言語味覚

 

「言語味覚」という語は、
文学批評に携わっている人々のあいだでよく用いられている言葉で、
それは雄弁の習性を言語機能のうえで持っていることを意味する。
雄弁とは、
すでに説明したように、
語られる言語が〔意図する〕意味にあらゆる面にわたって合致し、
しかもこの合致が、
構文が持つある特性に与えられるときに、
はじめて生まれる。
アラビア語のすぐれた能弁家は、
アラビア語の話し方に従って、
このような合致を生み出すのにもっともよい表現形式を選び、
言葉をできる限りその線にそって並べる。
もし、
アラビア語の話しぶりが一定してそのようになされるならば、
その人は自分の話し言葉をそのような線にそって並べることに習熟しているといえる。
彼にとって構文を作るのはいともたやすいことであり、
立派なアラビア語を話すという道からもほとんど逸れることはない。
もし、
この線にそわない構文を耳にすると、
それを唾棄し、彼の耳はちょっと考えこんでしまう。
事実この心の反応があってこそ、
彼は言語上の習性を得ているといえる。
(イブン=ハルドゥーン[著]森本公誠[訳]『歴史序説(四)』岩波文庫、2001年、pp.181-2)

 

「言語味覚」という言葉は、これまでにもでてきて、
おもしろいと思いましたが、
引用した文章は、
そのことに関しバッチリまとめて論じており、イブン=ハルドゥーンの考えがよく解ります。
言わずもがなのことながら、
味覚は舌の感覚。
食べ物や飲み物について言うのがふつうですが、
ことばも舌に上せて味わう、
というところに「言語味覚」の要諦があるのでしょう。
たとえば「コーラン」はどうでしょうか。
「コーラン(クルアーン)」がアラビア語で
「誦まれるもの=声にだして詠唱すべきもの」
を意味し、
外国語に翻訳されたものは、
本来の「コーラン(クルアーン)」とは別物であるというのは、
「言語味覚」という考え方にも表れている気がします。

 

・少年の日の後悔も秋の空  野衾