F先生

 昼食から戻りしばらく経った頃、F先生から電話があった。懐かしい先生の声。「まもる君? 今日会える?」「ええ。もちろん」「会社に行けばいいかしら?」「はい。場所、分かりますか、先生。開洋亭の隣りのビル」「分かるわよ。これからバスで行くから二、三十分後には着くわ」。ということで、F先生が会いに来てくれることになった。この欄に以前書いたことがあるが、わたしが横浜で暮らすようになったそもそものきっかけを作ってくれたのがF先生だ。
 最新号の『春風倶楽部』に手紙を添えてお送りしたのだが、それを読んでくださったのだろう。
 先生が来社されたので、ザッと会社を見ていただき、それから一緒に社を出て、隣りの開洋亭の喫茶室に入った。ほかに客は誰もいなく静かでゆっくりできた。先生はコーヒー、わたしは紅茶を頼んだ。先生は、バッグの中からわたしが送った手紙をそっと出しテーブルの上に置いた。
 いろいろ話した。問わずがたりに話すとりとめのないわたしの話を黙って聞いてくださり、ときどきコメントしてくれる。ありがたかった。十代の頃、英語の通信添削の教師をしていた先生と知り合い、その後、わたしは大学に合格、横浜まで会いに来た。実際の先生がどんな人だろうとドキドキしながら待ち合わせ場所に行ったのを覚えている。
 大学卒業後、横須賀の高校に就職。結婚。離婚…。わたしの不義理で会わなくなって十年ものブランクがあったのに、一昨年、先生の自宅を訪ねたことから、おかげさまで関係が復活、また連絡し合えるようになった。その先生とテーブルを挟んで今こうして話している。不思議なような、当然のような、ちょっとふわふわした感覚で。
 気がつけば、すでに二時間半が経過していた。外へ出ると、もう薄暗かった。「じゃ、まもる君、またね」「はい、先生。今日はどうもありがとうございました」。先生はわたしを名前で呼ぶ数少ない人の一人だ。

探し物

 この欄で紹介した「黒糖梅飴」を、イシバシの友人が都内某所で見つけ、写真貼付の上、メールを送ってくださった。なんだか、こっちまでうれしくなった。
 仙台で学生をしていた頃、欲しい本があると、まず大学生協へ行って探す。ないとなれば、バイクで仙台市内の書店、古書店を隈なく探す。そうして手に取った本は、中身よりも何よりも、頬ずりしたくなるような大切なものになった。結局どこにもなく、元に戻って、生協で注文することもしばしばだった。
 子供の頃、弟とよく遊んだ。キャッチボールをしていて、とんでもない方向へボールを投げ、水を張った春の田に飛んでいってしまい、ズボンの裾をまくってボールを捜した。見つかることもあったが、見つからないこともあり、よく喧嘩した。
 弟とやる遊びで卓球があった。卓球は、読んで字のごとく「卓」の「球」だが、家には「卓」がなかった。ラケットはあった。コンクリートの庭に炭で線を引き、それを卓球台に見たててピンポン玉を弾く。ピンポン玉を使ったテニスみたいなもの。コンクリートの庭だから、ピンポン玉はよくつぶれた。急に卓球をしたくなった時に限って買い置きのピンポン玉がなく、売っている店は分かっているのだが、運悪く自転車がパンクしていた。歩いて買いに行ったら往復で二時間はかかる。パンクした自転車をゴトゴト言わせてピンポン玉を買いに行った…。
 ベランダに雀が来た。今日はポカポカ陽気。春はそこまで来ている。

体操の時間

 夜、寝る前に西式体操(故・西勝造氏発案による)をやっている。金魚運動、毛管運動、合掌合蹠運動、背腹運動<左右揺振運動>の四つだが、トータルで二十分はかかる。テレビを見ながらの二十分なら、あっという間なのに、体操の二十分となると相当ながく感じる。一計を案じ、BGMを流すことにした。ジャズ、ブルース、ポップス、ロック、インドの古典音楽、ナイジェリアの民族音楽等々、その日の気分でCDを替える。とたんに体操の時間が短く感じられるようになった。CD選びが気分にちょうどよくマッチした時など、音楽に聴き惚れてしまい時間を超過することもある。なんだか、得したような損したような変な感じ。それはともかく、こんなところにも音楽の効用があるのかと思った。エアロビクスでもジャズダンスでも、フィギュアスケートでも、音楽に合わせて体を動かす。あれ、音楽をとってしまったら、やるほうはもちろん、見るほうも、味気なくつまらなく、苦痛なものになるんではないかな。

