こころ

 このごろ思うことの一つに、なにごとによらず自分ひとりでやろうとすると、無理だし苦しくなる。人生七転び八起きという言葉もあるが、それにしたって、多くの人の縁と自分のではない力が働いてのことだろう。信じられるのは自分だけという若い力がみなぎる時期があってもいい。でも、今は違う。
 お世話になっているマッサージの先生にいただいた「世渡りの道」に、「天地に感謝 社会に奉仕 人をうやまい わが身慎め」とある。こころはどこにある。座禅の本に、普通は結んだ両手の掌(たなごころ)の上に置くと書いてあった。そんなふうに具体的に言われるとかえって混乱してしまうが、やはりこころというものはあって、まるく潤っていることは大事だ。

動く千手観音

 テレビで千手観音を観た。千手観音といえば、千の慈悲の眼と千の慈悲の手をそなえ、生あるものを救うという有難い仏様だが、テレビで観たのは、千手観音という名の舞踊。
 「中国障害者芸術団」は北京に拠点を置く団体で、「千手観音」は、生まれつき耳の聞こえない障害を持つ男女21人による舞踊。一糸乱れぬという喩えがあるが、その比喩がこれほど合致する表現を見たことがない。耳が聞こえないので、音に合わせるということができない。太鼓が空気を震わす振動を体で感じ取り、まっすぐ縦に並んだときの呼吸を次つぎ首に感じて自分の動きをコントロールし他のメンバーの動きに合わせるのだという。日頃の鍛錬と集中力の深さに圧倒される。動く千手観音を見た。観た。ほんと、びっくり。

かもめ食堂

 DVDで『かもめ食堂』を観た。小林聡美扮するサチエがフィンランドで日本食堂を経営しはじめ、そこを舞台に、悲喜こもごもの人生を垣間見せてくれる素敵な映画。現地でのロケだったらしく、いわくありげなフィンランド人も多く登場するが、そこはなんといっても、小林聡美、片桐はいり、もたいまさこの三人の個性派俳優の絡みが上質のテイストを醸し出していて、場面とセリフから目と耳を離せない。監督の荻上直子という人は初めて聞くけれど、(原作はあるにしても)伏線の張り方など巧いなあと思った。映像もきれいだし、物語もシンプルで(でも、つい観ちゃう)、料理も美味そう。まだの方はオススメです。

体験学習

 横浜にある、とある中学校から生徒に体験学習なるものをさせてもらえないかとの依頼があり、受け入れることにした。出版社の仕事がどういうものか、生徒数名から希望があったとのこと。おそらく、その学校では、いろいろな業種の会社に生徒を派遣し、体験学習をさせ報告書を提出させるのが恒例になっているのだろう。
 ところで、我が身を振りかえり、中学生で出版社に興味があるとは、時代もあるだろうが、さすが都会は違うなあと感心した。中学生だったわたしが出版社と本屋の違いを知っていたとは考えにくいからだ。まして、印刷所、製本所、紙屋、取次等々、本に関わる業種の違いなどわかろうはずもなかった。どれぐらいの知識と興味でやってくるのか楽しみ。それに、現役の中学生と話せる機会などそうそうないわけだし。来月後半の予定。

夜、寝る

 朝は起きてカーテンを開け、お日様の光を入れる。それから、窓を開けて深呼吸。昼は仕事。途中、食事にお茶。人間関係もある。たったひとことでも深く浅くひとを傷つけ励まし、こころにひびく。夜は、寝る。が、いろいろいろいろいろいろ。の想念に押し潰されそうになったり、ちょっと浮かれたアイディアがひらめいては消える。寝るための夜はなかなかやって来ない。久しぶりのビールのせい?

金メダル

 台風の影響か、先週は雨風にあおられ、傘を持たぬ日はなかったが、今週は打って変わって快晴の日が続いている。秋晴れ。運動会。小学生の頃、運動会のときだけ履く足袋が売られていて、それを履いて短距離を走ったものだ。確かに足は軽くなるのだが、慣れないせいで、かえって転ぶ生徒もいたような気がする。一等賞は丸く切った厚紙に金の色紙を貼ったメダルと鉛筆数本だったと記憶している。紐のついた金メダルはしばらく居間に飾っておいたが、いかんせん紙製なものだから、だんだんゆがみ、イカを炙ったような形になって、いつからか見なくなった。

見えないもの

 ずっと前に買って本棚に置いたまま読まずにきた本がいくつもある。あるとき、どういうわけだか目に止まり手にとってパラパラと頁をめくっているうちに、つい引きこまれて読む本がある。鎌田茂雄の『仏陀の観たもの』(講談社学術文庫)もそうしたものの一つ。
 仏教をわかりやすく説いた本は二十代の頃より好きで読んでいたから、おそらくこの本も題名に惹かれて買ったものだろう。それなのに読まずに積んでおいた。数日前、朝、ふと目に止まり読み始めたら止まらなくなった。わたしの意識がというよりも、本のほうが、ある種の「気」を発していて、それが今のわたしの気と同調したとでもいうのだろうか。
 人でも本でも木でも花でも石でも、それぞれの気を発していて、目には見えないけれども、こちらの気に反応してか、こちらが感応してかはわからないが、新しく発見したような気がして驚き、うれしくなることがある。
 『仏陀の観たもの』の中には『正法眼蔵随聞記』からの引用として、「花の色ろ美なりと云えども独り開くるにあらず、春風を得て開くるなり。学道の縁もまたかくの如し」の言葉が紹介されている。