん

 

大野はそれまでも、ゲラに何回も朱を入れることで岩波書店では名が轟き、
すでに伝説になっていた。
ゲラは校正を出すごとに、費用がかかる。
『日本語の形成』は慎重がうえにも慎重を期すため、
四回も五回もゲラを取る。
大野はそのつど、入念に手を入れた。
製作コストは膨大なものになりそうだった。
常務の鈴木稔は頭が痛かった。
コストが例のない額になるので、
本の定価を抑えるためには、
著者の印税を削ることしか方法がない。
事情を著者に説明し、わかってもらわなければならなかったからである。
鈴木は東大を出て昭和三十六(一九六一)年に岩波書店に入った。
大野とは昭和四十九年に『日本語をさかのぼる』
を担当して以来、
大野のすべての著書に直接あるいは間接的にかかわり、
大野から絶大な信頼を寄せられていた。
この役は、
鈴木にしかできないものだった。
意を決し、そのままいった。
大野は顔色ひとつ変えることなく「そうして下さい」といった。
大野はコストがかさんでいることを知っていた。
定価を二万円以内で抑えるためには、
印税を削る以外に方法のないことがわかっていた。
鈴木は鈴木で、
大野が校正者などの労苦に対して過分なまでの礼をしていることは聞いていた。
ほどなくして大野から『日本語の形成』の「序文」が届いた。
冒頭に、

「私はこの本の序文を書くときまで生きていることができて仕合せである。
私の一生はこの一冊の本を書くためにあったと思う」

とあった。
鈴木は文字がにじんで、
その先を読むことができなかった。
(川村二郎『孤高 国語学者大野晋の生涯』集英社文庫、2015年、pp.332-4)

 

川村二郎さんが書いた国語学者・大野晋さんの伝記を、
一気に読了。
これまでいろいろな方と対談をしてきましたが、
機会があれば、
直にお話を伺ってみたいと思っていたひとのお一人でした。
日本語と南インドのタミル語との関係をしらべ研究した大野さんの論考は、
学界ではあまり評判がよくないようですが、
この伝記を読むと、
なるほど、
そういうこころの動きだったんだなぁと納得。
それと、
この本を読んでふかく共感したのは、
大野さんが、
ことばを、いのちをもった生き物と同じようにとらえる、
その認識のあり方でした。

 

・ふるさとの夢に広がる花野かな  野衾

 

稲刈り終了

 

秋田の父から電話があり、ことしの稲刈りが無事終了したとのこと。
例年に比べ、作はあまりよくないらしい。
青米が交っている。
夏の日照りがつづいたことで、
田んぼの土が乾きすぎ、
稲の実りが十分でなかったのだ。
その分、コンバインが泥濘に埋まることなく、作業は順調にすすんだ。
とはいえ、
父はこの八月で91歳、
近くに住んでいる叔父の協力がなければ、
とてもつづけることができない。
この齢で米を作っているのは、村では自分一人だと父は自嘲気味に言う。
稲刈りの最終日には、オロナミンCを五本飲んだという。
オロナミンCが父にとっての魔法の水。

 

・タクシーを待つ間ぼんやり秋の空  野衾

 

お茶目なキーンさん

 

…………、私個人の一つの経験を話しましょう。初めて留学したのは京都で、
初めのころは、よくお茶の会に引っ張られて行きました。
会が始まる前にいろいろ茶碗を見せられて、
どちらがお好きかと聞かれることがよくありました。
私はだんだん尊敬される方法を覚えました。
つまりそこにある茶碗を見て、
一番私の気にいらないものを選んで、「これがいい」と言うと
「よく外国人が、このよさを理解できましたね」
とみなが驚くのです。
たとえば青磁のすばらしい茶碗と非常に美しい形の中国のものと
古い沓くつのような形のものがあるとすると、
私はその古い沓がいいと言う。
みなびっくりして、
「外国人にそんなにいい趣味があるとは知らなかった」
と言います。
つまり、
青磁とかそれに似たものは中国人が喜ぶものですが、
日本人はもっと変わった、
いびつな形のでなければ、面白くありません。
個性がなければ面白くない。
それは奇数と関係があるのではないかと思います。
(『ドナルド・キーン著作集 第一巻 日本の文学』新潮社、2011年、pp.394-5)

 

NHKの番組『COOL JAPAN~発掘!かっこいいニッポン~』
をたまに見て、
出演されている外国人の方の意見に、
「へ~。なるほどね~」
と新鮮な驚きをおぼえることがありますが、
ドナルド・キーンさんのものを読むと、
おもに文学に関わることではありますが、
「へ~。なるほどね~」
と、
目から鱗が落ちる思いをすることが少なくありません。
引用した箇所もその一つで、
こういう肩の凝らない記述から、日本語の特徴である五音、七音について、
日本の建築物の特徴に及んでいく流れは、
ゆったりと自然なものがあって、
えも言われぬ読書の楽しみを味わえます。

 

・ちろちろと和らぐ朝や虫の声  野衾