第二の心臓

 知人からサポートハイソックスをいただいたので、さっそく試してみる。ゴムがきつく、足先から少しずつ足首のデコボコに沿わせながらゆるゆると引き上げていくと、膝の上までくる。そこで折り返しふくらはぎのところで二枚重ねにする。むかし陸上部だった頃、筋肉を保護し補強するためサポーターをしたものだったが、往時の感覚がにわかによみがえり、気持ちまでキュッと引き締まった感じだ。
 穿くのに他の靴下なら両足5秒とかからぬところ、かなりの時間と慎重さを要したが、靴を履き実際に数歩あるいただけで違いは歴然! 夢の中で走るとき妙に自分の脚が軽く感じられることがあるが、あれに近い。サポーターと同様、血行をよくしリンパをほどよく刺激してくれるのだろう。
 足は第二の心臓とか呼ぶそうで、健康にあまり気をつかわないわたしもヘルスボードという足裏マッサージ器ぐらいはたまに使っている。硬いゴムのボードに足の輪郭が書いてあり、ここは心臓、ここは肝臓などと、効くところを図示し、凸凸凸凸凸…と、小粒なもぐらたたきのような突起がついた例のものだ。
 それはともかく、サポートハイソックス。前日の寝不足で、昼食後いつものように眠くなるのかと思いきや、意外にもシャキッと夜まで仕事ができた。説明書に「脚のむくみや疲れを和らげ、キュッと引き締めます。デスクワークで脚のむくみが気になる方、立ち仕事の方、旅行などで歩く事が多い時などに最適です」とあるから、効能書きどおりの効果があったのだろう。熟睡できたし、目覚めもいい!
 いいとなったら、もはや手放せない。ちなみにこの性格、亡くなった祖父がやはりそうだった。毛布も枕もチャンチャンコも、破れるまで、破れたらツギを当ててまで、そこまでしなくてもと思うほど律儀に使っていた。また、気に入った酒となると、身内のものにも飲ませたがらなかった。血は争えない。

自分

 自分で自分を見たものは、いまだかつていない。思想家だって哲学者だって。鏡に映った自分や写真に写った自分を見ることはできても、他人を見るように自分を見ることはできない。視神経を傷つけぬように眼球を顔から引っ張り出し、くるりと回転させるとか、そういうSFじみたことでも考えないかぎり無理だ。ちょうど、眠りにつく瞬間を確かめたいと思った男が、ここから眠ると思っているかぎりはまだ眠っていないのと同じく、また、死後のことをだれも知らないのと同様に。
 鏡や写真にうつる「自分」を見ることはできても、自分で自分を見ることができないのは、もどかしいようだけれど、うれしくもある。なぜなら、自分に対しては目をつむっているようなものだから。
 そうなると、目によってでなく自分を見る別の目を意識せざるを得ない。「こころの目」という言い方がある。見ることのできない自分を内側から見る目、とでもいえようか。もうひとつは他人の目。比喩としての「こころの目」が内側なら、他人の目はいわば外側だ。双方ぶつかったところで、自分に亀裂がはしり、壊され、時に和解し、おののきつつも輝く祝祭になることもあろう。そうなると、着ている皮袋は問題でなくなる。変わり得る瞬間がおとずれ、岐路に立たされる。

横は浜

 小社情報誌「春風倶楽部」第11号の特集は「横浜」。土地の名は、地誌とは別に、人それぞれ特別の意味があるのだろう。それをお聞きしたい。昨日、原稿依頼文の発送を終えた。
 会社を起こすとき、横浜にしようかどうしようか少しは考えたが、いきなり事務所を借りるよりも、まだこの先どうなるのか分からないのだから、とりあえず、わたしの自宅でいいではないかということで仲間を説得、あまり深くも考えず、今日に至っている。が、5周年が過ぎ、6年目に入り、そうとばかりも言っていられなくなった。
 わたしが住んでいる山のふもとには、かつて遊郭があったそうで、なにやら因縁話もあるというから怖くなり、山の上もそうなのかと人に訊いたら、因縁話もなにも、あそこはつい先だってまでけもの道で、ひとが住んでいないのだから、そんなのあるわけございません、とのことで拍子抜けした。
 会社のある桜木町紅葉ヶ丘には奉行所跡がある。かつてはここから浜を訪れる船の帆が見えただろうか。絹に関係した歴史がこの街の構図をつくったのだろう。きょう行く船木歯科のすぐ近くにはシルクセンターがある。まだ入ったことはない。眼がだんだん足下を向くようになった。われながら喜ばしいことだと思う。小中学校時代、暗記するだけの地理が大の苦手、嫌いでもあったから。

