サイレン

 「愛と欲望の日々」にでてくる狸穴について疑問を呈したところ、明解な答えが寄せられ、今日の関東の天気のようにパーッと雲が晴れた。ありがとうございます。インターネットってこういうところがいいなあ。
 さて、昨日のコメン答(コメントに対する返事をこう呼んではいかがかと思うが、どうだろうか。どう? ダメ? ダメ。あ、そ)にも書かせていただいたが、急に思い立ち、北島三郎の「涙船」をカラオケで歌ったら、自分で歌っているのに感動しちゃってウルウル来た。船村徹作曲、星野哲郎作詞。いい歌だなあ。♪なーーーーーみだあーのーーーーーぉおおおおーーーーーーーっ♪ と、くらあ。ね。
 正月二日、いや、三日だったかな。夜、テレビをつけたら、たしかBSで北島三郎特集をやっていた。デビュー前の苦労話から現在に至るまでの半生を歌を挟みながら綴る番組で、とても興味深く、面白く見た。そのなかで、上の♪なーーーーーみだあーのーーーーーぉおおおおーーーーーっ♪のところ、作曲家の船村徹が言うことに、サイレンの音がヒントだったとか。ほんとかよ!?
 新宿って言ったかなあ、船村先生、酒を呑んでいたらパトカーだか救急車だかのサイレンの音が聞こえたんだって。そうしたら、店にいた客が、なんだなんだ、どうしたんだ、というので一斉に外へ飛び出した。しばらくすると、出ていった客たちがまたぞろぞろと戻って来た。これだ! って、船村先生思ったそうな。サイレンの音は人を惹き付ける!! あはははは…
 そういえば、たしかにあの出だし、サイレンの音みたいだもんな。あそこのところ、息継ぎせずに一気に歌うのが難しいんだって。北島三郎がそう言ってた。実際にやってみると、無理無理、ぜってー無理! 勢いつけて♪なーーーーーーーー、と歌い出しても、最後のほうになると息が切れちまい、プスプスプスと情けないことになってしまう。あれを一気に歌い切るというだけでも北島先生は尊敬に値する。

愛と欲望の日々

 ぼくのことじゃなくて、歌のこと、サザンの。カラオケで歌い、風呂で歌い、通勤途中で歌い。だいぶ身に付いた(と思う)。
 ♪眠らぬ街に夜明けは来ない 祭祀(まつり)はちょいとCool♪ いいねえ。ほんとほんと。
 昨日も、いつものコットンクラブに寄って歌った。行くと、もうママが知っていて、「練習曲ね」といって入れてくれる。すかさず♪Going up to“狸穴天国”と歌う。
 この狸穴、まみあなと読むそうだ。狸でまみ、桑田さんの発明? 念のため調べてみたら、『大辞林』にちゃんと載っていた。アナグマの異名。また、タヌキ、と。そうなんだ。へ〜、まみあな、まみあな、か。音だけ聴くと、なんだか愉しい。「愛と欲望」では、狸穴パラダイスというふうにでてくるが、桑田さんのことだから、ほとんど、マミャーナパーラダイとしか聞こえない。
 にしても、こんな言葉を探してきて巧く歌詞に乗せるのは桑田さんぐらいだろうと思っていたら、都はるみが歌った「東京セレナーデ」という歌の中、冒頭に「夜霧が流れる狸穴あたり」があって、へ〜、って思った。こっちは作詞がたかたかし。隠語として別の意味があるのだろうか。

