担当している原稿の校正・校閲がなかなか思うように進まない。今に始まったことではないので驚くこともないが、どう工夫してもスッキリしない一文に出合うと、睨んだまま数分、ひどい時は十分近くが経過していることも間々ある。気分転換に椅子を回転させてゆっくりと流れていく雲を見たり、ハーブを嗅いだり、爪を揉んだり、背伸びをしたりして、さあやるぞ! の気合いとともに椅子を元に戻す。気分転換が功を奏し、なんだこうやればいいじゃん、と、朱を入れることもあれば、そんなに巧くいかないこともある。
元気、活気、気力、勇気、気持ち、天気、病気など「気」のつく熟語は多い。ところで気とはそもそも何なのか。人間だけが気をもつのかといえば、そうとも言えないようだ。
ある気功師によれば、犬と猫では治療後の反応が違うという。具合の悪い犬を診、気の流れを良くしてやると、そのことを憶えていて、2回目からは診察がスムーズに進む。ところが猫はそういかず、何度でもゼロからの診察になるらしい。動物どころか植物も鉱物も気を発している。天地宇宙に気が満ちているという人もいる。気の流れが悪くなると病気になるというのは東洋的な考えかもしれない。気脈が通じるという言い方もある。
橋本深、矢萩英雄の2人展を見に行ってきた。橋本という人は初めてだが、矢萩さんとは旧知の仲。というか、多聞君の父上。版画家だ。英雄のヒデをとり、親しみを込めヒデさん、ヒデさんと呼んでいる。
ヒデさんは以前、月の輪熊をテーマに個展を開いたことがある。テーマにしたのはいいが、月の輪熊が描けずに困ったことがあったそうだ。版画家をやめてしまおうかとも思ったという。その辺の経緯を「春風倶楽部」に書いていただいた。悶々と悩んでいたヒデさんの前に、なんと、月の輪熊が現れた! 俺を描こうたってダメさ。俺を描きたきゃ山を描け。そう言って、ヒデさんの顔をベロベロ舐めたという。
今回のヒデさんのテーマは「山」。「山の記憶」と題された数枚の木版画があった。ずっとあれからヒデさんのなかに山が居座っていたのだなと思った。2人展は東横線綱島駅東口から歩いて1分のところにある「ギャラリーこやま」にて今月27日まで。
エライ人がそう言ったからとか、信頼している人に言われたからという理由から、本当には納得できていないのに、軽い気持ちでやってみる。また、腑に落ちたと納得したのに、なんやかやと理由をつけて継続することができない。ほどほどということを、わたしは上の二つことを別の言葉で言い換えたものに過ぎない気がして、なるべく避けてきた。
いくらエライ人に言われても、納得できないことはしない。納得できたことは、雨が降ろうが槍が降ろうがやりつづける。これを称してひとは頑固と呼ぶ。要するに、わたしは頑固なのだ。「ほどほど」を「いいかげん」の置き換えぐらいに思ってきた。ところがこのごろ「ほどほど」って大事だなあとつくづく思うのだ。納得しようがしまいが、そんなことあまり関係ない気がしてきた。自分のちっぽけな納得などどれほどのものか。「ほどほど」が「いいかげん」と同義でもいいではないかとも思う。「いいかげん」は「いい湯加減」などとつかわれることからしても、「良い加減」なのだろうし。ほどほどで行こうと思う。
今日は少し曇っているが、このごろ秋晴れの日が続いている。さわやかな風にあたって気持ちよく、風は通り過ぎても、気持ちよさを少しだけ残していってくれるのでありがたい。わたしの椅子の後ろにハーブが置いてあり、ときどき鼻を近づけて嗅いでみる。一瞬、なんともいえない爽やかな香りに包まれ、青空に薄い雲がたなびく景色が目に浮かぶ。風や雲や花、石からも元気をもらう。
わたしは即物的な人間で、霊とか魂とかとは無縁の人間としてこれまで過ごしてきた。今も根本はそうだと思っている。それなのに、子供の頃、外にある便所に行くのはやはり怖かった。関係ないか。
とにかく、即物的にどうにかなるさと思ってきた人間が、神秘主義的キリスト者である新井奥邃の著作集を手がけるのはどうしたものかと不思議な気がしたし、完結した今も、その気持ちに変りはない。
去年のちょうど今ごろ体調を崩し、自分が自分でないみたいな変な具合になって、息を吐き吸いして時をやり過ごしていた時間のなかで、怯え畏れながら感じたことは、いのちは機械ではないという当たり前のことだった。試しに目を閉じてみればわかる。空も海も、思い出そうとすれば何だって浮かんでくる。『新井奥邃先生の談話及び遺訓』だったと思うが、スウェーデンボルグについて尋ねられた奥邃が、彼も今はずいぶん先へ行っていることでしょうと語ったという記述が確かあった。生かされて生きるとか、一息とか、どこから来てどこへ行くのかとか、人生の意味はとか、ときどき雑誌の特集で組まれるテーマだが、恐ろしいぐらいに思う。泥の中から目だけ上向きにして見ているようで、気軽に口にできなくなってしまった。
このごろ思うことの一つに、なにごとによらず自分ひとりでやろうとすると、無理だし苦しくなる。人生七転び八起きという言葉もあるが、それにしたって、多くの人の縁と自分のではない力が働いてのことだろう。信じられるのは自分だけという若い力がみなぎる時期があってもいい。でも、今は違う。
お世話になっているマッサージの先生にいただいた「世渡りの道」に、「天地に感謝 社会に奉仕 人をうやまい わが身慎め」とある。こころはどこにある。座禅の本に、普通は結んだ両手の掌(たなごころ)の上に置くと書いてあった。そんなふうに具体的に言われるとかえって混乱してしまうが、やはりこころというものはあって、まるく潤っていることは大事だ。
