緑の館

 多聞君、専務イシバシと一緒に『大河ドラマ「義経」が出来るまで』を持ってpatraさん宅へ。patraさんは、今回の本づくりのそもそものきっかけを作ってくださった方。黛さんに知り合えたのもpatraさんのおかげ。横浜駅で一旦降り、おみやげに紅いチューリップを買う。
 馬蹄形のカウンターが設えられた素敵な部屋で、美味しいワインと普段余り口にしない手料理に舌鼓を打ちながら、綺羅星のような言葉に耳を澄ます。ときどき思わず大笑いし楽しい時間を過ごした。静かにジャズが流れ。ディレクターの黛さんが本を慈しむように手に取っていたのが目に焼き付く。ドラマ収録のため先に帰られた。
 patraさんの話を聞いているうちに、なぜか、師匠の故・安原顯さんに校正校閲の直接指導を受けた時のことを、ふと思い出した。お二人の話に私心が感じられないからだろう。安原さんからは文章について、patraさんからは仕事について、具体的にこれをこうして(それももちろんあるけれど)というより、絶対忘れてはならない心構えのようなものを教わった気がする。こういう言葉をいただくことは極めて稀、意味がいますぐ解らなくても、自分の財産にして仕事に生かしたい。このところ、仕事疲れでぐでんぐでんだったが、なんだかシャキーン! で、熟睡できた。
 朝起きてパソコンを立ち上げpatraさんのHPを見て驚いた。すでに昨日のこと、本の内容、案内が出ているではないか。われわれが帰ったあとで片付けをし、本を読んでくださり、わたしがこれを書くよりも前にアップしてくださったとは。有難し!

黒澤明

 先日、カメラマンの橋本照嵩さんが来社した折、聞いた話。
 雑誌の仕事で黒澤明監督の映画(何の映画か訊くのを忘れた)のロケシーンを撮る機会があったとか。カメラを用意していたら、いつの間に来たのか、黒澤監督が橋本さんのすぐ傍にいて、じろじろ橋本さんを見た。「胴の長い男を捜していたのだろう」とは橋本さんの意見。
 びゅーびゅー風が吹くなかでのロケだったそうで、橋本さん曰く、「とてもシャッターを切れなかった」「カメラの仕事でシャッター切れないんじゃ意味ないじゃん」「そうなんだ…」とても立っていられなくてシャッターが切れなかった、ということではないだろう。
 黒澤映画で人を斬る時の音は、濡れたタオル(手拭?)を叩きつける音だそうだ。音だったら音、風だったら風、胴の長さだったら胴の長さ、即物的な要素を疎かにしていては、いいものはつくれない。

祝受賞!

 飯島耕一さんの『アメリカ』(思潮社)が詩歌俳句部門で第56回読売文学賞を受賞した。他に小説では松浦寿輝『半島』(文芸春秋)。評論・伝記では前田速夫『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(晶文社)。飯島さんと同じく詩歌俳句部門で、もう一人、岡井隆『馴鹿(トナカイ)時代今か来向(きむ)かふ』(砂子屋書房)。
 飯島さんに初めてお目にかかったのは、師匠の故・安原顯さんが始めた創作学校でだった。バルザックについて面白い話をしてくれ、最後に、私家版のバルザック論集が少し残っているから、欲しい人は連絡をくださいとおっしゃったので、授業が終わってからすぐに手紙を書いた。程なく白い上品な本が家に届いた。有難かった。
 出版社を始めてPR誌を出すことになり、まず、どうしてもヤスケンさんに書いてもらいたくて、電話で頼んだら、拍子抜けするほど明るい声で「いいよいいよ、いつまで」と引き受けてくださり、その原稿が「春風倶楽部」第1号を飾った。うれしかった。また、ヤスケンの本を2冊も出せた! その後、ヤスケンつながりで、飯島さんに「春風倶楽部」の原稿をお願いしたところ、快く引き受けてくださり、これまで数度原稿をお寄せいただいている。
 その飯島さんの読売文学賞受賞だ。うれしくないはずがない。社内ド真ん中に据えられた木の大テーブルに紙面をバサリと広げ、皆ですげー! すげー!と大はしゃぎ。飯島さんにすぐにFAX。ヤスケンさんもきっと喜んでいる。
 四月にはウチから飯島さんの本が出る! 傑作短篇小説集『ヨコハマ ヨコスカ 幕末 パリ』がそれ。

