恋愛

 知人と話していたら、「あの娘は暗い恋愛をしているかもしれない」と真面目な顔で言うから、大笑いしてしまった。恋愛に明るい暗いの区別があったのか。あるとして、明るい恋愛というのはどうも信用できない。切実になればなるほど、明るさとは程遠いものになりがちだろう。その意味で、暗い恋愛は本気に近いかもしれない。知人には、そんなふうに言わなかったけれど。
 夜、テレビを点けたら、トンネルズの番組に石田純一が出ていた。「新・食わず嫌い王決定戦」。相手は倖田來未。冒頭、石橋が石田に「最近、恋をしていますか」と訊くと、石田は石田らしく「恋は、ほら、一人でもできるから。愛は二人で作るものだけど」と言った。なるほど。

深呼吸

 このごろどうも空気が薄い。子供のころ、あんなにいっぱいあった空気が空に拡散してしまったのか、地球温暖化とやらでそうなってしまったのか分からないが、空気が薄くなったことは事実だ。それとも、わたし自身の問題か。いずれにしろ、深い森のなかへ入って深呼吸する必要がありそうだ。好きな長田弘の詩集に『深呼吸の必要』がある。

くりん

 先日、カメラマンの橋本さんがTさんという若い女性を伴って来社。前からの知り合いかと思いきや、そうではなく、現像所で働く知人の紹介で、その日に初めて会い、そのまま一緒に来たとのこと。
 Tさんは広島の方で、休みを利用し1週間ほど東京に出てきたという。絵を描き、俳句や短歌をものし、立体の作品も創るそうで、それらの作品をいずれ本にしたいと言った。橋本さんはいつもの橋本節で持論を力説、表現者たるもの、10年に1冊は自費で本を作るべきなのだ。本当につくりたいもの、生まれたがっているものを表現者は生み出す義務がある、云々。くりんとした目を大きく見開き、Tさんうなずいた。
 ところでTさんのその日の髪型、身につけている服、アクセサリーはアメリカ・インディアンの娘を彷彿とさせたので、その印象を告げたらTさん興味を示した。『アメリカ・インディアン悲史』の話をすると、すぐに買って読みたいと言う。別れた後で彼女がつくるホームページを見たら、あの日の帰りさっそく買ったと書いてある。標準語で話していてもちょこっと語尾に出る広島弁がとても可愛く、そのことがさらに彼女のルーツがインディアンであるとの認識をわけもなく倍化させた。

カネの時代の豊かさ

 小社から『ナショナリズムと宗教』を刊行している中島岳志さんが、彼のブログで『新井奥邃著作集』を取り上げてくださった。ありがたい。しかも、ポイントを押さえつつ、誰もが興味を持てるよう分かりやすく紹介してくれている。奥邃の文章は漢文調で今の人には難しいけれど、中島さんの解説により動機づけされながら、ぜひ奥邃の文章に就いてもらいたいと思う。
 今の時代はカネ、カネ、カネ。法律に触れる犯罪を犯したにもかかわらず、「ぼくを嫌いになったのは、ぼくがむちゃくちゃカネを儲けたからでしょう。カネを儲けることは悪いことですか」とカメラの前で居直る輩もいる。傲慢にもほどがある鼻持ちならない発言だが、先行き不安でつまらない日常を考えれば、あながち的外れとばかりは言えないかもしれない。ただ、いくらカネを積んでも(それほどのカネを見たことはないけれど)、額が大きくなればなるほど、虚無の臭いは消せない。
 聖書の中に「貧しい人は幸いである」の言葉があるが、奥邃は貧しさの中の豊かさを本気で生きた人だ。こんなエピソードが残されている。奥邃の住む謙和舎に泥棒が入った。ところが盗むに値するものが何もない。気の毒に思った泥棒が、持っていた物をその場に置いていった。また、何をして暮らしを立てているのか不審に思った警察がやってきて、奥邃に「あなたは何で生きているのですか」と尋ねた。すると奥邃は、「だれも殺すものがいないから生きているのです」と答えたそうだ。
 奥邃は墓も作るなと言ったぐらいの人だから、本を残すことなど思いもよらなかっただろう(謙和舎を訪れた人に配ったパンフレットには「投火草」と書かれたものもある。読んだら火にくべろ)。しかし、今の時代がカネ、カネ、カネの時代であるとするならば、奥邃を読むことで力を得、つまらない世の中を少しでも楽しく豊かに暮らしたいと思うのだ。

