自分

 自分で自分を見たものは、いまだかつていない。思想家だって哲学者だって。鏡に映った自分や写真に写った自分を見ることはできても、他人を見るように自分を見ることはできない。視神経を傷つけぬように眼球を顔から引っ張り出し、くるりと回転させるとか、そういうSFじみたことでも考えないかぎり無理だ。ちょうど、眠りにつく瞬間を確かめたいと思った男が、ここから眠ると思っているかぎりはまだ眠っていないのと同じく、また、死後のことをだれも知らないのと同様に。
 鏡や写真にうつる「自分」を見ることはできても、自分で自分を見ることができないのは、もどかしいようだけれど、うれしくもある。なぜなら、自分に対しては目をつむっているようなものだから。
 そうなると、目によってでなく自分を見る別の目を意識せざるを得ない。「こころの目」という言い方がある。見ることのできない自分を内側から見る目、とでもいえようか。もうひとつは他人の目。比喩としての「こころの目」が内側なら、他人の目はいわば外側だ。双方ぶつかったところで、自分に亀裂がはしり、壊され、時に和解し、おののきつつも輝く祝祭になることもあろう。そうなると、着ている皮袋は問題でなくなる。変わり得る瞬間がおとずれ、岐路に立たされる。