有難きファンの皆様

 連日『大河ドラマ「義経」が出来るまで』の予約注文が入ってくる中で、選滝というタッキー&翼のファンサイトからいらっしゃる方が相当数いる。
 わたしは、特定のだれかに対しファンというほどのファンだったことはないが、今回いい機会なので、興味津津で選滝を覗いてみた。こんな楽しみ方があったのか、というのが正直な感想。熱狂的というのがどういう状態かよくわからないけれど、決して熱狂的ではなく、タッキー&翼の魅力を共有し、情報を提供し合い、みんなで楽しんでいるのがよくわかる。英語による掲示板も設けられ、外国から訪れる方もかなりあるようだ。
 管理人のrayさんが書いている義経君物語は、えらそうな歴史記述とは雲泥の差、難しい言葉を使わず、痒いところに手が届くようで本当に分かりやすい。系図の線が手書きのような太い線であることも親しみが湧く。線がカッターで紙を切った時のように細いと、歴史の試験問題を前にしたときのようにウンザリする。
 また、傑作は選滝妄想部屋。ページの冒頭「私たちは夢を見ます。素敵な彼と二人だけで過ごす淡い夢。「非現実の出来事」と認識しているのに、あたかもそれは自分の隣に息づいて、時に体温さえ感じてしまうことがあります」のリードは、『義経』第3回、鞍馬寺に追い遣られ、ことあるごとに寺を抜け出そうとしていた牛若が覚日律師に見つかり、「都に戻りたい」と訴えたのに対し、律師が「都も、地獄も、極楽も、みんなここにある」といって牛若の胸に手のひらを押し当てるのにも似、勝手なことをいわせてもらえば(自分がそうだという意味で)、目の前のつまらぬ日常、堪えがたい現実を少しでも楽しく意義あるものにしようとのこころが垣間見える気がして、なるほどと思った。選滝妄想部屋のページをスクロールして下まで持っていくと、「気分じゃないのでTOPページに帰る」とあり、爆笑。
 掲示板にhirokoさんという方が『大河ドラマ「義経」が出来るまで』のスレッドを立ててくれていたのだが、レスが多くなったというので、『大河ドラマ「義経」が出来るまで』その2として、今度はアンさんがスレッドを設けてくれた。
 本当は、選滝サイトの掲示板に書けばいいのかも知れないが、わたしが書くと、どうしてもこんなような可愛げのない無骨な文体になってしまい、ちょっと恥ずかしいので、ここに書いた。選滝の皆様、ありがとうございます。

母子物語の原型

 大河ドラマ『義経』第3回「源氏の御曹司」を観た。
 鞍馬寺の門前での母子の別れの場面、一人でテレビを見ていたこともあり、もう、なりふり構わず滂沱の涙を流したよ。嗚咽までして。(←馬鹿だ)常盤役の稲森いずみの涙は値千金! いいね、いいねえ。ぐっと堪えても、子を思う母の気持ちが…涙が滲んでくるわけだねえ。
 遮那王と呼ばれることになる牛若も、母を恋うて日ごと夜ごと寺を抜け出す。ここに日本人が好む(日本人だけではないかも知れない)ドラマのアキレス腱を見た気がした。
 横浜のとある劇場では毎年年末恒例で、長谷川伸原作の『瞼の母』の公演があるらしく、何度か観にいった人の話によれば、例の「親にはぐれた小僧っ子がグレたを叱るは少し無理」のところになると、大の男たちがおいおい泣くそうだ。
 演出家・竹内敏晴が、稀有の教育者・林竹二に誘われ神戸の湊川高校に演劇を持って入るとき、何を持っていけば困難な環境で学校に通う生徒たちの心に響くかというので、近代以降の欧米の戯曲を渉猟した後、どうもどれもあかんということになり、いろいろ考えあぐね、長谷川伸の『瞼の母』と菊池寛の『父帰る』を提示したところ、林は言下に『瞼の母』を推したという。
 『義経』第3回を観て、常盤と牛若の関係に、『瞼の母』や二葉百合子の『岸壁の母』とも相通ずる母子物語の原型があると思った。