不思議な魅力

 コール先生と一緒に『新井奥邃著作集』を監修してくれた工藤正三先生から何度か聞かされたことで印象に残っている言葉がある。「これだけ近づいたかなと思うとまだ遠い。さらに近づいたかなと思うと、また遠くなる」奥邃についての感想だ。
 工藤先生の親戚筋にあたる工藤直太郎氏は2000年に106歳で亡くなられたが、謙和舎で奥邃と共に暮らしたこともあり、青山館という出版社(今はない)から『新井奥邃の思想』、『内観祈祷録』(奥邃のInward Prayerの翻訳)を上梓している。工藤先生は、2冊の本の編集・出版に関わる頃から奥邃の文章に親しんで来られた。奥邃読みとしては第一等の先生がふと洩らした言葉だけに、不思議な気がしたものだ。
 斯界の泰斗、谷川健一先生や飯島耕一先生も奥邃の不思議な魅力を感得されたようだ。その魅力は、現代とこの先の世界を照射している。まずは、直に奥邃の文章に触れてほしい。

チェーン店

 桜木町駅近くにあったカレーのチェーン店が先々月ぐらいだったか、突如なくなった。たまたま最終日に食べに行ったら、中で働くおばさんたちも戸惑いを隠せない様子で右往左往。聞けば、突然本部から閉店するとの通達があったらしい。
 そのお店、本店が京都にあるチェーン店で、味がよく、値段もリーズナブル。週に一度は食べに行っていた。行くたび捺してもらうスタンプが10個たまるごとに300円引きになるサービスを受けること数度。それがなくなって、また新たな店を開拓しなければと思っていた矢先、先のカレー店が別のカレー店になっていた。聞けば、こちらもチェーン店だとか。熾烈な争いの結果か。とにかく、行ってみることに。
 内装ががらりと変わっている。広さは同じなのに雰囲気が前とはまったく異なる。問題は味。シーフードカレーを頼んだのだが、なかなかの味で、値段も850円とまあまあ。カウンターに座って食べていたら、見覚えのある婦人が旦那さんであろうか、初老の紳士と一緒に店に入ってきた。前のカレー店で働いていたおばさんだった。あいさつすると、ちょっと複雑な笑みを浮かべ、「桜木町に用事があって…。一度来てみようと思っていたの」と言った。
 静かにカレーを食べているご婦人と紳士にあいさつをし、勘定を払い、店を出た。

惜しむ

 やっぱり。キーボードで試しに「おしむ」と入力すると、最初に「惜しむ」と変換される。音で「おしむ」と聞いて「惜しむ」の意味を思い浮かべる人は多いだろう。そのことを踏まえてに違いない。
 昨日のことだ。出社の折、紅葉坂の途中にある店の外に置かれたラックに入って、スポーツ紙が風に揺れていた。見るともなくひょいと見たら、「オシム、全力を尽くす!」の文字がでかでかと踊っている。サッカーのことはあまり知らないけれど、日本チームの次期監督が、今のジーコに代わりオシムになることぐらいは知っている。「オシム」と片仮名で書けば人の名前と分かるが、音の「おしむ」からはどうしたって「惜しむ」を連想してしまう。そこで「全力を尽くす!」の可笑しみが生じるというわけだ。記者も、そう考えて見出しをつけたのだろう。
 オシムさんが監督を務める期間中、いろんなところで「惜しむ」に引っ掛けたダジャレ的タイトルが飛び交うことになるだろう。本人にしてみれば、いい迷惑。だって、これからいくら全力を尽くし頑張っても、尽くしても尽くしても、名前がオシムなんだもの。