『キーウィキッズに日本語を教えて』から始まった小社の出版物が五年半で150点を超えた。小出版社としては、けして少なくない数だと思う。急いでつくった覚えはないが、おかげさまで各方面、先生方から仕事と励ましをいただき、気がつけば、え、もうそんなに!というのが正直なところ。
社員全員の努力と勤勉の賜物ながら、外部スタッフの協力によるところも大きい。入力、テープ起こし、写真、装画、装丁、デザインなど、内容に相応しいかたちに仕立ててくれるひとがいるからできる。社内だけではとても対応しきれない。その意味で、コミュニケーションの重要さを最近ひしひしと感じている。
納得いくまで話し合う、とはよく聞く言葉だが、実際はなかなか難しい。意見を異にする人とでもじっくり話し合う、同意見の人よりも、そのほうが気づかされることが多い(仕事をしていればあたりまえか)。自分の意見を否定されたとき、月並みながらそのことをどれだけ素直に認められるか、それがつぎの展開を生み新たな足場となる。自分がやぶられることをおそれず積極的に取り入れたい。新しくひらかれるため、個人も会社も。
夜、仙台の瀬上先生から電話。「具合はいかがですか?」その声を聞いただけで、折れた骨がほんの少しくっつくようなのだ。本当だ。気持ちというのは恐ろしい。自分でコントロールできない。落ち込んだ気持ちを明るいほうへ持っていくのは至難の業。今回それが身に染みて分かった。わたしはどうも普段躁状態で生活している。落ち込んで、もがき、これからやってくる楽しいことを想像して穴から這い出ようとしたが無理。
瀬上先生は回診のつもりで一日一回電話してくださるという。超多忙のなかありがたいことだ。出版人の血が騒ぎ、これはぜひ本にしなければと思い、そのことを先生に告げた。タイトル『骨が折れたら… 杜の都の診察室』(仮題)。先生、アハハ…と笑いまんざらでもなさそう。が、「三浦さん、骨が治ってから考えましょう」と言われた。それもそうだと反省。
ぼくの幼なじみにハルミちゃんという娘(いまオバさん)がいる。秋田の内科の病院で働いているが、父も母もその病院の世話になったことがある。秋田に帰ってよく聞かされるのは、ハルミちゃんの笑顔を見るとちょっとした病気なら治ってしまう、ハルミちゃんだけでなく他の看護婦さんも皆そうだと。「ハルミちゃんの笑顔を見ただけで…」の言葉を少し大げさだと思いながら聞いてきたが、それは大げさでもただの褒め言葉でもなく現実のことなのだと合点がいった。鎖骨一本折っただけでとんでもなく落ち込んだから、人の笑顔が普段と違った意味を帯びて感じられるようになった。それと、声。
次号「春風倶楽部」特集のテーマは「横浜」。昨日、谷川俊太郎さんから第一番に原稿が届き、ワクワクドキドキしながら瞬きせずに最後まで読みきった。編集者として至福の時間。ありがてぇ〜!! さっそくお礼の電話をする。
今回このようなテーマにしたのには訳がある。土地に対するイメージというのがそれぞれあるけれど、横浜に対して皆さんどのようなイメージを持っておられるのか、聞いてみたくなった。
会社創業の折、横浜を拠点にしたのは何がなんでも横浜、というわけではなく、おカネも無いからとりあえず横浜で、という具合で、横浜に対して、はなはだ失礼な心意気であったかもしれない。ところが、おかげさまで会社が少しずつ大きくなり、気がつけば五周年が過ぎ六年目に入っている。ここらへんで襟を正し地鎮祭を執り行う必要がありはしないかと思ったのだ。
新井奥邃が二十八年に及ぶアメリカ生活に見切りをつけ日本に戻り最初に踏んだ地がここ横浜だった。かつて『奥邃廣録』を編集した新井の高弟・永島忠重は、オフコースの小田和正の出身地でもある金沢文庫に住んでいた。いま我らが武家屋敷が住んでいる。人と土地に感謝し、風を受け、横浜ならではの出版社と呼ばれるようになりたい。
谷川さんからお寄せいただいたエッセイのタイトルは「横浜さん」。新しい目録「学問人」もできてきた。よ〜っし!!
