きのうはお客さんが三人あった。最初に気付くのはいつもわたし。なぜなら、部屋の一番奥、中央にわたしの机が入口方向に向いて置かれてあり、必然、ドアに嵌めこまれたガラスに映るシルエットが他のだれよりも目に付きやすいからだ。先頭きって「いらっしゃいませ」。すると、机に向かったり、パソコンに向かって仕事をしている者も一斉に立ち上がり、「いらっしゃいませ」。初めていらっしゃるお客さんは、これに驚かれることもあるだろうが、わたしはこれでいいと思っている。
どこというわけではないが、訪ねていって、「ごめんください」と言っているにも関わらず、だれも顔を上げず、しばらく無言、ようやくだれかがそばにやって来たかと思うと、「どちらさまですか」などと訊かれることが往々にしてあるからだ。あれは嫌なものだ。ばつが悪い。だから、ウチに来るお客さんにそんな思いをさせたくない。いくら仕事に集中しているからといって、「ごめんください」の言葉も耳に入らぬということはない。
お客さんが帰られるときは、「ありがとうございました」と言って、わたしが見送ることが多い。そうすると、シャチョーがそうしているのに社員が自分の仕事に没頭しているわけにはいかない。というわけで、みな立ち上がって「ありがとうございました」。
先日いらっしゃったお客さんで、ウチのそういうあいさつの仕方を褒めてくださる方がいらっしゃった。どういう教育をされているのですか、とも。教育はしていませんと答えた。こういうことはやはり、上の者のやり方を見て真似るというのが一番だろう。
編集者の窪木くんがいる。週代わりの小社トップページに名前が出るようになった。「今週はクボキがお送りいたします」。本人は控え目に、漢字でなく片仮名で「クボキ」と表記している。わたしはちゃんと窪木くんと呼んでいるが、いつの頃からか、だれ言うともなくクボッキーと愛称で呼ばれるようになった。
さて、そのクボッキーこと窪木くんだが、夏らしくバッサリ髪の毛を切ったようで、今週、涼しげな表情で出社した。頭頂部はポヤポヤッと髪が残っているが、周囲はことごとく刈り上げている。みごとだ。聞けば、バリカンでやってもらったそうだ。そうだろうと思った。
しばらくつくづく見ていた。ふむ。似ている。似ている。なんだ。ふむ。うん。アレだアレ。ホヤだ。好きな大辞林によれば、海鞘(ほや)綱の原索動物の総称。……単体で食用とするマボヤ、群体をなすイタボヤなど多くの種類がある、とある。
そう思って見ると、窪木くんの顔というか頭全体がますますホヤに見えてきた。もう取り返しがつかない。これから少しずつ髪の毛が伸びホヤらしくなくなっても、あの独特の味と共に刷り込まれた形状の魅惑を消し去ることは無理。ホヤッキー! 美味そうだ。
ベランダに鉢植えの蜜柑の木がある。自宅で会社を始めた年に買ったものだから、7年ほど経過したことになる。堆肥もやらず土も変えず水遣りするだけだから、栄養不足なのだろう、実を結ぶことはなくなった。それでも若葉の季節ともなれば、蜜柑の香りのする黄緑の葉をつけ目と鼻を楽しませてくれる。そうすると、どこからやってくるのか、決まってアゲハ蝶の幼虫が何匹も付いていて、一心不乱に若葉をむしって食べている。最初は、「なんてことするんだコノヤロウ!」と一匹ずつ取っては緑の藪の中に放っていたのだが、実をならせることが目的ではなし、十分若葉を楽しんでいるわけだから、あとはアゲハの幼虫の餌にしてあげてもいいかという気になってきた。今ではお礼参りのつもりなのか、蝶になったアゲハがベランダの付近をひらひらと飛んでいるのを目にすることがある。だから、これでいいのだ。さて、今日も暑うなるぞ。
『イーリアス日記』の著者・森山康介さん来社。『新井奥邃著作集』完結を祝ってくださり、専務イシバシ、武家屋敷、わたしの三人、すっかりご馳走になった。場所は清泉。藤原紀香が二度訪れたという伝説の(?)あの清泉だ。鰻料理中心のお店で、昼飯時に野毛坂を下り鰻を食べに来ることはあるが二階に通されたのは初めて。森山さんが予約を入れてくれていた。
創業六十年を超す老舗の部屋はしっとりと落ち着いていて、話がはずみ、箸もすすむ。森山さん、今年はオデュッセイアを読んでいるとか。会社勤めを果たしながらのことで、恐れ入る。なんたってイーリアスにオデュッセイアだもの。それも原典で。世界は広い。森山さんが初めて会社を訪ねてこられたときのことが今も忘れられない。『ダンテ神曲原典読解語源辞典』を部屋の真ん中の木のテーブルに広げページを繰っていた。版元として、大学の研究者でなければまず読みこなせないだろうと思っていたが、そうでないことをまざまざと見せつけられた。……
いつのまにか楽しい時が過ぎ、帰る時刻となって立ち上がった瞬間、ほんの少しだが甘い香りが鼻先をくすぐった気がした。階段を下りて靴を履き、女将さんに「藤原紀香さんもあの部屋で食事をされたのですか」と訊くと、「はい」。そうだったのか。すっかりいい気分になって外へ出た。森山さんのおかげです。ごちそうさまでした。
知人と話していたら、「あの娘は暗い恋愛をしているかもしれない」と真面目な顔で言うから、大笑いしてしまった。恋愛に明るい暗いの区別があったのか。あるとして、明るい恋愛というのはどうも信用できない。切実になればなるほど、明るさとは程遠いものになりがちだろう。その意味で、暗い恋愛は本気に近いかもしれない。知人には、そんなふうに言わなかったけれど。
夜、テレビを点けたら、トンネルズの番組に石田純一が出ていた。「新・食わず嫌い王決定戦」。相手は倖田來未。冒頭、石橋が石田に「最近、恋をしていますか」と訊くと、石田は石田らしく「恋は、ほら、一人でもできるから。愛は二人で作るものだけど」と言った。なるほど。
先日、カメラマンの橋本さんがTさんという若い女性を伴って来社。前からの知り合いかと思いきや、そうではなく、現像所で働く知人の紹介で、その日に初めて会い、そのまま一緒に来たとのこと。
Tさんは広島の方で、休みを利用し1週間ほど東京に出てきたという。絵を描き、俳句や短歌をものし、立体の作品も創るそうで、それらの作品をいずれ本にしたいと言った。橋本さんはいつもの橋本節で持論を力説、表現者たるもの、10年に1冊は自費で本を作るべきなのだ。本当につくりたいもの、生まれたがっているものを表現者は生み出す義務がある、云々。くりんとした目を大きく見開き、Tさんうなずいた。
ところでTさんのその日の髪型、身につけている服、アクセサリーはアメリカ・インディアンの娘を彷彿とさせたので、その印象を告げたらTさん興味を示した。『アメリカ・インディアン悲史』の話をすると、すぐに買って読みたいと言う。別れた後で彼女がつくるホームページを見たら、あの日の帰りさっそく買ったと書いてある。標準語で話していてもちょこっと語尾に出る広島弁がとても可愛く、そのことがさらに彼女のルーツがインディアンであるとの認識をわけもなく倍化させた。