昨日この欄に「おらいの先生」という題で日記を書いた。写真家の橋本さんに頼まれ、出力し、橋本さんはそれを「おらいの先生」の息子さんにFAXした。
わたしは日記で「おらいの先生」について、「地元石巻市で名医の誉れ高かった清佶(せいきち)さんの家族写真がある。」と書いた。それを読んだ息子さんが橋本さんに「うちの親父は、名医というよりも良医という感じではなかったか」のコメントを電話で洩らされたとか。なるほど。わたしはそこに身内だからこそ感じ取るニュアンスの違いがあることを思い知った。
「名医」も「良医」も辞書で調べれば、すぐれた医者、ということになる。が、文字通りの意味としては、「名医」は名のある医者、「良医」は単純に良き医者だ。名のある医者になるためには良き医者であることも必要かも知れぬが、それだけでは済まないこともあろう。また極端な話、良き医者でなくても、他の条件を積み重ねることによって名医にのし上がることも可能かも知れぬ。本人に確認したわけではないから間違っているかもしれないが、「おらいの先生」の息子さんが「名医」でなく「良医」と言ったことの中に、「清佶っつぁん先生」に対する情愛がしみじみと込められているような気がして、こういうことは大事にしなければならないと思った。
そんなわけで、昨日の日記、「名医」を「良医」に訂正させていただきました。
写真家の橋本照嵩来社。写真集『北上川』のキャプションについて相談し、適宜位置を決め、武家屋敷にパソコン上で処理してもらう。
今回の写真集は、写真家橋本が故郷「北上川」を半世紀かけて撮ったものであり、私的な写真も数点含まれている。中に、地元石巻市で良医の誉れ高かった清佶(せいきち)さんの家族写真がある。他の写真に埋もれるようにひっそりしていると思ったら、写真の中の空気と人物がきのういきなり動き出した。
家族四人の表情、たたずまいがなんとも自然。清佶さんの人の良さが目元、口元に現れており、父のあぐらに抱かれた娘さんのくすぐったそうな喜びあふれる笑顔はネズミ花火のようでもあり、それを見遣る慈愛に満ちた母のほほえみはどんな女優も敵わない。息子はポカーンと乾パンみたいなものを目に当て安心しきって遊び、なんだかいかにも男の子っぽい。時間が経っているのに、家族というのはこういうものと静かに圧倒的に語りかけてくる。
子供たちの母はかつて銀座コロンバンの看板娘として働いたことがあるそうだ。美人の誉れ高く、道行く人にたびたび声をかけられたが、結局幼なじみの清佶さんと結婚し病院を切り盛りして来た。あぐらの中の娘さんは現在看護婦長、乾パンを持つとぼけた幼子は立派な医師になっている。それにしてもこの写真、四十年の時を超え語りかけてくるのはなぜなのか。写真家がポッと訪ね「撮らせてください」と言って撮れる写真ではない。家族四人とも実にリラックスしており、プロのモデルでもないのにどうしてこういう表情ができるのかと不思議。ヒントは清佶さんの呼称にありそうだ。
清佶さんのことを地元の人は親しみを込めて「おらいの先生」「清佶っつぁん先生」と呼んでいた。もちろん後にプロの写真家になるはずの若き橋本も。そういう関係がこの写真からほの見える。見れば見るほどいい写真、こころとこころの通いあいがくっきりと見える写真だ。故人になった清佶さんを偲んで、年に一度のゴルフコンペが今も開かれている。
この二月から窪木君というアルバイトの学生が会社に来ている。紅葉坂を上る窪木君を後ろから見ていて、ふと、寺山修司を思い出した。そのことをあるとき窪木君に告げたら、窪木君は寺山が好きなのだと言う。あこがれだと言う。窪木君は千葉県出身。それならというので、窪木君に「今日から君は窪木君ではなく、千葉修司!」。以来、ぼくは窪木君を本名で呼ばずに千葉修司と呼んでいる。このごろだんだん呼ばれ慣れてきたのか、千葉修司は「千葉修司!」と呼ばれると「はい!」と返事する。アハハハハ…
ぼくは「千葉修司」の音が大好きだ。どう言ったらいいか。「ちばしゅうじ」をちょっぴりデフォルメし「ちばっ、しゅうううううううじ」あるいは「ちばっ、しゅうううううううじぃいいいいいっ!!」とやる。わけもなく、なんだかとっても楽しい。今はどうか知らぬが、昔、バスケットシューズのことを略してバッシュと言った。バッシュ。それに「ち」を付けると「ちバッシュ!」。おもしれえ!!
