帰省するための新幹線チケットを「駅ネット」で予約するという発想が端からないわたしは、FAXもなかなか信用できない。どこかでだれかもそんなことを書いておられたが、わたしも全く同様、本当に相手に届いたか心配で、なかなかFAXから離れられないのだ。機械の傍にじっと立っていると、若い社員が不審そうに見るので、しぶしぶ自分の席に戻る。が、心配でちらちらFAXのほうに目が行ってしまう。癖なんだなぁ。
飯島耕一さんの近著『漱石の<明>、漱石の<暗>』を四分の三ほど読んだ頃、BGMにかけていたアメリカ50、60年代のオールドポップスに誘われてか、うとうとし、読み掛けのページに栞をはさんで、昼の布団にもぐり込んだ。西式健康法の創始者・西勝造氏が提唱された平床寝台に興味を持ち、トーキューハンズに頼んでおいた厚さ三センチ、畳一畳分の板(重くて持ち上がらず、うんとこせっとこ引きずって寝床まで運んだ)が、午前中の配送すれすれの時刻に届き、それを敷いてあったのだ。そこに体を横たえた。二時間、いや、三時間、何のこれっぽっちの夢を見ることもなく、板なのに、それほど痛くもなく目が覚めたことがうれしくて、案外ぽかぽかと背中が温く、むっくりと起きだし、あとは、残り四分の一ほどを一気に読み切った。「明」は天、「暗」は人、と受けとってもらってもいい、と飯島さんは「あとがき」に書いてある。天はどこにある。表紙写真の漱石の顔は、これまでいろいろな場所で見知ってきた顔とは違う<暗>のそれ、人の顔だ。
今年七月に刊行された同じく飯島さんの『白紵歌(はくちょか)』の最後にこんな文章があったことを不意に思い出した。
翌朝、目覚めた時、西野鶴吉君は妙なことを考えた。「ひょっとして天は今寝ているベッドの下にあるのかも知れない。そのせいで背中のあたりが温いのかも知れない。ひょっとして天はおれの靴の中にさえあるかも知れん。天空は胎児にとっての子宮なのかも知れん」。そう思うと鶴吉君はもう一度こころよい眠りに落ちたのである。
正月とお盆くらいは、ふるさとに帰っているのだが、面倒なのはチケットを取ること。
以前はちゃんと自由席があって、ぶらっと乗った。座る席がなく4時間ずっと立ちっぱなしということもないわけではなかったが、それでも、この「ぶらっと」が良かったのだ。ところが、いつのころからか、秋田新幹線に自由席がなくなった。必然、1ヶ月前から予約を受け付けますというアレを意識して、チケットを取る必要に迫られる。これが厄介。面倒至極。まずは往きの切符。
朝、第1希望から第3希望まで書いた紙を保土ヶ谷駅「緑の窓口」に書いて出したら、すでに20番目。果たして当たるかどうか。宝クジな気分。会社が退けてから、帰りがけ窓口に顔を出したら、窓口横のガラスにチケットが取れたかどうか赤丸までしてあって、なんとか第2希望のチケットが取れていた。良かった! 親切心でそうしているのだろうが、クジに当たったみてぇに、○だの△だの×だのって、おちょくってんのか、まったく。でも、まぁ、怒っても仕方がない。ふ〜。今度は、往復の復の切符かよ。
知人Aの娘さんは小学3年生。最近家に帰ってきて、いろいろプリプリ突っかかった物言いをし、「わたし、いま反抗期なの」と言うそうだ。母親のAさん、慌てず騒がず、「へ〜、そうなの。おめでとう。そうやって○○ちゃん、だんだん大きくなっていくのよ」。娘、いたって真面目な面持ちで、「反抗期の次は産卵期、そして最後に老後を迎えるのよ!」反抗期―産卵期―老後、アハハハハ… 鮭じゃないんだから。にしても、子供っておもしれぇなぁ。ところで、○○ちゃんの絵の才能は大した物で、もう少し大きくなったら、春風社の本の装丁や挿絵に使いたいと思っている。てゆうか、産卵期を迎える頃の○○ちゃん、そんなことでは飽き足らず、才能いっぱいに次々作品を産み出して画集でも作っているかな。
11月も今日で終わり。早いですねぇ〜。いよいよ年賀状のシーズン。このごろは虚礼廃止とかで、賀状を出さないところもあるようだが、ウチは全員シコシコ書くのが年末の大事な仕事になっている。業者の方々には精度の高い仕事を要求し、その都度ガンガン文句を言っても来たが、それもこれもいい仕事をしたいが故のこと。応えてくれたことにありがとう。編集担当者が世話になった著者に書く場合もある。原稿がちょっと遅れている著者には、営業がそれとなく、そろそろお原稿いかがでしょうと促したり。いずれにしろ、感謝の気持ちをこめて、ありがとう。書く側のことで言えば、一年に一度、じっくりと相手のことを思い浮かべるいい機会だ。健康と無事を願うのは、共通した庶民の祈り。少し早いが、また来年もよろしく。ありがとう。
家の中をつらつら見ていて気になることの一つに網戸がある。数年まえ、ツーッと一箇所破れた。ベランダをいろんな猫が通り過ぎるから、やんちゃなのが引っ掻いたかと思った。が、どうもそうではない。ジャンプ力のある猫でも絶対に届きそうもない高い場所まで破れている。と見ている間に、あっちもこっちも…。
網戸というのは、日が経てば黙っていてもポロポロ破けるもののようなのだ。知らなかった。小料理千成のカッちゃんは、この辺(保土ヶ谷橋の交差点を中心に半径2キロぐらいの地域)のことならなんでも詳しいから、網戸を修繕してくれるところを教えてもらい、さっそく訪ねてみた。親切な社長さんで、「頼まれれば、仕事ですからすぐにもやりますが、季節がら、今は網戸は必要ないでしょう。網戸の網は日光に弱い。冬の日差しは結構強いから、来年の五月頃に取り替えたらいかがですか。もったいないですよ」と教えてくれた。なるほど。それもそうだ。「はい。わかりました。そうします。また改めてお願いにまいります」と言って店を出た。
と、と、と…? そうか。思い出した。あのお店、山形の工藤先生直伝のラーメンを作るのに必要な業務用のデカい高価な鍋を買った店だった。そうだそうだ。たしか定価が1万5000円。まけて1万4000円だったと思う。
毎年この時期になると、新しい手帳とカレンダーを求めるのを密かな楽しみにしていて、手帳についてはすでにここに書いた。さて、カレンダーだ。ダイニングルーム用とトイレ用と二つ用意する。昨年は、今風にネットサーフォンして、一応これだと思うものを注文したのだが、トイレ用にと思って頼んだものが大失敗。会社に届いたとき、ひとりで隠れて見ていたら、「なんですかそれ。見せてください、シャチョー。ねーねーねー、見せて見せて!」とせがまれ、本当は見せるの嫌だったのに、見せたら、一同無言! な。やっぱり。よほどダメだったらしい。誰も何もコメントを言ってくれない。ひどい。ひど過ぎる。わかってるよわかってるよ。おれだってそう思ってんだから…。
そのような痛い反省を踏まえ、今年は一念発起、カレンダーは実物を見てから買うことに。今回は、ちょっとかわい目のものにしてみた。迷わずにコレと、このヒトの。トーキューハンズで買いました。はい。