不思議いっぱい

 来月十一日に「田中正造と新井奥邃に学ぶシンポジウム」が開催されることになり、ふたたび自分の人生を振り返り、何度も言っているから耳だこの人もおありだろうけれど、不思議なもんだなあとつくづく思うのだ。本当は『新井奥邃著作集』全巻完結を祝し! とでもなれば営業的に最高だったが、そこはそんなに上手く運ばなくて、新しいパンフレットを用意するだけとなった。
 新井奥邃を知ったのは大学三年生の時。林竹二の『田中正造の生涯』(講談社現代新書)の中。同じ頃、友人から『ことばが劈かれるとき』をもらい、竹内敏晴の名を知った。だいたい奥邃の「邃」の字、読めなかったし書けなかった。「すい」と読み「深く穴をほる意」。
 林竹二の本を読み、授業の写真を見、教師になりたいというよりも、林先生がやったような授業をしたくて教師になった。授業を少しでもリアルなものにしようとの意図から竹内演劇研究所に通いもしたが、三十で学校を辞め、研究所で知り合った友人の誘いもあり、東京の出版社に入った。そこで丸十年。復刻が中心の学術系出版社だった。
 入社二年目に、永島忠重が編集した『奥邃廣録』の復刻を企画として社長に話したら、「おれが知らないような人物の本が売れるはずない」と言下に言われた。お願いします、お願いします、お願いしますと三拝九拝、百姓が年貢の高を下げてもらうべく切実、懇願するように食い下がり、やっと了解を得て本にした。すると、五万五千円のセットが一ヶ月で三〇〇セット完売、すぐに増刷! 復刻で増刷はなかなか珍しかった。個人で二セット買ってくれた人もいた。プロジェクト・エ〜〜〜〜ックス! てか。ほんとそんな感じだったよ。
 本は売れ、社長には可愛がられ、また何よりも、奥邃の文章を初めてじっくり読むことができた。その仕事の関係から、以後ずっとお付き合いいただくことになる新井奥邃記念会の幹事・工藤正三先生とも知り合うことができた。
 こんなふうに書いてくると『新井奥邃著作集』を出すために出版社を起こした、と言うことができるかもしれない。実際、営業の石橋はそう言っている。けど、そう言い切られると少しビビる。いや、かなり。なぜなら、勤めていた会社が倒産し外へ投げ出された時、安い料理屋の二階で石橋と写真家の橋本照嵩と三人飲んでいて、さあどうしたものかと考えあぐね、しばし時が経ち、不意に思いついて「会社つくっちまおうか!」となって作った会社だからだ。こころざし一本愛情一本で作ったわけではない。だから「『新井奥邃著作集』を出すために」とやられると、こそばゆい。真面目な顔を押し通せない。通りが良さそうなときは、こそばゆさを我慢しつつ「はい。そうです」と踏ん張ってはいるが…。
 そういう経緯をつらつら考えると不思議だなあと思うのだ。でも、それがリアルな現実かとまた一方では思う。読者が少しずつ広がって、今年は遂に、和漢洋なんでも来いの詩人・飯島耕一さんが『江戸文学』で奥邃を紹介してくださった(『著作集』最終巻月報に執筆してくださることが決定! 有難し!)。出版人冥利に尽き、喜びに打ち震えている。この本を出すために、おいらのこれまでの人生は用いられたのだと、旭日を拝みながら感慨に耽ることもある。気が満ちている時は特にそうだ。