コトバは

 

この《創り上げる構造》が《創られた構造=実践的惰性態》となって
あたかも第一の《与えられた構造》の如き様相を呈する日常の言語状況にあって、
既成の意味体系、
既成のシンタックスの中に閉じこめられていく人間の意識を、
コトバの本質的表現作用を通して解放する試みこそ、
マラルメ、ソシュール、メルロ=ポンティの目指した共通の方向であった
ということができるであろう。
そしてその方向とは、
実生活におけるあまりにも露骨な有効性のもつ要請があるために、
ともすれば錯覚しがちな
《表現されるべきものの既存性préexistence》という幻想を破り、
ルポルタージュ言語的性格をもった貨幣の如き日常言語こそ、
実は本質的言語の惰性化した姿である
ことを再確認し、

既成の意味の烙印を押されてしまっている個々の語のみを視野におく狭い単語主義
をのり超えることにほかならない。
ソシュールのシーニュとは、
ひとり単語を意味せず、
それは文であり、
言述ディスクールであり、
テクストでもあるすべての言表エノンセであることを想起しよう。
メルロ=ポンティの言葉を借りるならば、
コトバは文字謎と同様、
さまざまなシーニュの相互作用を通してのみ理解され、
話者にとっても聞き手にとっても、
「コトバは出来合いの意味のための記号化や解説のテクニックとは全く別のもの」
であり、
コトバが表現するもの、
いやコトバ自体は、
「主体がその意味の世界の中でとる、位置のとり方そのもの」
なのである。
(丸山圭三郎『ソシュールの思想』岩波書店、1981年、p.208)

 

おもしろそうな本だと思い、買いはしたものの、
読まずに本棚に差しこみ、
やがて、
買ったときの思いの丈が徐々に下がりはじめ、
いつしか、
変りばえせぬ日常の風景に堕し、
時間ばかりがいたずらに過ぎてしまうことが間々あります。
丸山圭三郎『ソシュールの思想』もその類でありました。
ひょんなことから、
たまたま書名が目に入り、
そうか、こんな本があったな、なんて。
かるい気持ちで一ページ。
ん!
とりあえず、もう一ページ。
あれ。
あと二ページぐらい。
待てよ。
へ~。
おもしろいじゃん!
で、一章まるごと。
というような具合で、おもしろく読んでいます。
これはこれで、
幸福な出合いかもしれません。

 

・耳鳴りか否天蓋に蟬の声  野衾