竹内さん踊る

 演出家の竹内敏晴さん、来宅。前回いらっしゃった時、バド・パウエルの「テンパス・フュージット」を聴いて涙を浮かべ、わたしもナイトウも、どぎもを抜かれたことはすでにここに書いた。
 まずからだが生きている竹内さんに、ぜひ聴いてほしい人がいた。それは、ヌスラット・ファテ・アリ・カーン。惜しくも1997年に亡くなっているが、パキスタンにおけるカッワーリーの国民的歌手として世界に名を馳せた。今でもファンは多い。
 『究極のパリ・コンサート(1)』の4曲目「マンカバト」をかける。曲が終わるや、竹内さん、おもしろいね、おもしろいね、念仏踊りもかつてはこうだったんじゃないのかね、底抜けに明るいじゃないか、こうだもんな、と仰り、両腕を振りまわし躍りはじめた。映像でなく音だけ聴いているのに、竹内さんの躍りはカッワーリーを歌うものたちのそれ、特にヌスラットの上半身の動きそのものだった。からだの精密な感じ分けに、いつも驚かされる。
 シーフードカレーをお代わりしてくださったのはうれしかった。

定義づけ

 街へ出かけてふらりと本屋へ寄り、適当にどのコーナーでも回って、へ〜、こんな本が出ていたのかと目の前の本に手を伸ばすとき、タイトルと装丁、帯の惹句が決め手になることが多い。
 新しい本を手にするとき、タイトルは、いわば世界を新しく定義し直すことの名称であると予感させ、数頁めくり、その予感がさらに高まるようなら買う。
 そうやって読んだ本により定義しなおされた言葉は、やがて自分のなかに仕舞い込まれ、次にその言葉を口にし目にするとき、以前とは違った新しいニュアンスと意味が加わっていることになる。
 「知覚」という言葉を聞くだけで、細胞のひとつひとつが生き生きと活性化してくるような気がするのは『知覚の現象学』を読んだからだし、「故郷」という言葉にまつわるある種のなつかしさと怖さは、記憶違いでなければ、旧家の庭にある開けてはいけないとされていた祠をつい開けてしまい、中から出てきた白い煙に引き寄せられ、見とれ、その時ひばりがピーと上空で鳴かなければ気がちがっていただろうという『故郷七十年』なしには考えられない。新しいところでは、「グロテスク」の定義は、わたしの中で、桐野夏生『グロテスク』によって書き換えられた。
 ひとつの言葉の公約数的定義は辞書をひけばわかるが、ひとりひとり異なる定義づけは、読書を含む体験によってなされ、そういうニュアンスの違いを聞き分けることは楽しく、生きてあることの喜びさえわいてくる。

物忘れ考

 われらが武家屋敷ノブコがみずからの物忘れの激しさに驚き、呆れ、そのことをコラムに書いているが、わたしに言わせれば、その程度の物忘れは物忘れとは呼ばぬ。たとえば傘なら、自慢ではないが、わたしがこれまでに忘れた数は二桁では済まぬはず。お盆と正月秋田へ帰れば、母からは今も、席を立ったらもう一度振り返り忘れ物がないか確かめてからその場を離れなさいと教えさとされる。変なところで三つ子の魂を堅持しているというわけなのだ。
 一番かなしかったのは、高校生の時に付き合っていた同級生が一年アメリカに留学し帰ってくるとなったとき。わたしのほうは彼女が不在の時間で勝手に気持ちが大もりあがり、対して彼女のほうはといえば、新天地で日本を脱ぐように日々の新しい体験に打ち震えていたのであろう。その落差は、手紙の返事のスピードと内容のそっけなさに歴然と現れていた。
 いよいよ帰ってくるとなった日に合わせ、わたしは服を新調した。ズボンの丈も合わせ、よしこれでバッチリだ、準備万端。彼女の家に電話したら母親が出て、まだ帰ってきていないという。日本には着いたはずだが、秋田にはまだだと。そうですか…と公衆電話の受話器を置いたものの、我ながら相当落胆していたのだろう。新調した服の入った紙袋をすっかり忘れてしまった。駅のホームに入ってから気付くという間抜けさ。息せき切って戻ったが、けむりがでるぐらいにそこには何もなかった。
 それからしばらくして、秋田の千秋(せんしゅう)公園で彼女に会った。服はもちろんありあわせのものを着ていくしかなかった。予兆どおり、彼女に会ったのはそれが最後だった。

花見

 小社があるのはビルの3階、ベランダに出ると三方の景色が自在に楽しめる。富士山も見える。
 わたしがいるのは窓際の席なので、疲れて椅子をくるりと回すと、ベランダに出なくても今なら道を挟んだ対面、職業訓練校前にある桜がきれいだ。きのうはけっこう風が強く、遠目にも桜が散って花びらが風に舞った。花吹雪というほどではないが、ハラハラハラと、というよりはもう少し量が多く、つい見とれてしまう。
 ベランダに出てみる。目に映る桜の木よりもベランダの位置は高い。それでも、花びらの幾つかは地に落ちずに、高く舞いあがりこちらまで届くものがある。ようやく芽吹き始めた盆栽の横にたどり着いて休んでいると見えないこともない。会社総出で花見をしたことはないけれど、ひとりで楽しむ花見も悪くない。