仕事に行き詰まったり、退屈したりしてくると、ひとりで「ちばっ、しゅうううううううじ」あるいは「ちばっ、しゅうううううううじぃいいいいいっ!!」。すると、向こうのほうから千葉修司が「はい!」といい返事を返してくれる。この頃はぼくの遊びがだいぶ分かってきたらしく、遊びだなと思ったときは千葉修司は返事をしなくなった。そうなればなったで、むむ、おぬしなかなかやるな千葉修司。「ちばっ、しゅうううううううじ」あるいは「ちばっ、しゅうううううううじぃいいいいいっ!!」。際限がないのである。
きのう、亡くなった祖母が夢に出てきた。まだ七月だから帰ってくるのがちょっと早い。正月とお盆はこのところ故郷で過ごすことが多く、今回も既に新幹線の切符を取った。わたしの性格からして予約チケットなど取りたくないのだが、「こまち」には自由席がないのだから仕方がない。
お盆にはご先祖さまの霊が帰ってくる。それは民俗学のテーマかもしれないが、学問とは関係なく直やかにこころに想起される。田舎に帰り、歩いて行くこともあれば面倒臭くてクルマでわっと行くこともあるけれど、墓参りへ向かう途中途中で目にする家並みは、屋根や壁は新しくなっていても位置まで変わったわけではなく、なつかしい。また、一年に一度の霊を迎える儀式に臨み、静かに華やいでいるようにも見える。玄関先から猫のように子供が飛び出してきて、見れば、昔この辺で見かけた子に似ていると感じることもしばしば。同級生の子ならもっと大きいはずだから、そのまた甥っ子、姪っ子でもあろうか、それでなければ幼くして亡くなった死者の霊かも知れぬのだ。
お盆には花火。同級生と語り合ったり親戚一同集まってのドンチャン騒ぎはまさしくこの世の花火で、盃の縁にも霊は宿っている。終ればシーンとした闇の中で大人しく眠りにつくしかないけれど、霊を迎えることでこころに甘い蜜が注がれたように思えるのは、ただ気のせいばかりとも言えない。酔いは一層まわり眠りはさらに深くなる。そういうことは誰も口にしないけれど、ずっと村々家々に引き継がれていて、朝起きて夜眠るまでのつとめを一年、今日も一日、元気でつつがなく果たすための原動力になっているに違いない。
さて祖父は。生前と同じにちょいときざな帽子を被り、軽装な身なりで帰ってきては「お、帰ってきたか」と反対に、きっと声をかけてくれるだろう。最晩年、「おまえはすこし酒を飲み過ぎる」と注意されたことがなつかしく、今となってはありがたい。
写真集『北上川』の編集のため橋本照嵩さん来社。B5判208頁に収める写真と並び順がほぼ決まり。
床いっぱいに並べられた写真に見入っているうちに、現在の時間の中で写真を見ているのに、なぜか逆転現象が起こり、そういう言い方でいいのか分からないが、いわば「写真の時間」に引きこまれていく。写真の力によって写真と「私」の関係が変容していくようなのだ。
おとといのことだから日曜日だ。夕方買物を済ませて坂道を登っていたら、数メートル先を猫がゆっくり歩いていた。いたずら心が湧き、ミャーとやってみた。表記は「ミャー」と書くしかないが、猫は「ミャー」とは鳴かない。烏も「カー」とは鳴かない。動物の鳴き声は母音で始まる。それはともかく、わたしの下手な鳴き声を聞いて猫が振り向いた。なんだかうれしくなる。ちょっとこっちを見、それから元へ戻って歩きはじめる。わたしはまたミャーとやる。猫は振り向く。猫とわたしの距離が近づいたので、わたしはいろいろ声音を変えて鳴いてみた。猫は歩くのをやめ、ちょこんと道に座ってわたしのほうを見ている。あの目。
どれぐらい時が経ったろうか。横の藪から子猫が母猫を促すように這い出してきたのが見えたのをさかいに、わたしのほうが先に立ち上がった。猫の目をじっと見ているうちに周りの風景が暗く背後に退いたのは夕刻のせいばかりとは言えない気がした。
名前も知らない猫との短い蜜月はいろいろなことをわたしに考えさせてくれたが、橋本さんの写真を見ているうちに同じような感覚にとらわれる瞬間があった。写真の中の馬が蹴った泥が撥ねてわたしの鼻の下に飛んできた気がしたものだ。馬の目。すべては関係性の中にあると言ったブーバーの言葉を不意に思い出した。
