むせ返る「生」

 エライ経済学者が手鏡をつかって女性の下着を盗み見ようとして警察に捕まったとき、作家でありタレントの室井佑月は、「わたしのでよければ見せてあげたのに」と、いかにも彼女らしいコメントを寄せていた。
 この経済学者、今度は電車内で女子高生に痴漢したとして現行犯で捕まった。なんでまた、と、わたしは思った。テレビのコメントも似たり寄ったり。室井佑月のコメントを思い出し、室井はブスではないし、むしろかわいい感じの人だから、半分は冗談にしても、そんなふうに言ってくれる人もいるのだから、もっと巧く事を運んで、なにも事件になるような危険を冒さなくてもよかったのに、と、そこまで考えが及んだとき、自分の浅はかさに気がついた。
 室井佑月ではおそらくダメなのだ。仮にそれが藤原紀香や吉岡美穂であっても。想像の域を出ないが、手鏡でも女子高生のパンツでも、そこにあるのは妄想がらみのむせ返る「生」であり、タレントのブランドみたいな売り物のエロスとは違う。老いていく(その先の死)人間として、むんむんするような「生」に直に触れたかったのだろう。被害者となった女性の屈辱を無視した発言であることは承知している。しかし、やるせない気がするのだ。ただ、やるせない。

佐太郎さんの好きな歌

 大好きだった祖母の兄の名を佐太郎さんといった。兄妹それぞれの家が近くだったから、兄は妹の家を訪ね、昼でもよく遊びにきた。祖父とも仲がよく、お茶を飲みながら話していた姿が眼に焼きついている。
 佐太郎さんは丸顔。禿頭。声が大きく、いつも明るい。好きな祖母の兄ということもあってか、わたしは佐太郎さんも好きだった。
 佐太郎さんのことで、どうしても忘れられない思い出がある。酒が入ると必ず歌う歌があった。三波春夫の「チャンチキおけさ」。みずから口三味線で、♪チャララ チャララ チャララララララ〜月が〜、と歌い出すのだが、いつもちょっとだけ。一番すら最後まで歌い通すことはなかった。宴席に集まった者たちは佐太郎さんの歌のクセをよく知っていたから、陰で「また途中で止めて話し始めるぞ」などと小声で冷やかした。間もなく佐太郎さんは本当に途中で歌を止め、ほろ酔いの体を傾けては大声で話し始めるのだった。「ほらね」あちこちからクスクス笑い声が洩れた。
 おとといだったか、テレビをつけたら、作家の森村誠一が出ていた。三波春夫が好きなのだという。森村誠一と三波春夫。ちぐはぐな感じもして、なんとなくその番組を見ていた。森村さん曰く、三波は根っからの明るい人で、三波本人は気づいていないところでも、彼の明るさのおかげでどれだけ多くの人が救われたか。その明るさは光源のようであり、おそらく、母の胎に着床した時点からのものだったろう、云々。三波春夫の歌で森村さんの一番好きな歌が「チャンチキおけさ」なのだという。ある時、ふと気がつけば、歌を聴きながら涙が頬をつたい、もう少し頑張って生きてみようと森村さん、励まされたそうだ。
 佐太郎さんの歌で知った三波春夫の「チャンチキおけさ」だが、歌詞をわたしは正確に知らないでこれまで来てしまった。佐太郎さんは、いつも決まって途中まで歌い、あとは、酒の席のどうでもいいような話に移っていったから。
 「チャンチキおけさ」の一番の歌詞はこうだ。
  月がわびしい 露地裏の 屋台の酒の ほろ苦さ
  知らぬ同志が 小皿叩いて チャンチキおけさ
  おけさ切なや やるせなや
 佐太郎さんの十八番の歌の歌詞を正確に知らないできて良かったのかもしれない。いま改めて、あの明るいメロディーで歌われる歌の歌詞を噛み締めると、少しは大人の味がわかる年齢になったわけだし、佐太郎さんがこの歌を好きで必ず歌っていたのも、なんとなくわかるような気がするからだ。
 月がわびしい 露地裏の〜、か。今度カラオケに行ったら歌ってみようかな。