基本

 仕事が仕事なもので、どうしても文章のことが多くなってしまうが、主語と述語の呼応というのは、日本語に限らず、どの言語でも基本中の基本だろう。ところが、かなり文章を書いている人でも、時にそれが乱れることがあるらしい。「わたしは」で始まった文章が、何が何して、こうこうこういうわけで、それがこんなことにもなり、あっちにつながり、こっちに寄り道しているうちに、結論として、「基本ではなかろうか」で結ばれる。
 は?
 中ほどを全部取っ払って、文の構造を確かめると、「わたしは…」「…基本ではなかろうか」ということになり、バカヤロー!と叫ぶことになってしまう。「そうだよ、基本を弁えぬのはお前さんだよ!! ったく!」勢いとテンションの高さと集中力で書いて欲しいと思うのだが、頭でこねくり回し言わずもがなのことをもっともらしく言おうとする魂胆が、間違いの元。
 翻訳物で、何度読んでも意味がとれぬような文章は、だいたい訳文が間違っていると思って構わぬ、ということもある。時々、何言ってんだこいつ、と、アタマにくる。何度も言うが、本当にわかったことはシンプルだ。

有難し!

 ホームページ上で『大河ドラマ「義経」が出来るまで』の予約注文を開始したところ、予想をはるかに超えた数が集まり、あらためて大河ドラマ、主役の滝沢秀明さん、演出家・黛りんたろうさんのファン層の厚みに驚いている。
 タッキーのファンサイトでは、hirokoさんという方が、本のことを紹介してくださり、同時に、予約注文のことまで告知してくださっている。
 また、前にもここで少し触れたことのある、黛さんを紹介してくださったpatraさんだが、予約注文の案内をしてくださったほかに、うれしくもあり恥ずかしくもあるが、「贔屓の理由」という題でわたしの印象記を記してくださっている。おつかいを頼まれた子どもが、もしも落としてしまったら生きている意味などないのだぞの覚悟できつく十円玉を握り締めるようにしてお持ちした花束の根元が、湯気が出るぐらいに熱くなっていたとは。
 「ぎこちなくとも誠意と熱意」を持って仕事に当たりたい。わたしとしては、この本の前説が黛さんの誠意と熱意を如実に伝えてくれる文章であると思う。淡々と書き起こしているけれども、今のNHKに対する風当たりの強さを思うとき、ひとを感動させるいいドラマを作りたいの一心で困難な仕事に向かっているこころが直に伝わり、何度読んでも目頭が熱くなる。立ち読みできるようになっていますから、ぜひお読みください。
 NHKに何度か足を運んだ際に、局内で黛さんに声をかける同僚の声の良さに聞き惚れた。この人たちは同志なのだと思った。本づくりに関しNHK側の窓口になっているNHKエンタープライズのIさんは、かつてドラマ部で黛さんと一緒に仕事をした仲とのこと、テレビ関係の事情に疎い我々にいろいろと配慮してくださった。
 今回いっしょに編集を担当した長田が子どもの頃から「大河」のファンだったことも奇縁といえるだろう。昨日、飲んで別れ際、「本が売れてくれることはもちろんうれしいけれど、そのことが、大河ドラマをより面白く観ることにつながってくれればいいなと思います」といった彼の言葉を耳にし、身内ながらあっぱれと思った。
 ご自身のホームページから最初にトラックバックを送ってくださったhoya-loverさんも、本の予約注文について有難い紹介をしてくださっている。また、毎回の「義経」の感想は、なるほどなあ、そういう観方もあるのかと唸らされる。

ラブレター

 なつかしい響きだなねえ。でも、恋のではなく仕事の。
 あのひとにこんな文章を書いて欲しい、あのひとのこんな本を作りたいと思っても、すぐには手紙を書かない。恋のこころが熟成し発酵するまでひたすら待つ。芳香を放つまでになったら、タイミングを逃がさず一気呵成に書く。しかして、恋が成就することもあれば、失恋に終わることも間々ある。いずれにしても、強がりでなく気持ちがいい。やることをやったという感じがするからだ。その時ダメでも、縁があって、またつながったりするところも恋に似ている。