知人からおもしろいサイトを教えてもらったので、さっそく「お気に入り」に追加。
AZOZというサイトで、世界の三面記事を日本語で紹介している。翻訳もそれらしくしてあるから、よけい笑える。記事の見出しだけ見ると、本当かよと疑いたくなるが、写真付きのものもあり、「世界は広い」の教訓を思い出さざるを得ない。さっそく雑学の唐沢先生に教えてあげなくちゃ。すでにご存知か。
最近エントリーされたものから見出しを拾うと、
◆生徒と関係を持った女性教師、「牢獄に入れるにはセクシー過ぎる・・」と弁護士が主張
◆僧侶に噛み付いたキングコブラ、何故か血を吐いて即死
◆ドアをノックして人を騙すことを覚えたクマ
◆ストリッパーに好きな服を着せ、好きな角度と距離から眺めるPCゲーム「ドリーム・ストリッパー」
◆ポテトチップスを一日15袋、3年間食べていた女性、死にそうになる
◆トイレに入った少女、便器の中からこちらを見ている男の顔を発見して驚愕
◆「飲み込んでしまったカギ」のレントゲン写真を見て複製に成功した鍵屋さん
◆湖で泳いでいた少年、カミツキガメに股間を噛まれる
◆「おはよう!」と通行人に声を掛けただけなのに、「なんだテメェ、ケンカ売ってんのか!」と59歳男性ボコボコにされる
◆お釣りを落としてしまったマクドナルド従業員、問答無用で女性客にぶん殴られる
◆究極の「女性用性具」を開発した発明家、女性テスターを募集中
◆16歳の少年、足元のヘビを撃ち殺そうとして自分の足を撃ってしまう
◆空からアディダスの靴だけ履いた「切断された足」が庭に落ちてきて先生驚愕
◆「ハンマーを手に取れ!さあ、やるんだ!」との声が聞こえ、自ら頭に釘を打つ男
◆23歳女性、睾丸を強く握り締めながら二度目を強要・逮捕される
ね。読みたくなるでしょ。テレビでもときどきこの手のニュースを流すことがあるが、テレビに比べ最近のものが多く、文字から想像する楽しさもある。仕事に疲れたときや休憩時間にいかが。
ちなみに上にあげた最後の「23歳女性」云々の事件、まさか写真は載せていないだろうと思ってクリックしたら、事件の写真ではないが、実に馬鹿っぽい写真が載っていた。
嫌っていたわけではないが、なんとなくこれまで接する機会を逸してきたものの代表が、お能とモーツァルトと池波正太郎。
お能については、先週、梅若猶彦さんが来社され、親しくお話をうかがうことができ、とても楽しかったから、これから積極的に観てみようと思う。
モーツァルトはどうか。モツレクというぐらいで、レクイエムを聴けば、あとは、ま、いいことにしよう。そう思ってきた。思い当たる原因はある。小林がいけない。セレス小林ではない。小林秀雄だ。あんなふうに、天才、天才、曲を書いたのも天才なら聴く側も天才が求められるみたいに言われると、どうしたって怖気づいてしまう。ふーんだ。おら天才じゃないもーん。モーツァルトなんか知らなくたって生きていけるもーん。究極の開き直りでこれまできたのだ。が、ここに来て、ホグウッドの古楽器・小編成によるモーツァルトを聴き、ぶったまげはしないが、ん! と身を乗り出すぐらいには驚いた。ストリングスのなんと可憐なことよ!
池波正太郎。『鬼平犯科帳』、文庫で全巻買ってはあった。『大菩薩峠』を読破し、天狗になったとでもいうのか、『鬼平犯科帳』ぐれぇすぐに読めるだろうと高をくくって読み始めた。まではいいが、全然すすまない。面白くない。てゆうか、テイストが『大菩薩峠』と『鬼平犯科帳』ではまったく違う。あたりまえだ。『大菩薩峠』の印象が強烈であったせいだろう、『鬼平』の面白さになかなか触れ得ない。ところが先日(かなり前)NHKで、作家の山本一力さんが池波正太郎を紹介する番組があり、また山本さんの語り口が淡々と味のあるものだったので、気をとり直し肩の力を抜いて再度読んでみることにした。と、面白い! おもしろいではないか。ふーん。そうか。そういうものか。なんの世界でも、きっかけ、モチベーションがないとなかなか入っていけないものと思った次第。