第8期

 気がつけば、あーらら、今週から弊社8年目に突入していた。10月1日創立だから、めでたく7周年を経たことになる。どの版元もそうだろうが、本が売れなくて困っている。そこからいろいろな問題が生じる。思案のしどころ、知恵のだしどころ。売れることを前提に考えていたら手痛いしっぺ返しを食らう。今は、売れないことを前提に仕事をとらえ、そこからはじめて1冊でも多く売るためにどんな工夫が必要か、というふうに頭をつかわなければならない。他社のホームページも睨みながら、一発逆転の発想はゆめゆめ持たぬよう気を引き締めている。

カッワーリ初体験

 カッワーリはパキスタンの宗教音楽。CDでヌスラット・ファテ・アリ・ハーンを聴いたり、ビデオで観たりはしていたが、舞台での演奏をナマで観るのは初めて。多聞君のお母さんからいただいたチケットを持ち渋谷Bunkamuraへ。今回の演奏は、ファイズ・アリー・ファイズを主唱者とする楽団。ファイズは1962年、パキスタンのパンジャーブ州生まれで、7代続くカッワールの家柄で音楽の基礎を学びながらも、流派の違うヌスラットにあこがれ、エッセンスを吸収すべく研究したという。
 二階席で観たのだが、まず、その音圧というか声量に圧倒される。アッラーの神を称える詞の意味はわからないけれど、なにか祭にでも参加しているような感動が体を走る。ファイズにヌスラットの魂が宿ったかのよう。いのちがほとばしる。4曲ぶっ通しで演奏(1曲の演奏時間が長い!)し、演奏者が立ち上がった(カッワーリは、座って演奏する)とき、ファイズはエネルギーを使い果たしたかのようにフラフラとくず折れ、隣りの人間に腕を支えられて退場。スタンディング・オベーションの嵐。ナマの音楽の素晴らしさを堪能した夜だった。

東北は

 秋田の父から電話。米の収穫がすべて終了し、例年に比べかなりの豊作だったとのこと。夏から秋にかけての天候によって実の入りが大きく左右されるから、曇りが続いた日など、はてどんなものかと、こっちにいても気にかかる。保土ヶ谷のよく行くお店、小料理千成のマスターかっちゃんに訊いたところ、マスターの出身地・福島も豊作だったそうだから、日本海側、太平洋側の区別なく、東北は総じて豊作だったのかもしれない。二期作の地方もあるが、ほとんどの農家にとって収穫は一年に一度。収穫祭も今年は華やぐだろう。

物語

 小社PR誌『春風倶楽部』第6号の特集「物語の可能性」へ原稿を寄せてくれた山田太一さんは、「人間はむき出しの現実になど耐えられないから、いつも物語を必要としている」とおっしゃっている。原稿をいただいたときは、そのとおり理解したつもりになっていたが、今、ふと思い出して噛み締めてみると、なんと切実な言葉なのだろうと驚く。物語なしのリアル、むき出しの現実というのは、怖くて目を塞ぐか耳を覆いたくなるようなもので、例えば、ムンクのあの有名な絵は、そういう人間のリアルな姿を表現していたのかもしれない。

誤算

 会社を興してから3年目で刊行点数が50点を突破したとき、1ヶ月の取次(トーハン、日販、大阪屋など、本の問屋)経由の注文が合わせて600冊ぐらいだったと記憶している。わが社はもとから学術図書中心の出版社だから、いわゆる流行物、季節物とはちがって、流行り廃りがない。はずだった。アイテム50で月600冊ということは、順調にいけば100で1200冊。200で2400冊。うひょうひょうひょうひょひょひょひょ… となるはずだったのだ。
 いま、そのアイテム数がいよいよ200に近づこうとしている。今日のタイトルと話の流れからしてすでにお気づきかと思うが、アイテムが200になろうとしているのに取次経由の注文は、予想に遥かに及ばない。それほど市場が冷え切ってしまったのか。はたまた学術書といえども流行り廃りがあるということなのか。
 100年読み継がれる本をつくるこころざしはこころざしとして、そのために、それが売り切れるまでに100年かかっていたら堪らない。
 専務イシバシが書店営業をして奥邃を案内したところ、ある書店の店長が、おたくの社長はよほどの資産家の生まれなんでしょうなあ。こんな、聞いたこともないような人の全集を出すんですから…と、まともに言われ、笑うわけにもいかず返答に困ったという。その話を聞き、ああ、おいらの家は資産家さ。田もあれば畑もある。秋田杉の山もある大富豪なのさとうそぶくしかなかった。とほほ。
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