折れた鎖骨の状態を診てもらうため仙台の瀬上先生のもとへ。久しぶりの仙台は駅前がさらに広くなり、旧のおもかげが薄くなったとは言うものの、すこし横に外れれば、広瀬川ながれる岸辺のなつかしさは格別。
先生は春風社から本を3冊出している。『明治のスウェーデンボルグ』『魚と水』『仏教霊界通信』。医者であること、医者の仕事を深く考えながらの著作であることを今回目の当たりにした。
診察室の外の椅子に座っていたのだが、扉は開いていてカーテンが閉まっているだけ。内容までは聞き取れないが、(だから余計に)先生と患者さんとのコミュニケーションの質が声を通して感じられる。親身になって話を聞き、不安を取り除き、相談に乗ってあげていることがすぐに分かった。
前もってレントゲン写真を撮ったあと、ふたたび待合室の椅子に座って待つこと数分、わたしの名前が呼ばれ、中に入ると、なつかしい先生の温顔に接し思わず涙がこぼれそうになった。先生は、レントゲン写真を見ながら説明をしてくださった。素人のわたしが理解したところでは、通常の鎖骨骨折ではなく、心臓よりも遠い遠位端骨折で、処置としては脱臼の治療に近い。手術せず、そのためのベルトで矯正する方法を取りましょうということになった。さらに2階の大掛かりな機械のある部屋で、モニターを見ながら先生の話に耳を傾けた。わたしの鎖骨は、ちょうど跳ね橋のような状態になっており、肘を持ち上げ肩のところを上から押えつけるようにすると、橋がつながるように折れた骨と骨が近づくのが見える。わたしの不安はだんだんと解けていく。それからまた診察室に戻ったのだが、付き添ってくれた看護婦さんが「痛かったでしょ」と声をかけてくれた。その声と笑顔にまた感動。ここの看護婦さんたちは作り物でない何かほのぼのとした地が見えるようだ。
診察後、先生にそのことを告げたら、スタッフに恵まれています、最高のスタッフです、と仰った。「スタッフによく言うのは、診る側、診られる側を区別してはいけない。今たまたま診る側の人間になっているけれども、いつ自分が怪我をしたり病気をしたり、また家族のうちの誰かがそうなるかも分からない。そうなったら、上から人を見るようなことはできなくなるはず。相手の身になること。それはどの仕事にかぎらず大事なことでしょうけれどもね。まだ自然が失われていないこういう土地柄のせいかも分かりません。奥邃先生も、生涯、仙台の土地の空気を大事にされた方ではなかったでしょうか…」
先生のご父君も医者だったという。子供の頃から患者さんと膝を交えて話す父の姿を見て育ったそうだ。医者というのはそういうものだと疑いもなく思ってきたと。
親身について、ぼくの好きな国語辞書『大辞林』にはこうある。【親身】?血縁の近い人。身内。近親。?肉親のように心づかいをすること。また、そのさま。例文「親身になって世話をやく」
病院を出た後、秋田の実家へ電話をしたら母が出て、声を詰まらせ何度もよかったよかったと言った。
4月29日から始まった連休(最大で10日間!)も昨日で終り、?今日からまた新たな戦いの日々が始まる。そんなふうに思っている方も結構おられるのではないだろうか。逆に、?長い祭りが終り、平常の時間にやっと戻れる、そういう感慨を持つ人もいらっしゃるだろう。?いや、どちらでもなく常に戦いさ、の感想もありそうだ。わたしの場合はどうかと考えたら、三つがない交ぜのようでもあり、ちょっと感傷的になっている気もする。(♪祭りの後の寂しさは…なんて歌が昔あった)ということは、?の前に「さてと」の言葉を付けた辺りにどうやら落ち着きそうだ。
朝おきてまずしたこと。歯を磨き、ベランダの鉢に水をやった。これだけで気分は変る。休み明けに大事なことは、しなければいけないことをボンヤリとではなくゆっくりと、きっちりすること。そのために、書き物なら3回は目を通し、ゆるんだ頭をクリアにする。うん! なんてね。他人事でなく自分への戒めでした。
子供の頃、母の実家に遊びに行くと、夜、日本家屋の奥の座敷に布団を敷き、父、わたし、母と川の字になって寝たものだ。まだ小さかった弟は母に抱かれていたのかもしれない。はっきりとは憶えていない。寝床が変わって少し緊張しながら、わたしは胸に両手を当てて目を見開いていた。天井板の木目を睨んでいるうちにミル貝の足のようにも見えるその模様が微妙に変容するようで眼を疑った。横を見れば父は薄いいびきをかいてすでに眠りに入っていくようなのだ。枕に乗せた頭をずらし、ふすまの上の彫り物に目をやれば、恐ろしい虎がこちらを睨んでいて、わたしはゾッとし、思わず、カアサン、と小声で呼びかけた。母は呼吸のリズムをほんのちょっと崩しただけで、またスースーとリズミカルな寝息をたてた。わたしは頭を元の位置に戻し、真上の天井を見遣りながらこんなことを考えていた。天井板を剥がし、屋根を剥がしたならば、四人はいま無辺の宇宙の下に横たわっていると。めまいがするような気がしてうろたえた。くるくるくるくるくるくるくるくる、四次元の闇はさらに冴え冴えとしていくようだった。
かつての横浜国立病院、いま独立行政法人国立病院機構横浜医療センター(長い!)の整形外科に寄り、午後、久しぶりに出社。左腕が利かず、半袖シャツ1枚しか着ていないところに雨など降ってくるものだから寒さに身をふるわせ、タクシーで紅葉坂の教育会館へ。室内は暖房が入っていて、ホッと体も心も温まる。休み中に溜まった郵便物の封を切り、中をあらため、気を奮い立たせて約束の電話を何件かする。社内は音楽も聞こえず静かな時間が過ぎていく。専務イシバシが長崎旅行のお土産に買ってきてくれたカステラを皆で食す。美味い! 午後7時退社。すっきり晴れた青空が見たくなった。