営業のマサキさんがちょっといたずらっぽい眼をしてわたしを見た。ん。なに…? マサキさん、つーと、すぐそばまで寄ってきた。これ…。
写真が数枚。一番上は、芝生の上に寝転がっている中年男の写真。ふむ。わたしのようだ。いや、たしかにわたしだ。いまより少々太ってはいるものの、自分を他人と間違えるほど呆けてはいない。ハンチング帽を被っている。ふむ。あ。そうか。
というように、気がつくまでに十数秒は要したろう。なぜすぐに気がつかなかったのか。不思議。数学の難問を解くヒントが閃いたぐらいに驚いた。たかだか一年前のこと。昨年の社員旅行の際、伊豆で撮った写真だった。
棒になっても三浦さんは三浦さんなのだと友人から賛辞(?)をおくられた。棒か。
棒になった自分を想像してみる。枯れ枝かなにかの木切れの棒が道端に転がっていて、そこいら辺の犬にひょいとくわえられたりして、適当なところまで運ばれたと思ったらポイと意味もなく捨てられてか。そんな棒。
棒はひとりでは立てない。人間もひとりでは生きられない。教訓にもならないが。が、ここに30センチほどの棒があるとする。とりあえず役に立たない。でも、その棒を巧く放ると、縦に回転しながらずいぶん遠くまで達することもある。水面に石を投げ数十回もジャンプさせるのと同等の美しさでもって縦にトントントン……と。ただそれだけのことだけど、人の手を借りれば、棒にだってそれぐらいの軌道は描けるのだ。
本を読んでいたら、燃料としての記憶という言葉がでてきて、たしかに生きていくのには食料だけでなく、こころの燃料もいるな、と思った。
こころの燃料の一番は、何といっても恋愛だろうか。天にも昇る気持ちとも称されるから、ロケット燃料ほどのパワーが秘められているのだろう。若いときにはまた未来予想図という燃料もある。そんなタイトルの歌もあった。将来の夢。夢。
ところが年齢と共に恋愛の頻度は少なくなり、未来予想図もなんとなく湿っぽくしぼんでくる。記憶が後半生を生きていくための燃料というのも、あながち的外れな比喩ではないだろう。家族、友人、音楽鑑賞や読書。ひとりボーと空を眺めたり。恋愛ほど激しくない、自然にやさしい燃料がエコライフにはふさわしい。
ポーランドの鬼才演出家タデウシュ・カントールの芝居を見た帰り、いっしょに行った友人とふたり横浜までは同じ電車だったはずなのに、何を話したのかさっぱり憶えていない。何も話さなかったのかもしれない。それぐらい衝撃的な芝居だったということで。わたしは二度と戻らない。十六年も前の話だ。
多分にカントールの自伝的要素の入った芝居で、エピソードをつないだものだったと記憶しているが、そこは何と言ってもカントール、時間が不可逆なものであることを嫌というほど見せつけてくれた。でも、今から思えば、まだまだ理屈として時間の不可逆性について頭をガツンとやられた程度に過ぎなかった気もする。
わたしは二度と戻らない。試しに机の引き出しの奥か、鞄のポケット、あるいは箪笥のなかを少し丁寧に見てみるがいい。かつての恋人と撮ったものでなくてもかまわない。家族写真、クラスの集合写真、社員旅行のときの写真などなど、ひょいと出てくることがある。そこにわたしも写っていたりして、確かにそういう時があったと分かる。写真の下には日付まで記載されている。それなのに、しみじみとちぐはくな感じに襲われるのだ。時間の不可逆性などと知ったふうなことを思っても、こころの落ち着きは得られない。ざわざわとして、生きることはせつなく苦しい。後で知る、後でしか知れないからよけいだ。
サラ・マクラクランのアイメイクにはくらくらする。それにあの声。倖田來未は、わたしも嫌いではない(むしろ好き)し、いい年をしてと揶揄されてもエロかわいいものには鼻の下を伸ばしもするが、比較の対象にならない。というよりも、倖田來未は倖田來未。サラ・マクラクランのくらくらメイクと声に性欲情してしまうのはどうしようもない。バラード。張った声を少しゆるめ、小さくした時のやさしいふるえはどうだ。ピュアな感性が垣間見えドキリとする。落ち込んでいるときでも聴ける大事なひとり。
カメラマンの橋本さんは、手を入れて欲しいといって、自分の書いた文章をよくわたしに見せる。他社の雑誌や新聞に掲載するものであってもだ。わたしはそのことをひそかに誇りに思っている。
橋本さんの文章はいわゆる名文とは違う。それが、わたしの手にかかると、あ〜らら、見違えるようになり、志賀直哉か永井龍男、はたまた小沼丹のような手だれの文章になる、などと、たわけたことを言いたいわけではない。編集者のわたしにそんな芸はない。
橋本さんの文章は、いわゆる名文とは違うと言ったけれども、名文でないということもない。特殊な名文とでもいったらいいか。彼は、カメラマンとしての矜持とでもいうのか、律儀に見たものつかんだものしか書かない。逆にいえば、普通なら見逃してしまいそうなところを正確に見、それを書こうとする。そこには眼の論理とでもいったものが働いている。ところが、一読、何を見、どうしてそのことが眼に焼きつくほどの印象になっているのかが、書いたものからすぐに読み取ることは難しい。普通、そこまで見ないからだとも言える。それが、何度か文章を読み、手を入れていくうちに、橋本さんの眼の論理が炙り出されてきて面白いのだ。そこにはハッとする玉がある。おどろき、やりがいを感じるのはそういう時だ。やりがいがあってしたことが橋本さんに認めてもらえることがうれしいし、誇りに思うのだ。
カネボウSALAのコマーシャルが気に入って、感想めいたことをここに書いたが、あれに出てくるタレントの名前が分からない。誰だろう誰だろうと思っていたら、先日、小料理千成へ来る馴染みのお客さんがわたしの隣りに座り、雑誌を開いた。何気なく目をやると、あっ、となった。SALAのコマーシャルに登場する女性にそっくりの写真が載っていたからだ。よく知ったお客さんだったから雑誌をちょっと借りて読ませてもらうことに。沢尻エリカ、1986年生まれとある。プロフィールがいろいろ記されていたが、SALAのコマーシャルのことには触れていない。そうすると人違いか。写真で見るとそっくりなんだけどなぁ。試しにグーグルで「カネボウSALA」と「沢尻エリカ」をキーワードにしてイメージ検索してみたが、出てこない。ふむ? 謎だ。
イメージ検索でなく普通に検索したら出てきた。沢尻エリカで間違いない。