チェット・ベイカー

 河出書房からチェット・ベイカーの伝記『終わりなき闇』が出たので、さっそくネットで注文し読み始める。A5判2段組500ページに及ぶ大作で、まだ数十ページ読んだに過ぎないから、感想を言える段階ではないけれど、波長が合わないものは、とっくに読むのを止めているはずなので、面白くなくはない(ややっこしい!)といったところか。本の帯に「ジャズ、女、麻薬、それがすべて。これがおれのトランペットから流れ出た悲哀の正体」とある。また、「異例のスピードでジャズ界のスターとなってから世界一有名なジャンキーへと成り下がった男」「ブルース・ウェーバーらが魅了された天才ジャズマンの人生を描ききった決定版」とも。
 といっても、チェット・ベイカーにそれほど思い入れがあるわけではない。彼の名前で出ているCDで、わたしが持っているのは、『チェット・ベイカー アンド クルー』と『チェット・ベイカー シングズ』だけ。特別な思い入れがあったら、こんな数ではないだろう。それなのに、彼の伝記を読んでみようと思ったのには、ちょっとした理由がある。
 彼のリーダーアルバムではないが、好きなジャズのCDにジム・ホールの『アランフェス協奏曲』がある。その中でトンランペットを吹いているのがチェット・ベイカーだ。
 大学に入り、何がきっかけでジャズを聴き始めたのか、はっきりと思い出せないが、聴き始めた数枚のジャズのレコード(当時CDはまだなかった)のうちの1枚がそれだった。すぐに、はまった。
 風呂上がり、寝る前に必ずといっていいほど聴いていた時期があった。クラシックの曲として知っていた『アランフェス』が、ジャズメンの手にかかると、こんなふうに身近に感じられるのか、と思った。おごれる者久しからず、といった文句を思い出したり、月並みだが、廃墟が目に浮かぶようでもあった。そのなんとも言えない、うらぶれて、物悲しい、それでいて懐かしいような澄んだ雰囲気を最もよく伝えているのがトランペットの音色だった。チェット・ベイカーという名前を、レコード盤に何度か何十度か針を落とした後にライナーノートで確認して覚えた。息の長い音が続いたあと、音がかすれ、かすれ、かすれ、そこで終わらずに、さらにまた続く。そこがなんとも印象深いのだった。チェット・ベイカーといえば、ぼくにとっては、あのワン・フレーズというか、長い1音というか、それがひっかかっていて、今回、伝記を読もうという気にさせられたのだろうと思う。

初校

 編集者の仕事のうちで、最も緊張するのが初校ゲラを著者に見てもらうことだ。いろいろ、本づくりにはポイントポイントで大事な勘どころがあるけれど、著者の原稿に第一の読者(=編集者)として手を入れる(ハッキリ言って、直す)のは、並大抵のことではない。
 第一の読者として、内容の理解はもちろん、著者の身体的リズムとでもいうのか、呼吸、文体を尊重しつつ、なおかつ、第二以降の読者(一般読者)が、著者の言いたいことを、より理解しやすいように配慮しながら、ていねいにていねいに読み、必要に応じて手を入れ、その行為が文章にどういう影響(悪影響を与えるなど、もってのほか)を与えたか、著者の意図するところを捻じ曲げていないか、よくよく注意しなければならない。
 手を入れるごとに、段落一つ、章一つもどって何度でも読み返すことが肝要だ。かといって、卑屈になってもいけない。著者の文章を尊重するという口実の下に、一字一句間違えずに入力、組むことで仕事が終わりとする考え方も一方にあるからだ。無難ということで言えば、それで著者とぶつかることはない。著者が書いた通りなのだから。誤解を恐れずに言えば、校正、校閲というのは、著者の文章を、著者以上に理解しなければできる仕事ではない。そのことに自信がなかったら、まずは、一字一句間違えなく入力、変換しているか確かめることから始めるべきだ。
 初校で、どこに手を入れたのかを著者が見れば、編集者としての力量は自ずとわかる。文章に手を入れたことで試されるのは、むしろ編集者のほうだ。真面目にやったから、で通るような甘い話ではない。
 初校を送り、著者からの連絡を待つ。緊張の時間。手紙の場合もあれば、電話でのこともある。こちらの仕事を信頼していただけたかどうかは、手紙の一文、電話のひとことで分かる。それをいただければ、極端なことを言えば、本はもう出来たも同然だ。
 こんなことがあった。あるとき、演出家の竹内敏晴さんから『春風倶楽部』の原稿がFAXで送られてきた。最後がどうしてもしっくりこない旨のコメントが添えられていたので、呼吸をととのえ、何度も何度も読み返し、しっくりこないと言ってきたその文章に、読点ひとつを入れ、「は」を「が」に直し返送。それが編集者としての私のなし得る精一杯だった。竹内さんからすぐに連絡があり、それで進めて欲しいとのこと。ホッと胸を撫で下ろした。竹内さんとはニ十年来の付き合いになるけれど、文章を読む、それも、編集者として読むとなると、付き合いの年数など関係ない。普段の付き合いとは別の真剣勝負の気配が支配していなければならない。勉強を怠らず、経験を踏むしかないようだ。

