日曜日、遅めに起き出し歯を磨きトイレに行き、柿の葉茶を煎れるなどしてボーとしているうちに昼近くになったので、初動がおかしい自分の体に鞭打って保土ヶ谷駅へ。電車で出かけるわけではない。駅ビルに食べ物屋が集中しているので、食事を作るのが面倒なときは、よく食べに行く。うどん屋に入り、中華風冷やしうどんと大豆ごはんの定食。900円也。店を出てFスーパーで買い物。蜜柑、りんご、レモン、ごま豆腐、秋刀魚。昼はまだ暑いが、朝晩の風はもう秋だ。

梅雨でもないのに

 ここ二日、出掛けに雨が降っていたから、おっくうだけど傘を差さなければならなかった。ところが二日とも昼にはもう晴れて、夕方はきれいな夕焼けまで見えていたから、面倒臭いので、傘を会社に置いてきた。今度は反対に、朝は晴れていて夕刻から降り出せばちょうどバランスがいいわけだが、そんなにうまくはいかないだろう。テレビをつけたらアンガールズが出ていて、ニ泊三日の列車の旅で十個の駅弁を食べ歩くという番組をやっていた。紅いジャージと青いジャージがあんなに似合うのは、アンガールズの二人を置いて他にはいないだろうと思われた。今日は曇り。

ニュアンス

 営業のマサキさんが初めてトップページに書いてくれた昨日の記事中、ふさわしい絵文字が適所に配されていたので、絵文字かわいいねと告げたら、「ありがとうございます」と。わたしはマサキさんのこの「ありがとうございます」が好きで、彼女は嫌だったかもしれないが、入社以来何度となく、本人の前でも真似し、そのニュアンスをつかもうと躍起になった。
 たとえば――
 わたしに三つ下の妹がいるとする。わたしと同じ田舎育ちなのに、妹はアケビやタンポポやアサガオの花には目もくれず、小さい頃から鮮やかな紅いバラの花が好きなのだった。彼女が小学四年生のときだから、わたしはすでに中学生。少し色気づいてきたわたしは、妹の誕生日に彼女の好きなバラの花をプレゼントしようと思い立ち、隣り町の花屋に出かける。わたしの村に花屋はなかったから。自転車を漕ぎ漕ぎ、やっと花屋に辿り着く。ポケットからお金を取り出し、「バラの花をください」。ところが、店の中にきれいな和服を着たおばさんがいわくありげにバラの花束を持って立っており、エプロン姿の店員が、「あいにくとバラの花はたった今、売り切れてしまいました」と言う。わたしはだまっておばさんの顔とおばさんが手にしているバラの花束を交互に見つめる。すると、おばさんが、「1本だけでもいいかしら。1本だけでゆるしてくれる?」。わたしはどぎまぎしながらも、うれしくて、差し出されたバラ1本をきつくにぎりしめ、「ありがとうございます」
 マサキさんの「ありがとうございます」は、たとえばそんなときの「ありがとうございます」なので、わたしは彼女の発するニュアンスをつかみたくて、役者がセリフを練習するように、「ありがとうございます」を何度も繰り返す。
 真似ることは、少し格好をつけて言えば、こころのかたちを自分の身にうつし取ることだ。師匠竹内敏晴は人の真似、正確には、人の姿勢を真似ることが本当に上手い。姿勢は、生きる、生きようとする勢いがかたちとなって現れる姿であり、竹内レッスンはそういう姿に触れる喜びと驚きの場でもあるのだろう。
 人それぞれのニュアンスをうつし取ることは、今風な言葉で言えば、いわゆる言葉以前のコミュニケーションの本質にかかわると言っても過言ではないだろう。

春風倶楽部

 小社PR誌『春風倶楽部』第13号の特集は「全集の魅力」。今月末を締め切りとし幾人かの方に原稿をお願いしたが、すでに数名の方から寄せられた。こちらが設定したテーマについて、どんな内容でどんなふうに書いてくださっているのか、どきどきしながら封筒を開ける。一読、なるほどとうなづくこともあれば、ふーと深い息が出ることもある。時には思わず大声で笑ってしまうことも。文章の力を改めて感じる瞬間だ。また、味読という言葉があるように、たしかに文章にはそれぞれ味があるものだ。

萩原朔太郎の場合

   憂鬱の川辺
  川辺で鳴つてゐる
  蘆や葦のさやさやといふ音はさびしい。
  しぜんに生えてる
  するどい ちひさな植物 草本の茎の類はさびしい。
  私は眼を閉ぢて
  なにかの草の根を噛まうとする
  なにかの草の汁をすふために 憂鬱の苦い汁をすふ
  ために。
  げにそこにはなにごとの希望もない。
  生活はただ無意味な憂鬱の連なりだ
  梅雨だ
  じめじめとした雨の点滴のやうなものだ
  しかし ああ また雨! 雨! 雨!
  そこには生える不思議の草本
  あまたの悲しい羽虫の類
  それは憂鬱に這ひまはる 岸辺にそうて這ひまはる。
  じめじめとした川の岸辺を行くものは
  ああこの光るいのちの葬列か
  光る精神の病霊か
  物みなしぜんに腐れゆく岸辺の草むら
  雨に光る木材質のはげしき匂ひ。
                       (『青猫』の一篇)

カネボウSALA

 資生堂マキアージュのCFについ見とれたことを先日ここに書いたばかりだが、今度はカネボウ。幻想的な絵柄の中に、首が捻じ曲がった長靴を穿いたアルマジロ、ラッパのくちばしを持つ白い鳥、これからパーティーにでも出かけていきそうな着飾った双子の貴婦人など、なんとも魅力的で不思議な登場人物たちに囲まれた物語世界。そこに美少女SALAが現れる。
 かつてサントリーローヤルのテレビコマーシャルで、砂漠でサーカスをしているような摩訶不思議なものがあった。キャッチコピーは、
  その詩人は底知れぬ渇きを抱えて放浪を繰り返した。
  限りない無邪気さから生まれた詩。
  世界中の詩人達が青ざめたその頃、彼は砂漠の商人。
  詩なんかよりうまい酒をなどとおっしゃる。
  永遠の詩人ランボオ。
  あんな男、ちょっといない。
 カネボウSALAのコマーシャルは、酒は出てこないけど、ちょっとあれを彷彿とさせる。わずか二十秒ほどなのに(だからこそなのか)、圧倒的で濃密な物語に驚かされる。物語がなければ生きていけない人間の哀しさがそこにある。

トップページ

 小社ホームページのグランドリニューアルを多聞くんが進めてくれているが、それに伴い、トップページを日替り持ち回りで書くことになった。これまで編集部の人間が週交代で書いてきたが、これからは営業部も加わる。読者に新しい風を感じてもらえればと願ってのことだが、本人にとっては何よりも文章修行になるだろう。さっそく昨日は初めての岡田くん。夏休み期間中の旅の思い出を書いてくれたが、ソウル・ミュージックにめっぽう詳しい彼のこと、その方面の話もいずれ聞かせてもらえるだろう。