やばつぃ

 暴れ馬のごとき三船敏郎を見たくなり、アマゾンで「七人の侍」を注文。DVD。雨のなか泥を蹴散らし走ってくる馬の猥雑さに触れたくなった。
 あの映画を見ていると、首のあたりがゾクゾクッとする。着ている服が雨に濡れ、首筋から背中にかけてツーと水が走る。「やばつぃ」秋田弁でいうところのそういう感覚を表す言葉が標準語にあるかどうか知らない。自分の外に汚いものがある、というのではない、ぐじゃぐじゃと濡れて汚い臭いものに直接触れる気持ち悪さ「やばつぃ」を味わいたくなった。

崑氏

 谷川俊太郎さんの新装版『みみをすます』を読んだせいか、何のせいか良くわからないが、夢に、20年も前に付き合っていた女性が出てきた。
 出発前のジェットコースターに二人並んで乗っていた。変なジェットコースターで、電車のボックスシートのように四人がけ、ぼくの前には「とんま天狗」で一世を風靡したあの崑氏が座り、「科学の発達が人類に幸福をもたらすかどうかなどということは、はなはだ疑問でありまして…」と、わけのわからぬことを言った。言った後、例の黒縁のメガネが鼻先へずり落ちた。崑氏の隣には見知らぬおばさんが座っていた。ボックスシートはただボックスになっているだけでなく、真ん中にテーブルがしつらえてあり、事前に申し込んでおいた料理が運び込まれるシステム。ぼくら四人のテーブルは、おでんか何かだった。崑氏が頼んだのだろう。ぼくと彼女は頼まなかったから。
 ジェットコースターがガタンと鳴り、振動でおでんの汁がちょっと飛んだ。テーブルの端からそれがこぼれた。ぼくの隣の彼女は、なぜか上半身裸で、形のよい胸を出していた。「とんま天狗」の崑氏が見知らぬ我々に、いきなり「科学の発達」うんぬんの話を始めたのは、彼女の胸を見たせいだと合点がいった。ぼくは、なんだかもったいない気がして彼女の胸に頬を寄せた。おばさんは、全く関心が無さそうに地面のほうを見ている。ゴトゴトゴトゴト… ジェットコースターがいよいよ動き出し、振動に合わせるように胸がドキドキした。

同感

 休日、出勤途中、有隣堂横浜ルミネ店に寄り、文庫やら雑誌やら単行本やらを手に取りぱらぱらめくっていたら、以下のような文章が目に飛び込んできた。少し長いが引用する。
 「相田みつをの詩は人気だよ、という人もいることだろう。たしかにそれは行分けのスタイルをとる。詩のかたちだ。ほとんどは二、三行の感想のようなもの。見る人が見えやすいように、行分けしたものだ。みんな疲れているので、頭をつかわなくてもいいものにとびつく。そんな現代人のためのことばだ。内容的にも表現のうえでも詩というほどのものではない。これが詩なら、むしろ読む人のほうがもっとじょうずに書けるのではないかと思われるようなもので、その点、安心できる。ことばに、個人の息づかいを感じるときの不安を、その「作品」はいささかも感じさせない。」
 呵呵大笑。有隣堂横浜ルミネ店の、その辺にいた客たちは、突然わたしが笑い出したので、変な人だとでも思ったのだろう、ササササ…と、わたしの傍から離れていった。
 荒川洋治『詩とことば』(岩波書店)さっそく買った。この毒舌! この笑い! 絶好調!!

その男

 ゾルバでなく、きのうのメールブロック男のことだ。
 仕事中、彼は、なぜ、切ったメールブロックを携帯電話の画面に貼らずに自分の頬や額に貼ったのだろう。わからん。どうしても。わかる必要はない。でも気になる。
 あのゼラチン質の手触り感が気に入って、それをほっぺやおでこに貼ることでやさしい気持ちになれたとでもいうのか。それもなんだか違う気がする。本人に確かめるのが一番手っ取り早いが、仕事上の情報で守秘義務があろうから、知人のSに男の連絡先を訊くわけにもゆかぬ。これからの人生で、仮にわたしが偶然どこかでその男に逢ったとして、くだんの件に関し尋ねても、本人にすら確たる理由はわからないのかも知れぬ。
 なんか変だと思ったら、その男のことを考えていた。