営業裏話 その2

 きのうの昼は、いつものように専務イシバシ、武家屋敷ノブコといっしょに外出。桜木町駅近くのスパイシーというカレー屋でカレーを食べた。カレーを食べながらする話ではないな、と一瞬頭をかすめたが、長い付き合いだし、ま、いっか、ということで、隣りにいたイシバシに「スイマグ飲んでる?」と訊いた。
 「それがね。飲んでたんだけど、ゆうべはちょっと飲むのをやめたのよ」
 「なんで。せっかくあげたのに。お腹の調子がスコブルよくなり、肩の凝りも取れたって喜んでたじゃないの」
 「そうなんだけどね。きのうOさんと営業で出かけた折に、ところかまわずオナラがぷっぷと出るのよ。ぷっぷ、ぷっぷ、ぷっぷ、ぷっぷ。外を歩いていてもぷっ。東大名誉教授の研究室でもぷっ。ノーベル賞と言ったとたんに、ぷっ。あのー、と言ったら、ぷっ。おいとまのあいさつをしてお辞儀したら、ぷっ。あまりに出るものだから、それでね、けさはちょっと飲むのを控えたわけ」
 「あはははは… そりゃ、おかしいわ。でも、それって、腸が活発に動いているっていう証拠じゃないの」
 「あ。そうか。なるほど」
 「そうさ」
 イシバシの隣りの武家屋敷は、二人の会話を聞いてくすくす笑っている。ちなみにスイマグは、西式健康法ではよく使われる下剤で、水酸化マグネシュウムが正式名。腸内容の浸透圧を高めて水分の吸収を抑え、液状にし排泄を容易にするというもの。スイマグの原料は海水100パーセントで、化学物質は一切使われていない。
 「それ、おもしろいからさ、明日のよもやまに書いていい?」
 「いいわよ。タイトル何にするの? ぷっぷ、ぷっぷ?」
 「営業裏話 その2、でいんじゃない? ところで、ぷっぷとやったとき、Oさんはどうしていたの?」
 「いや、なにも。悪いと思って黙っていたんじゃないかしら。でも絶対に聞こえていたはずよ。ぷっぷ、ぷっぷ、ぷっぷ、ぷっぷ。そりゃもう際限がないんだから…」
 「へ〜。あはははは…」

営業裏話

 きのうは午後から、専務イシバシと、このところこの欄にちょくちょく登場する営業の新人Oさんが連れ立って大学回りに出かけた。
 詳しいことは、本日出社してから聞けばいいわけだが、二人の珍道中ならぬ珍営業ぶりを早く知らせたかったのか、夜、イシバシから電話がかかってきた。概略まとめると、以下のようになる。
 いまは東大を退かれているらしいが、東大名誉教授でいらっしゃる先生の研究室に二人で入ったそうだ。あいさつした後、イシバシが先輩としていろいろ営業トークをしている間、Oさん、研究室内の書棚を眺めていた。これも営業の大事なポイントで、書棚をササッと眺めることで、かなりの情報が得られる。先生の説明を待つまでもなく、興味や関心の所在、研究の方向性みたいなものをうかがい知ることができるからだ。
 イシバシの営業トークが一段落ついた頃を見計らい、絶妙のタイミングでOさん、「書棚にダンテ関連の書籍が並んでいますね」と言ったそうだ。素晴らしい! なぜなら、なんてったって、ウチでは大部の『ダンテ神曲原典読解語源辞典』を出している。地獄篇、煉獄篇、天国篇とあり、一冊の本体価格が四万六千円と破格。しかし著者の福島先生がニ十年の歳月をかけて執筆した歴史的辞書なのだ。大江健三郎、柳瀬尚紀、中条省平の三人の碩学が絶賛し推薦文を寄せてくださった。
 東大名誉教授の先生、Oさんの言葉にピクリと反応したらしく、営業のイシバシ、それを見逃さなかった。間髪入れずに、「推薦文を三名の方からいただいておりまして、ひとりは、ノーベル賞を受賞した、あの有名な、えー、あの、ノーベル賞の、あのう…」と、大江健三郎の名前を大事な場面でド忘れしてしまったらしい。こういう時というのは、おかしなもので、焦れば焦るほど思い出せないものだ。そこで若いOさん、記憶力の衰えなどまったく感知せぬOさんが、「湯川秀樹!」と叫んだ。そう! ノーベル賞と言ったら湯川秀樹。日本人で初めてノーベル賞を受賞した人。早押しクイズ。ピンポ〜ン!! んなわけがない。
 その話をイシバシから電話で聞いて、大江健三郎の名前を忘れるイシバシもイシバシなら、ノーベル賞と聞いて、パブロフの犬じゃあるまいし、条件反射みたいに「湯川秀樹!」と言ったOさんもOさんだと思った。今はダンテの話、文学のことであって、物理学は関係ないじゃないの。ま、ここに、現代日本の教育における深い問題が象徴的に現れていると、わたしは見たね。Oさんの名誉のために言っとくと、彼女は名のある有名国立大学を出ている。また、日々、イシバシに就いて力をつけている。営業のパンフレットも自分で作れるようになった。商品知識もずいぶん増えたろう。そのOさんが大江健三郎の名前を忘れたとは考えにくい。ところが、ノーベル文学賞ではなくノーベル賞と聞いて、早押しクイズとばかりに「湯川秀樹!」が口をついて出てしまったのだろう。
 というようなことがあったそうだが、東大名誉教授のその先生、『ダンテ神曲原典読解語源辞典』をまとめて三冊、ご自身の研究費で購入してくれることを約束してくれたそうだから、それは本当によかった。